前編の記事を読む人はこちらの文字をクリックしてください
以上のように、聖書から学んで、心から信じても、神様の子どもであるクリスチャンとして生きる喜びは感じられるけど、やっぱり病の痛みのただ中にいると辛くてたまらないし、苦しみながら若く死ぬことは嫌だと思ってしまう。でも、気付いたんです。
苦難の謎はその理由を問う思いを引き起こします。でも、苦しみの原因を知ろうとしても、答えは得られないし、人間が考えることは苦難の謎への正しい答えとはなりません。
苦難の謎を前にして、僕たちが見つめていくべきことは、苦しみの原因ではなくて、苦しみにおいて神様が、イエス様によってどのような御業を行われるのか、御業によって苦しみにどのような意味が与えられていくのか、なのです。
僕たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださったイエス様が、苦しんでいる人々を決して見過ごしにはなさらず、寄り添いながら共にいてくださり、苦しみを共に背負ってくださり、ご自身の復活による罪と死に対する勝利と新しい命の恵みを与えてくださる、このイエス様の御業を信じて見つめていくことが、苦難の謎を前にして、僕たちがなすべきことなのです。
そして、イエス様は僕たちと一緒にこの御業を行おうとしてくださるのです。イエス様の御業に加えられて、用いられていくことを通して、苦難の理由が、その原因ではなくて目的と意味が、僕たちに示されていくと思うのです。
僕たちの人生から苦難の謎が消えることはありません。でも、僕たちが苦しみの謎に直面して、それを神様の御手による出来事として受け止めて、神様と向き合っていくなら、イエス様の御業を見つめていくなら、苦難の中に神様の救いの御業が現わされて、僕たちに生きる希望と使命が与えられていく、と聖書は告げているのです。
【マザー・テレサ】
「苦しみは、苦しみそれ自体では虚しいもの。しかし、キリストの受難を分かち合う苦しみは素晴らしい神様からの贈物です。人の捧げる最も美しい贈物は、キリストと苦しみを分かつことができること。そうです。それこそ、キリストの愛の贈物であり、愛のしるしです。なぜなら、御父は、御独り子を私たちのために死に渡されることによって、世を愛しておられることを証されたからです」
病は神様からのものではないと言う人もおられますし、神様に祈り続ければ必ず病は癒やされます、と言う人たちもおられます。もちろん神様の御心なら必ず癒やされると信じています。でも、ずっと祈り続けていても、病のまま亡くなられたクリスチャンの方々を多く知っているし、病のままで生き抜くことが神様の御心だと示された人もいる。
【新改訳 ヨハネ福音書15:16】
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」
僕は自分の病が神様から与えられたものだと確信しています。僕は自分の意志で生まれ、望んで難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、僕は神様からの任命を受けて、難病の体に選ばれた、と感じたんです。神様が共にいてくださって、難病の人生の使命を果たしなさい、と神様が任命して下さったからこそ、いま難病の人生にチャレンジしているんです。
だから、難病の僕は神様の失敗作ではない、僕は神様の深い計画によって創られて、神様が創られた喜ばしい存在として生きている、と思えるようになりました。病も神様の喜ばしい御心によって与えられるんですね。
僕は自分という人間であることが幸せだし、神様が僕をこうお創りになったのには、必ず意味と目的があると信じています。「難病を通して福音を伝えていきなさい、難病の人生で育まれる信仰と希望と愛を伝えていきなさい」という使命が神様から与えられていると感じています。
また、難病は神様から与えられた賜物です。僕はこの難病だからこそ、神様のご栄光をあらわすことができるのです。なぜなら、この難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、今まで築き上げて来た人間関係があるからです。
ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、もしこの難病になって生まれて来なかったら、今まで自分に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまうと思うんです。神様はひとりひとりの人間を用いて働かれますから、神様と隣人との関係から考えたら、僕にとって難病は賜物なのです。
病には次の3つの賜物があると思います。
① 病の苦難を通して神様に委ねることができる
人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神様のもとへと帰ることです。人の心は神様に委ねるまでは決して安らぐことはないからです。ですから、どうしても神様のもとへと戻らねばなりません。病を含む苦難とは、神様に委ねるための『痛み』なのです。自分ではどうしようもできない苦難のただ中に置かれた時に、初めて人は心の底から神様に委ねることができるのです。
そして、苦難を通して、神様によって生かされていること、隣人との関わりによって支えられていることを体感するのです。人は誰も孤独では生きられません。生きている時点でひとりではないのです。
【新改訳 マルコ福音書10:15】
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」
「この子どもとは象徴であって、それは拒絶され、軽蔑された人間であり、権力も体力も誇りもなく、非常に弱い立場で人に頼り、援助者のおかげで生きている人を指している」とG・ミュラー・ファーレンホルツは語っています。
この子どもとは、このように存在のすべてを神様のご支配に委ねて、何ひとつ自分に依り頼まない者のことであり、その存在において信仰告白をしている者のことです。病を抱えている人も同様に、何ひとつ自分に依り頼むことができない病の体と心は、神様の視点から捉えると、信仰告白に導く賜物なのです。
【悲しみよ / 水野源三】
悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったら つよくなかったら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ
② 病を通して痛みを分かち合うことができる
病を抱えているからこそ、病や弱さを抱えている人たちを慰めることができます。痛みに対する憐れみ(隣人愛)は、痛みを共有することによってのみ持つことができるのです。イエス様ご自身が十字架の痛みを背負ってくださり、病の人となられました。ですから、イエス様は痛みに対する憐れみ(隣人愛)と慰めを持っておられます。これをイエス様から与えられることによって、苦しみの中にいる人たちにイエス様の憐れみを伝えて、共に痛みを分かち合い、慰めることができるのです。
【新共同訳 第二コリント書1:4~6】
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」
神様は、「僕は難病だけど、こう生きている」ことを人に見せなさい、という機会をお与えになったのです。この病を通して、人を助けなさい、ということだと思うのです。
旧約聖書の預言者たち・新約聖書の使徒たち・歴史のなかで迫害されたクリスチャンたちは、僕には想像もできないほどの苦難の人生を送りました。
でも、それは「神様の言葉」を語るが故の苦しみであったのです。苦しみを体験したからこそ、神様の救いの言葉を大胆に伝えることができるのです。福音を伝える人は、自ら福音に生きる人ですから、僕も「神様の言葉」を伝えるために、難病の身体で苦しんでいるのです。そうして、僕の生命の中に信仰が染み込んでいくのですだから。
【ジョージ・マクドナルド】
「神の子が苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、人間の苦しみもまた、彼のそれに似るためであった」
難病の僕は、イエス様のような生き方、つまり、苦しんでいる人に近づき、その痛みを共に担う生き方に生きる希望を見出したいです。もちろん僕自身が苦しみのなかにある人間だから、人の苦しみに寄り添うことは限界がありますし、体験したことが無くて分からない苦しみもたくさんあります。
でも、イエス様の苦しみに少しでも倣えたら・・・と思います。【新共同訳 ローマ書12:15】「泣く人と共に泣きなさい」という言葉を心から実践できる人は、泣いている相手と同じくらい泣いた人、苦しんでいる相手と同じくらい苦しんだ人なのだと思います。ここに難病の僕が生きる希望があります。
病を含む痛みとは愛を作りあげていくものです。心と体で痛みを感じることで、人の痛みが分かるようになるのだから。痛みの中で生きているからこそ、時が経つにつれ、自分の中で愛が育まれ、馴染んでいき、愛はより深いものになっていくのです。難病の僕を生かしてくれるものは愛なのです。だから僕は難病で苦しんでいるのです。この世は愛を育むためにあり、愛さえあれば失うものは何ひとつないのです。愛は全てを完成させる絆なのですから。
【ウィル・デューラント】
「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである」
【新共同訳 第二コリント書4:8~11】
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」
③ 病の苦難にいる人の証しは力強い
どんな人から見ても幸せな人生を送っている人が神様を賛美しても、人々にとって力強い証しにはなりにくいです。でも、苦難の中にいる人が神様を賛美するとき、「どうしてこれほど苦しい人生なのに、喜びを持って生きることができるのだろう」と人々にとって力強い証しになります。
苦難の中で育まれた信仰は決して枯れることはなく、苦難は信仰を大きく成長させます。クリスチャン同士の人格的な交わりを通して、神様の恵みを味わうことができるのですから、難病の僕の信仰が成長すればするほど、他のクリスチャンの方々の信仰を支えることにもなるのです。
また、人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めてくださいます。難病の僕であっても、神様から生きる希望と使命を与えられているからこそ、僕は生きる価値があるのです。生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるのだと思います。だから、自分や人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるんですよね。不幸だと思われる者に神様の御心と御業が現れるとき、多くの人たちへの証しになるのだと思います。
そして、僕は難病でクリスチャンです。自分は不幸だ、神様が悪いと思っていれば、全ての病の方々やクリスチャンがそういう目で捉えられてしまいます。僕が生きることから逃げれば、病の方々やクリスチャンを危険にさらすことになります。でも、神様から与えられる希望を失くさないで、喜びを持って生きていれば、病の人は不幸だと思う人は少なくなりますし、僕の難病を通して神様の存在を証明することになると信じています。僕の諦めない生き様が、日本中におられる病の方々やクリスチャンを守ることにつながるのだと思います。
【新共同訳 エフェソ書3:12~13】
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」
僕はこのように難病の人生に意味を見出すことができましたが、病の悪化によって苦しみは増す一方ですし、日毎に何もできない体になっていくのが辛くてたまりません。でも、だからこそ、病の苦しみを通して、僕の体も世界も、罪の悲惨に苦しんでいる、イエス様の十字架の贖いが必要である、ということを体感するのです。僕は病の苦しみでベッドの上に横たわっているとき、心臓の病で闘病された時の熊澤先生の言葉を思い起こします。
【熊澤義宣 牧師】
「全く無力な姿でベッドの上に、横たわっているそのどん底におちこんだわたしをゆるして、血を流してまでもわたしの一番下の所で、ベッドの下でしっかりと受け止めようとされている神の愛が、その十字架の中には含まれている」
【新改訳 ヨブ記19:25~26】
「私は知っている。私を贖う方(イエス様)は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」
聖書が教えている復活の希望がなければ、僕は今ごろ絶望の海の底に沈んでいたと思います。難病の苦しい人生を過ごしたのに、死んだら無になるなんて虚しいだけですから。
スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。
多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病に見舞われたりすることもあります。未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実の僕たちの人生です。自らの人生を振り返るとき、この人生で本当によかった、と言える人はあまり多くないと思います。
特に、生まれつき、あるいは予期しない出来事によって、自分の責任ではなく、不十分な人生しか送ることができない人にとっては、この世の価値判断によれば、何のための人生だったのか?という問いを抱えたまま、死を迎えることになります。
でも、最後には、「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのだろうか?」という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、神の国で完成へと導いてくださるのです。
イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、どんなに人生に絶望しても、必ず復活することができるから、絶望する勇気さえ持つことができるのです。たとえ、僕は若く死んだとしても、死んだ後に滅びない栄光の体に復活して、神の国で永遠の幸せを感じながら、神様と共に永遠に生きることができるから良いのだと思います。神様との永遠の愛の交わりが、人間にとって最高の幸せであり、究極の生きる目的なのですから。
【新改訳 第一コリント書15:38~44】
「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」
【苦しまなかったら / 水野源三】
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった
にほんブログ村
この画像をクリックしてくださると、当ブログのランキングがアップします。
ありがとうございます。
以上のように、聖書から学んで、心から信じても、神様の子どもであるクリスチャンとして生きる喜びは感じられるけど、やっぱり病の痛みのただ中にいると辛くてたまらないし、苦しみながら若く死ぬことは嫌だと思ってしまう。でも、気付いたんです。
苦難の謎はその理由を問う思いを引き起こします。でも、苦しみの原因を知ろうとしても、答えは得られないし、人間が考えることは苦難の謎への正しい答えとはなりません。
苦難の謎を前にして、僕たちが見つめていくべきことは、苦しみの原因ではなくて、苦しみにおいて神様が、イエス様によってどのような御業を行われるのか、御業によって苦しみにどのような意味が与えられていくのか、なのです。
僕たちのために十字架の苦しみと死を引き受けてくださったイエス様が、苦しんでいる人々を決して見過ごしにはなさらず、寄り添いながら共にいてくださり、苦しみを共に背負ってくださり、ご自身の復活による罪と死に対する勝利と新しい命の恵みを与えてくださる、このイエス様の御業を信じて見つめていくことが、苦難の謎を前にして、僕たちがなすべきことなのです。
そして、イエス様は僕たちと一緒にこの御業を行おうとしてくださるのです。イエス様の御業に加えられて、用いられていくことを通して、苦難の理由が、その原因ではなくて目的と意味が、僕たちに示されていくと思うのです。
僕たちの人生から苦難の謎が消えることはありません。でも、僕たちが苦しみの謎に直面して、それを神様の御手による出来事として受け止めて、神様と向き合っていくなら、イエス様の御業を見つめていくなら、苦難の中に神様の救いの御業が現わされて、僕たちに生きる希望と使命が与えられていく、と聖書は告げているのです。
【マザー・テレサ】
「苦しみは、苦しみそれ自体では虚しいもの。しかし、キリストの受難を分かち合う苦しみは素晴らしい神様からの贈物です。人の捧げる最も美しい贈物は、キリストと苦しみを分かつことができること。そうです。それこそ、キリストの愛の贈物であり、愛のしるしです。なぜなら、御父は、御独り子を私たちのために死に渡されることによって、世を愛しておられることを証されたからです」
病は神様からのものではないと言う人もおられますし、神様に祈り続ければ必ず病は癒やされます、と言う人たちもおられます。もちろん神様の御心なら必ず癒やされると信じています。でも、ずっと祈り続けていても、病のまま亡くなられたクリスチャンの方々を多く知っているし、病のままで生き抜くことが神様の御心だと示された人もいる。
【新改訳 ヨハネ福音書15:16】
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」
僕は自分の病が神様から与えられたものだと確信しています。僕は自分の意志で生まれ、望んで難病になって生まれて来た訳ではありません。ということは、僕は神様からの任命を受けて、難病の体に選ばれた、と感じたんです。神様が共にいてくださって、難病の人生の使命を果たしなさい、と神様が任命して下さったからこそ、いま難病の人生にチャレンジしているんです。
だから、難病の僕は神様の失敗作ではない、僕は神様の深い計画によって創られて、神様が創られた喜ばしい存在として生きている、と思えるようになりました。病も神様の喜ばしい御心によって与えられるんですね。
僕は自分という人間であることが幸せだし、神様が僕をこうお創りになったのには、必ず意味と目的があると信じています。「難病を通して福音を伝えていきなさい、難病の人生で育まれる信仰と希望と愛を伝えていきなさい」という使命が神様から与えられていると感じています。
また、難病は神様から与えられた賜物です。僕はこの難病だからこそ、神様のご栄光をあらわすことができるのです。なぜなら、この難病で生まれて来たからこそ、今の自分の性格や人生になれたし、今まで築き上げて来た人間関係があるからです。
ひとりの命は自分に関わっている人たちに何かしらの影響を与えていますし、もしこの難病になって生まれて来なかったら、今まで自分に関わってくれた人たちの性格や人生が何かしら変わってしまうと思うんです。神様はひとりひとりの人間を用いて働かれますから、神様と隣人との関係から考えたら、僕にとって難病は賜物なのです。
病には次の3つの賜物があると思います。
① 病の苦難を通して神様に委ねることができる
人間にとっての真の救いとは、命を与えてくださった神様のもとへと帰ることです。人の心は神様に委ねるまでは決して安らぐことはないからです。ですから、どうしても神様のもとへと戻らねばなりません。病を含む苦難とは、神様に委ねるための『痛み』なのです。自分ではどうしようもできない苦難のただ中に置かれた時に、初めて人は心の底から神様に委ねることができるのです。
そして、苦難を通して、神様によって生かされていること、隣人との関わりによって支えられていることを体感するのです。人は誰も孤独では生きられません。生きている時点でひとりではないのです。
【新改訳 マルコ福音書10:15】
「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」
「この子どもとは象徴であって、それは拒絶され、軽蔑された人間であり、権力も体力も誇りもなく、非常に弱い立場で人に頼り、援助者のおかげで生きている人を指している」とG・ミュラー・ファーレンホルツは語っています。
この子どもとは、このように存在のすべてを神様のご支配に委ねて、何ひとつ自分に依り頼まない者のことであり、その存在において信仰告白をしている者のことです。病を抱えている人も同様に、何ひとつ自分に依り頼むことができない病の体と心は、神様の視点から捉えると、信仰告白に導く賜物なのです。
【悲しみよ / 水野源三】
悲しみよ悲しみよ 本当にありがとう
お前が来なかったら つよくなかったら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ お前が私を
この世にはない大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとにつれて来てくれたのだ
② 病を通して痛みを分かち合うことができる
病を抱えているからこそ、病や弱さを抱えている人たちを慰めることができます。痛みに対する憐れみ(隣人愛)は、痛みを共有することによってのみ持つことができるのです。イエス様ご自身が十字架の痛みを背負ってくださり、病の人となられました。ですから、イエス様は痛みに対する憐れみ(隣人愛)と慰めを持っておられます。これをイエス様から与えられることによって、苦しみの中にいる人たちにイエス様の憐れみを伝えて、共に痛みを分かち合い、慰めることができるのです。
【新共同訳 第二コリント書1:4~6】
「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。
わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」
神様は、「僕は難病だけど、こう生きている」ことを人に見せなさい、という機会をお与えになったのです。この病を通して、人を助けなさい、ということだと思うのです。
旧約聖書の預言者たち・新約聖書の使徒たち・歴史のなかで迫害されたクリスチャンたちは、僕には想像もできないほどの苦難の人生を送りました。
でも、それは「神様の言葉」を語るが故の苦しみであったのです。苦しみを体験したからこそ、神様の救いの言葉を大胆に伝えることができるのです。福音を伝える人は、自ら福音に生きる人ですから、僕も「神様の言葉」を伝えるために、難病の身体で苦しんでいるのです。そうして、僕の生命の中に信仰が染み込んでいくのですだから。
【ジョージ・マクドナルド】
「神の子が苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、人間の苦しみもまた、彼のそれに似るためであった」
難病の僕は、イエス様のような生き方、つまり、苦しんでいる人に近づき、その痛みを共に担う生き方に生きる希望を見出したいです。もちろん僕自身が苦しみのなかにある人間だから、人の苦しみに寄り添うことは限界がありますし、体験したことが無くて分からない苦しみもたくさんあります。
でも、イエス様の苦しみに少しでも倣えたら・・・と思います。【新共同訳 ローマ書12:15】「泣く人と共に泣きなさい」という言葉を心から実践できる人は、泣いている相手と同じくらい泣いた人、苦しんでいる相手と同じくらい苦しんだ人なのだと思います。ここに難病の僕が生きる希望があります。
病を含む痛みとは愛を作りあげていくものです。心と体で痛みを感じることで、人の痛みが分かるようになるのだから。痛みの中で生きているからこそ、時が経つにつれ、自分の中で愛が育まれ、馴染んでいき、愛はより深いものになっていくのです。難病の僕を生かしてくれるものは愛なのです。だから僕は難病で苦しんでいるのです。この世は愛を育むためにあり、愛さえあれば失うものは何ひとつないのです。愛は全てを完成させる絆なのですから。
【ウィル・デューラント】
「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、優しくなるかのどちらかである」
【新共同訳 第二コリント書4:8~11】
「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。 わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」
③ 病の苦難にいる人の証しは力強い
どんな人から見ても幸せな人生を送っている人が神様を賛美しても、人々にとって力強い証しにはなりにくいです。でも、苦難の中にいる人が神様を賛美するとき、「どうしてこれほど苦しい人生なのに、喜びを持って生きることができるのだろう」と人々にとって力強い証しになります。
苦難の中で育まれた信仰は決して枯れることはなく、苦難は信仰を大きく成長させます。クリスチャン同士の人格的な交わりを通して、神様の恵みを味わうことができるのですから、難病の僕の信仰が成長すればするほど、他のクリスチャンの方々の信仰を支えることにもなるのです。
また、人間が生きる価値は、自分や人が決めるのではなく、自分を存在させている神様が決めてくださいます。難病の僕であっても、神様から生きる希望と使命を与えられているからこそ、僕は生きる価値があるのです。生きる喜びとは、そのような神様の愛を知ることにあるのだと思います。だから、自分や人が不幸だと思えることの中からも、意味を見出すことはできるんですよね。不幸だと思われる者に神様の御心と御業が現れるとき、多くの人たちへの証しになるのだと思います。
そして、僕は難病でクリスチャンです。自分は不幸だ、神様が悪いと思っていれば、全ての病の方々やクリスチャンがそういう目で捉えられてしまいます。僕が生きることから逃げれば、病の方々やクリスチャンを危険にさらすことになります。でも、神様から与えられる希望を失くさないで、喜びを持って生きていれば、病の人は不幸だと思う人は少なくなりますし、僕の難病を通して神様の存在を証明することになると信じています。僕の諦めない生き様が、日本中におられる病の方々やクリスチャンを守ることにつながるのだと思います。
【新共同訳 エフェソ書3:12~13】
「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」
僕はこのように難病の人生に意味を見出すことができましたが、病の悪化によって苦しみは増す一方ですし、日毎に何もできない体になっていくのが辛くてたまりません。でも、だからこそ、病の苦しみを通して、僕の体も世界も、罪の悲惨に苦しんでいる、イエス様の十字架の贖いが必要である、ということを体感するのです。僕は病の苦しみでベッドの上に横たわっているとき、心臓の病で闘病された時の熊澤先生の言葉を思い起こします。
【熊澤義宣 牧師】
「全く無力な姿でベッドの上に、横たわっているそのどん底におちこんだわたしをゆるして、血を流してまでもわたしの一番下の所で、ベッドの下でしっかりと受け止めようとされている神の愛が、その十字架の中には含まれている」
【新改訳 ヨブ記19:25~26】
「私は知っている。私を贖う方(イエス様)は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る」
聖書が教えている復活の希望がなければ、僕は今ごろ絶望の海の底に沈んでいたと思います。難病の苦しい人生を過ごしたのに、死んだら無になるなんて虚しいだけですから。
スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。
多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病に見舞われたりすることもあります。未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実の僕たちの人生です。自らの人生を振り返るとき、この人生で本当によかった、と言える人はあまり多くないと思います。
特に、生まれつき、あるいは予期しない出来事によって、自分の責任ではなく、不十分な人生しか送ることができない人にとっては、この世の価値判断によれば、何のための人生だったのか?という問いを抱えたまま、死を迎えることになります。
でも、最後には、「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのだろうか?」という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、神の国で完成へと導いてくださるのです。
イエス様が与えてくださる復活を信じている人は、どんなに人生に絶望しても、必ず復活することができるから、絶望する勇気さえ持つことができるのです。たとえ、僕は若く死んだとしても、死んだ後に滅びない栄光の体に復活して、神の国で永遠の幸せを感じながら、神様と共に永遠に生きることができるから良いのだと思います。神様との永遠の愛の交わりが、人間にとって最高の幸せであり、究極の生きる目的なのですから。
【新改訳 第一コリント書15:38~44】
「しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。すべての肉が同じではなく、人間の肉もあり、獣の肉もあり、鳥の肉もあり、魚の肉もあります。また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、太陽の栄光もあり、月の栄光もあり、星の栄光もあります。個々の星によって栄光が違います。
死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです」
【苦しまなかったら / 水野源三】
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった

この画像をクリックしてくださると、当ブログのランキングがアップします。
ありがとうございます。