我が家から200メートル程の住宅街の一角に半月ほど前から「タチアオイ」が
咲いている。
今年は少し早いのだろうか?
遠目にも近くへ寄っても実に綺麗だ。
空に向かって真っすぐに伸びた何本もの茎はかなり高く、周りの花も幾つかの
塊のように咲いているが、その色の多いことに少し驚く。
同じピンク系や赤系統のものでもその花びらの色や中心に向かう模様や
色の濃淡など・・・こんなに種類がある花だとは知らなかった。
今までは綺麗な花だと思っても傍によってじっくりと見たことはなかったが
優しい色のものから目の奥に焼き付けられるような鮮やかで濃い色のものなど
その花びらの独特の色に出会い、予想以上に暑い日差しも気にならないほど
魅入ってしまった。
妻はタチアオイの花が咲き乱れる時季になると毎年決まったように子供の頃の
思い出を語る。
それは花びらをとり、その根元部分をもってそれを二つに裂いて分けるように
して開き、それを自分の鼻の先にくっつけて燥ぎまわったという無邪気な子供の
様子を再現するという他愛もない話である。
私も数年前にやってみたことがある。
根元の粘着力はかなりのものだが嫌な感じのベトベト感ではなかったように思う。
この花には『コケコッコの花』とか『コケコッコ花』という言い方もあるようで
花びらが、鶏の鶏冠(トサカ)に似ているから・・・というところから来るらしい。
妻の実家は新潟県だが、この遊びは北海道、南会津(福島県)木曽(長野県)
などでも見られるようで花びらを割き鼻や額や顎に張り付けて手足をバタバタ
させて遊ぶ時の姿を想像すると、物に溢れた現在の世の中のゲームなどに
代表される競争主体のような遊びとは違った『心豊かな遊び』というイメージが湧き、
『ほっこり』とする。
この記事で「私も・・・」と思い出してくださった方々もいらっしゃるかもしれないが
幾つかの地方で同じ遊びがあり、それが話題になった時の嬉しさを共有できるのも
楽しいことだと思う。
昔の遊びを思い出してみると幼いころの友達の顏も浮かんできて頬も緩む。
そして幾つになっても童心に帰るという時間を持てることに感謝したい。
自然を相手の遊びや子供なりに頑張って作った手作りのものを使っての遊び・・・。
心無い人に『懐古趣味』と揶揄されても数多くの昔の遊びはお金で買える遊びとは
違った良さを思い出すからこそこうして『ほっこり』できるのかもしれない。
咲いている。
今年は少し早いのだろうか?
遠目にも近くへ寄っても実に綺麗だ。
空に向かって真っすぐに伸びた何本もの茎はかなり高く、周りの花も幾つかの
塊のように咲いているが、その色の多いことに少し驚く。
同じピンク系や赤系統のものでもその花びらの色や中心に向かう模様や
色の濃淡など・・・こんなに種類がある花だとは知らなかった。
今までは綺麗な花だと思っても傍によってじっくりと見たことはなかったが
優しい色のものから目の奥に焼き付けられるような鮮やかで濃い色のものなど
その花びらの独特の色に出会い、予想以上に暑い日差しも気にならないほど
魅入ってしまった。
妻はタチアオイの花が咲き乱れる時季になると毎年決まったように子供の頃の
思い出を語る。
それは花びらをとり、その根元部分をもってそれを二つに裂いて分けるように
して開き、それを自分の鼻の先にくっつけて燥ぎまわったという無邪気な子供の
様子を再現するという他愛もない話である。
私も数年前にやってみたことがある。
根元の粘着力はかなりのものだが嫌な感じのベトベト感ではなかったように思う。
この花には『コケコッコの花』とか『コケコッコ花』という言い方もあるようで
花びらが、鶏の鶏冠(トサカ)に似ているから・・・というところから来るらしい。
妻の実家は新潟県だが、この遊びは北海道、南会津(福島県)木曽(長野県)
などでも見られるようで花びらを割き鼻や額や顎に張り付けて手足をバタバタ
させて遊ぶ時の姿を想像すると、物に溢れた現在の世の中のゲームなどに
代表される競争主体のような遊びとは違った『心豊かな遊び』というイメージが湧き、
『ほっこり』とする。
この記事で「私も・・・」と思い出してくださった方々もいらっしゃるかもしれないが
幾つかの地方で同じ遊びがあり、それが話題になった時の嬉しさを共有できるのも
楽しいことだと思う。
昔の遊びを思い出してみると幼いころの友達の顏も浮かんできて頬も緩む。
そして幾つになっても童心に帰るという時間を持てることに感謝したい。
自然を相手の遊びや子供なりに頑張って作った手作りのものを使っての遊び・・・。
心無い人に『懐古趣味』と揶揄されても数多くの昔の遊びはお金で買える遊びとは
違った良さを思い出すからこそこうして『ほっこり』できるのかもしれない。