明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~

クリスチャン。デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者で電動車椅子と人工呼吸器を使っている。

孤独、沈黙、黙想。ただ神に向かう。

2015年10月24日 16時05分45秒 | キリスト教
こんにちは。
先日の祈りを通して、次のようなことを思いめぐらしていました。

孤独を癒すだけなら、愛情ながく続かない。
好きな歌のフレーズ(一番下の動画)。

以前の僕は孤独が嫌で嫌で、寂しい、愛されたいって叫んでいた。

でも、それでは人を自分の思い通りにしたくなる。

孤独な時間を生きることができて初めて、
人を抑圧することなく、愛せるんだ、と思う。

【大切なのはどれだけ相手を愛するかではなく、
相手にとって自分は何かを知ることだ。(偶然の旅行者)】 

【愛する者と一緒に暮らすには一つの秘訣がいる。
すなわち、相手を変えようとしないことだ。(シャルドンヌ)】 

【愛されないのは悲しい。
しかし、愛することができないというのはもっと悲しい。(ミゲル・デ・ウナムーノ)】


挙げた3つの言葉は本当にそうだなぁと思う。

孤独を癒やしたい、寂しいから愛されたい。
これではすぐに愛情は消え失せてしまう。
以前の僕もそうだった。

結局、自分の欲求不満を相手にぶつけているに過ぎない。

孤独、沈黙、黙想。欠かせない。
自分を自制して、人を抑圧せずに愛し、平安に生きるために。

聖書の言葉と沈黙の中で祈りに入っていくことで、
僕たちは、神様に永久に愛されている、
主イエスキリストにあって大切な神様の子供であることを示される。

沈黙の中で孤独に座り、聖霊様のお導きで心の雑音を消すことで、
神様が僕たちに働いてくださる。
これが黙想(祈り)の醍醐味なんだと思う。


黙想(祈り)において、
神様の御言葉が、僕たちの内に入ってきて留まり、
僕たちを動かし、僕たちに働いてくださるのだから、

僕たちは一日中、御言葉から逃れることができず、
神様の御言葉は僕たちを幸福な気持ちに、そして平安にしてくださる。

【ボンフェッファー】

「聖書を読んで思いをめぐらすことから、祈りへと導かれる。
最も約束に満ちた祈りへの道は、聖書の言葉に導かれることであり、
聖書の言葉に基づいて祈ることで、私たちは自分自身の空虚さに迷い込むことはない。
祈るということは、御言葉を自分のものとするために備えるということ。」

【ヘンリ・ナウエン】

「イエスは、イエスの与える愛を私たちが受け取ることを望んでおられます。
何よりも私たちがその愛を受け入れ、それを楽しむことを望んでおられます。

これはとても困難なことです。
自分は差し出される愛に値する存在であらねばならないと、いつも感じてしまうからです。

しかし、イエスが愛を差し出されるのは、私たちがそれに値するからではなく、
どんな努力とも関係なく、すでに、私たちを愛することに決めておられるからです。」


新共同訳聖書 詩編 62編1~9節

【指揮者によって。エドトンに合わせて。賛歌。ダビデの詩。】

わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。

神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。

お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。
亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし 、
人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。
常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う。

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。

神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない。

わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。

民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。


♪Still / FIELD OF VIEW♪

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いつも喜びが

2015年10月19日 20時56分43秒 | キリスト教
【新共同訳聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5章16~18節】

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」


祈りは、全知全能の創造主なる神様と、その恵みによらねば永遠の命に生きることができない私たちとの対話だ。
私たちは、神様のご臨在を信じ、自分が無力であることを感じて、神様に身を委ねることを通して、絶えず祈っていける。

人類の堕落によって神様と断絶状態にあった私たち罪人だけど、
イエス様が十字架の贖いと復活を成し遂げてくださり、
イエス様を信じている私たちは、罪と死から救い出されて、
神様の御前に出られる神の子とされていることを思うと、
いつも僕は祈るたびにすごく喜びが溢れてくる。


たとえ苦難の中にいても、祈りを通して神様と対話ができる。
「辛い!なぜ苦難があるのですか!」と神様に訴え続ける祈りをすることで、
次第に神様に救いを求める祈りに変えられて、
どんな時も共にいてくださる神様を賛美できるようになっていく。

苦難の中にいると神様の沈黙を感じてしまうけど、
神様は「わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」という御言葉を必ず守ってくださるんだ。

苦しい!と叫ぶような祈りであっても、
賛美に導いて、喜びを与えてくださる神様に感謝!


絶えず祈るからこそ、
祈りを通して神様の御前に出られることをいつも喜んでいけるし、
人生の全てのことは神様がお与えになっているものだから、
どんなことにも感謝していけると思う。

ちなみに、最近しばらく苦しみの中でもがいていたけど、
祈りと賛美の中で、苦しみながらもイエス様の似姿に変えられていく喜びを改めて示されました。
このことは週末に載せます。





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