遊asobu☆による保育士向上委員会

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障害者は死んだほうがいいのか?3

2016年07月31日 | 障害者は死んだほうが...
荒川強啓デイ・キャッチ 神保哲生「障害者19人刺殺事件で、今我々が受け止めるべきこと」2016.07.29






以前にも書いたが、これは必然的に起きた事件に思えるので、社会の方向性にあらためるところがあるのではないか?という疑問があって、、





その答えになるかもしれないって、、






私自身の経験でも、過去に工場なんかの生産現場で働いたことがあるのですが、、






今ならスマホなどの電化製品であったり、コンビニ食品であったりの一定の質が保たれた製品の生み出される生産スピードはすさまじい!ですよね!






あのベルトコンベアーのスピード自体がこの国の経済力というか、社会を反映しているように思えたりで、、






あの生産性についていける人だけが、この国では人として認められ、ついていけない人は人としても認められず、社会からはじかれるというようなところがあるのでは?って、、






象徴としてもね、、







当然だけど、あれについていけることと、人間性は全く関係がない!ですよね






実際、社員であったり、ベテランのバイトスタッフが、新人やできないスタッフに対して暴言を吐いたり、人格を否定するような態度をとるところを何度も目の当たりにしてきてね、、






そして企業も一定の割合の人が辞めることを前提として生産コストに最初から入れているところがあり、あれについていけない人を使い捨てているようなところがないかな?って、、




 

いじめを心理的、物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているものと定義するとこれはある意味、大人によるいじめではないのかな?って、、






いわゆる、今で言うパワハラってことかな?






このようなことが当たり前に行われている社会で子どもに対していじめはダメ!って言えるの?ってね






こういう社会だと、生産性のない人間は社会に必要ない、居ないほうがまし!と考えるようになってしまうだろうなって、、






人間は社会人になったら完成!じゃないって、、






やっぱり人間はどうしたっていつまでも不完全な生き物なので、社会人になっても人としても成長し続ける必要があるって思うんですよね






また、障害のある人の保護者の本音にも触れたことがあるんだけども、、






でもでも、それはまた別のこととして、保護者や本人の周囲に支援が不足しているのならそれが問題であって、、






障害のある人がこの世から居なくなれば良い!






ってことではないんだってね






言葉が出ないなどで、自ら発信出来ない人が本当にはどう思っているのかなんて誰にもわからないって、、






だからこそ、障害者福祉に従事する人間だけは、






やるからには理想を常に持ち続けなければいけない! 






それを持てない人は違う仕事をした方がお互いにとっていいんじゃないかな?って、、






でないと、一つ間違えば今回のような事件になってしまう、、






ここまでいかなくてもね、、






辛い辛い、やりたくない!と思いながら支援しても伝わってしまうだろうし、いい関係性が築けないし、いい支援もできないってことで、その方がお互いにいいだろうって、、 






現場スタッフが不足していて大変すぎるというのも痛感しているけれども、、






それが障害のある人が居なくなれば良いということにはならない!んだって






それは人手を増やせばいいだけの制度や低賃金のまた別の問題だろうってね






私自身の障害児入所施設での経験では特に重度の障害のある人との関わりが多くて、寝たきりの人の支援であったり、時には叩かれたり、暴言を吐かれたりなんかもあったけれどもね、、






それでも常に理想を持って、障害のある人も当たり前に自分らしく生きていけるようにまた生き続けられるように少しずつでも前に進めばいいなって思いながら支援していました







これまで障害者福祉をしてきて思うのはね、、







最初から福祉系の大学卒業なり資格を取ってまでしても障害者福祉の現場で働こうとする人とそうでない世間一般?の人との意識の差が大きすぎるなあってことで、、






そういう考えが全然違った人が一緒に障害者福祉の現場で働くので、色々利用者とも支援者間でもぶつかってしまうことが多いんじゃないかなと思ったりで、、






あのベルトコンベアーのスピードこそが、障害のある人への差別を生む象徴のように思えてならなくって、、、




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2016年07月27日 | 障害者は死んだほうが...
あらためて容疑者の発言や手紙の内容を考えてみると、思い当たる節が確かにあるって思って、、





この事件は今のこの国の状況ではもしかしたら必然的に起きたことだったんじゃないかなって、、






私自身の経験だけでも、一緒に働いていたスタッフが障害のある利用者に暴言を吐いたり、体罰を加えることがあった






それも間違った正義感を持っていて、本人は良かれと思っていたようでした






具体的には暴れている時には力ずくでも押さえつけたらいい、怖がらせないとわからないといった考えや、手のかかる利用者には休んでくれたら嬉しい、辞めてくれたらいいと普通に話していたりで、、





そして周囲のスタッフもそれに批判的ではなく、むしろ同調的だったんです






また常に研修時に話に上るのは、スタッフの質の問題だったりで、、






どこの施設もスタッフの言動に困っていたんですね





それは結局ある意味仕方のないことかもって思ったりで、、





最初から障害者福祉を目指して学んだ人とそうでない一般の人とはかなりの意識の差があるんだろうなって、、





それが一緒に働いているんだって、、





一般の人というのは世間とはそういうもんなんだって、、





特に障害者福祉を学ぶ機会や関心がないと容疑者のように行動しないまでも考え方は近くなるものなのかもって、、




 

それが行き切ってしまったのが今回の事件だったのではないかなと、、






私もたまたま障害者福祉の仕事に就いたから、障害のある人にも普通に自然に尊厳があると思えるけ、、






もしそうでなかったら同じ考えになったはずで、学校なんかで障害者の尊厳について学んだ記憶はないし、仕事をすることになって初めて知ったことばかりだしね






19人もの障害のある人が亡くなった





このような大変な事件が起きるってことは、





この国の方向性がどこか間違っていたからなのではないかなと思ったり、、






これを無駄にしてはいけない! いい方向に変えていかないと、19人もの命が浮かばれないって、、






容疑者の志向性を十分に考え、あらゆる場面でこうすれば起きなかったのではないかということを社会全体で考えていかなくてはって、、






以前は仕事への想いから、障害のある人の支援者だけは障害受容をしなければいけないと書いたが、それではまたこのような事件が起きてしまうので、社会全体がということなんだと思い直したり、、






障害受容、、、言葉が出ない、歩くことができないなどから、言葉が出るようにならないといけない人、歩くことができるようにならないといけない人と考えるのではなく、言葉が出ないのが~さん、歩くことができないのが~さんとまず障害のある状態を受け入れてそこから支援方法や出来ることを探すという考え方 障害のある人の人格や主体性を自然にあることとして尊重するってこと





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2016年07月26日 | 障害者は死んだほうが...

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容疑者が発している、障害者は死んだほうがいい!という言葉





これは絶対的に間違っている!って言いたくて、、





そして障害があっても社会で普通に暮らしていけるってことが、すべての人にとって大切なことでもあるんだって、、





容疑者はゆがんだ正義感から、逆にいいことをしたくらいに思っているのかもしれないけれども、障害のある人が世の中に存在することの意味を理解できてなかったようで、、





もし障害者がいない世の中になると、とてもギスギスした、いろいろな争いごとが今よりも絶えない社会になるんだって、、





障害があるということは、自分の意思表出が難しいということでもあったり、日常の生活自体も自分のみでは難しいことを意味するんだけども、、





それを周囲の人間が支援することにより、普通に自然に当たり前に生活していける





それには周囲の人間が本人が何を考え、何を必要とし、何がしたいのかを想像することが大事であり、気持ちに寄り添う必要があって、





これは人に対する、思いやりの大切さに気付かせてくれる機会になるんですよね☆



 

障害のある人の物を投げたり、噛み付いたりなどの問題行動(健常者から見ると)には、必ず背景があり、本人の意思の表出であるんだけども、、





その原因は、、





職員に対する関係性(以前に強く叱られた、体罰を受けたなど)であったり、他の障害のある人との関係性であったり、騒音、気温、季節、トイレ、空腹、体調、やりたいことができない、などなど…





様々に想像する必要があるんですよね!





それらを想像する機会があるというのは、人間関係には思いやりが大切なんだということに気付く機会になってるなあって思ったりで、、





またよく言われる、誰もが障害のある人に生まれる可能性もあったということや、、





人生の途中から障害のある人になるってこともあると考えると、障害のある人が住みよい社会は、すべての人にとって住みよい社会(ノーマライゼーション)ということになるんですよね!





もし障害のある人が世の中から居なくなると、とても恐ろしい世の中になりそうって思ったり、、





すべてにおいて競争意識が働き、人の支援は必要としないけれど、その中での優劣ははっきりされるだろうし、、





そのような世の中が住みよいはずがない! って、、





それを障害のある人が存在することによって、ゆるやかにしてもらっているってね





それは何かに秀でていなくても、自分として生まれてきて、生きているだけで価値のあることなんだと思わせてくれるってことでね





生きてるだけで丸儲けってことですね!





ある重度の障害のある子どもの保護者の方は、





朝、呼吸をしているのを確認できるだけで、よかった、生きていてくれてありがとうと思えると聞いたことがあるんだけども、、





そんなふうに思わせてくれるのは、障害があるからこそだろうと、、





健常の子どもなら、保護者があれやこれやと要求したり希望したりするんだろうけど、生きているだけでありがたいと思わせてくれるなんてことはまずないだろうなって、、






ただ、障害のある子どもの保護者は、想像も出来ないほど、大変な想いで日々子育てをしていたりで、、






それはキレイごとでは済まないほどで、、





そして表面上は障害を受け入れているように見えても、ほとんどの保護者が一生本質的には子どもの障害受容はできないと言われていることもあってね、、





だからこそ、第三者である、支援者は障害受容を充分にし、本人にも保護者の方にも気持ちに寄り添って支援する大切さをしっかりと認識する必要があるんだって、、






今回の事件は、障害に対する理解不足が招いたとも言えるけども、、






施設は大規模で、郊外に位置し、社会との接点自体が少ない状況で過ごしていたように見えるし、





障害に対する理解を社会全体に深めるには、障害のある人がもっと身近に感じられる存在にならないといけないんじゃないかなって、、





それには子どものころから障害のある人との交流や障害者福祉の教育をすることなんかをして、





社会に出てからも身近に住んでいたり、職場で障害のある人と共に働くのが自然で当たり前にならないと、またこのような事件が起きてしまうのではないかなって、、、

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