スイス人の医師 ポール・トゥルニエ の著作『老いの意味』に、「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とある。
多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病気に見舞われたりすることもある。未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実のわたしたちの人生でしょう。自らの人生を振り返るとき、この人生で本当によかったと言える人は幸いだと言わねばならない。
とくに、生まれつき、あるいは予期しない出来事によってか、自分の責任ではなく、不十分な人生しか送り得ない人にとっては、この世の価値判断によれば、何のための人生だったのかとの問いを抱えたまま、死を迎えなければならないのだろうか?
しかし、最後には「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのでしょうか?」という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、その神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、完成へと導いてくださる、この答えを知っている者は幸いだ。
そのことをよく表す言葉に、「明日が世界の終わりでも、わたしは今日、りんごの木を植える」(ルター) という有名な言葉がある。
明日が世界の終わりでも、その向こうにもうひとつの世界が広がっているなら、今日、りんごの木を植えることができる。信仰者にとってこれは、究極の神様を信じる終末信仰が言わせる生き方であると言える。
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僕は生まれつきの難病だ。この世の価値判断で考えれば、不十分な人生を送っている。
一生懸命勉強を頑張っていた大学受験のときに、病気が急激に悪化して、未完了のまま受験が終わってしまった。
今も将来に向けて勉強を頑張っているけど、これからも病気は悪化し続け、全てが未完了のまま終わるかもしれない。
難病で生きる意味が少しずつ分かってきたと言っても、「私の人生は何なのか?」「何のために生きて来たのでしょうか?」と病気が悪化する度に嘆いてしまう。
また、いつも自分の限界を感じる。自分の愛の不完全さ、自分の出来の悪さ、病気の苦しみなど…。
でも僕は嘆きの問いごと受け止めて下さる神様を信じている。「私が希を生まれつきの難病にしたのだから、不十分な人生でも私は受け止める。また希にとって万事が益となるように私は導く」ときっと神様は仰って下さる。
人間は死ぬまで不完全だ。また、この世では人間の人生は完結しない。
でもイエス様は死人の中から復活し、死人の復活の初穂となって下さった。未完了な人生であっても、神様は、僕らを復活を通して完全な身体と霊に生まれ変わらせ、完全な世界である天国へと導いて下さる。
神様は聖書にある約束を絶対に破らない方です。最後まで信じる者は救われるのです。
この揺るがない希望があるからこそ、僕は日々を一生懸命生き抜いていけるのです。将来に向けて、自分磨きや勉強や仕事に日々努めていけるのです。
未完了の仕事を抱えたまま人生が終わってもいいのだ。天国で完全になれるのだから。
だからこそ、ルターがしたように、今日も僕はりんごの木ならぬ人生という木を植えていきたい。神様が与えて下さる信仰・希望・愛を栄養にしながら。これこそ、人間を作るものだ。
不十分な人生であっても、死ぬときに見えてくる風景があるはずだ。誰にでも、神様から与えられた使命があるのだから。でも使命とは、最後まで命を使わなければ、分からないことだと思う。
神様がよしとして下さったことは、僕もよしとしていきたい。神様は、僕以上に僕のことを分かっていてくださるのだから。
「神様がお与えになるものはお受けなさい。神様がお取り上げになる時は、いさぎよくお渡しなさい。【渡辺和子】」、この言葉の通り生きていこう。
【ニーバーの祈り】
「変えることができるものは変える勇気を、変えることができないものは受け入れる平静心を、そして変えることができるものと変えることができないものを峻別する知恵をお与えください」
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多くの人は、人生の中に予期しない出来事を経験したり、意に添わない生活を送ったり、せっかくの仕事が途中で挫折したり、突然の病気に見舞われたりすることもある。未完了の仕事を抱えて生きる、これが現実のわたしたちの人生でしょう。自らの人生を振り返るとき、この人生で本当によかったと言える人は幸いだと言わねばならない。
とくに、生まれつき、あるいは予期しない出来事によってか、自分の責任ではなく、不十分な人生しか送り得ない人にとっては、この世の価値判断によれば、何のための人生だったのかとの問いを抱えたまま、死を迎えなければならないのだろうか?
しかし、最後には「私の人生は何だったのか?」「何のために生きてきたのでしょうか?」という問いごと受け入れてくださる神様がおいでになり、その神様が問いごとそっくり未完了の人生を受け取ってくださって、完成へと導いてくださる、この答えを知っている者は幸いだ。
そのことをよく表す言葉に、「明日が世界の終わりでも、わたしは今日、りんごの木を植える」(ルター) という有名な言葉がある。
明日が世界の終わりでも、その向こうにもうひとつの世界が広がっているなら、今日、りんごの木を植えることができる。信仰者にとってこれは、究極の神様を信じる終末信仰が言わせる生き方であると言える。
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僕は生まれつきの難病だ。この世の価値判断で考えれば、不十分な人生を送っている。
一生懸命勉強を頑張っていた大学受験のときに、病気が急激に悪化して、未完了のまま受験が終わってしまった。
今も将来に向けて勉強を頑張っているけど、これからも病気は悪化し続け、全てが未完了のまま終わるかもしれない。
難病で生きる意味が少しずつ分かってきたと言っても、「私の人生は何なのか?」「何のために生きて来たのでしょうか?」と病気が悪化する度に嘆いてしまう。
また、いつも自分の限界を感じる。自分の愛の不完全さ、自分の出来の悪さ、病気の苦しみなど…。
でも僕は嘆きの問いごと受け止めて下さる神様を信じている。「私が希を生まれつきの難病にしたのだから、不十分な人生でも私は受け止める。また希にとって万事が益となるように私は導く」ときっと神様は仰って下さる。
人間は死ぬまで不完全だ。また、この世では人間の人生は完結しない。
でもイエス様は死人の中から復活し、死人の復活の初穂となって下さった。未完了な人生であっても、神様は、僕らを復活を通して完全な身体と霊に生まれ変わらせ、完全な世界である天国へと導いて下さる。
神様は聖書にある約束を絶対に破らない方です。最後まで信じる者は救われるのです。
この揺るがない希望があるからこそ、僕は日々を一生懸命生き抜いていけるのです。将来に向けて、自分磨きや勉強や仕事に日々努めていけるのです。
未完了の仕事を抱えたまま人生が終わってもいいのだ。天国で完全になれるのだから。
だからこそ、ルターがしたように、今日も僕はりんごの木ならぬ人生という木を植えていきたい。神様が与えて下さる信仰・希望・愛を栄養にしながら。これこそ、人間を作るものだ。
不十分な人生であっても、死ぬときに見えてくる風景があるはずだ。誰にでも、神様から与えられた使命があるのだから。でも使命とは、最後まで命を使わなければ、分からないことだと思う。
神様がよしとして下さったことは、僕もよしとしていきたい。神様は、僕以上に僕のことを分かっていてくださるのだから。
「神様がお与えになるものはお受けなさい。神様がお取り上げになる時は、いさぎよくお渡しなさい。【渡辺和子】」、この言葉の通り生きていこう。
【ニーバーの祈り】
「変えることができるものは変える勇気を、変えることができないものは受け入れる平静心を、そして変えることができるものと変えることができないものを峻別する知恵をお与えください」
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