耳納の神々

この山から見る平野も川も壮大です。やっぱりこの山には神々がいらっしゃいます。
山の神にご挨拶するために今年も登るぞ~

お詫びのしるし

2010年05月24日 | 家族
届きました。お詫びのしるし。

もう無理かなって思っていたけど、今日届きました。
まぁ値段にすると200円程度だけど、気持ちよね。

良かった。
商品は嫌いじゃ無かったから、あまりに残念だったんだ。
あまりに冷たい対応なら、心ははなれてしまうな~って思っていたんだよ。

今回のことは、これで水に流してあげましょ

コメント (2)
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多度大社 上げ坂

2010年05月24日 | 県外の神社
大雨の中、桑名市から1時間に2本しかない養老鉄道に乗って多度へ。

このあたり久大線に良く似ている
久大線に似ている風景の中を通り過ぎて多度駅へ。
そこからバスがでているはず。
しかし・・・バスは1時間に1本程度で、私たちが着いた時間にはない
仕方なく駅前に常駐しているタクシーに乗る。
そして多度大社へ。
まぁいつものせこいやり方だけど、「止めてください」と言うところで停めずにぐるっと回って、710円から780円に料金が変わってから停車


これが有名な上げ坂です。
ニュースで時々みるよね。

脇には見物用の物見席だろうか。


その横の階段は昔の参道だろうね。雨でぬれていて、これを降りるのは怖いくらいのでこぼこ。

坂を登りきったところの神馬舎。「幸せを呼ぶ神の馬」と言われる白馬が。

元サラブレッドだけあっていいお尻と言いたいところだけど、筋肉かなり落ちているかな(^^;)

前には100円3切れのニンジンがあって、これを上げられるようになっている。
おもしろい動画がとれたんだけど、貼れたら、あとでね。

上げ馬神事は5月4日・5日に行われ、南北朝の頃より始まる、多度祭り最大の神事。
周辺6地区多度・小山・戸津・北猪飼・猪飼・力尾より選ばれた若者が騎手となり、境内の急坂・2mほどの絶壁を駆け上る。(資料より)

多度大社は、本宮を多度神社、別宮を一目連神社、さらに美御前社の. 三社の総称が多度大社という。

ご祭神
本宮 多度神社 天津彦根命(天照大神の御子神)
別宮 一目連神社 天目一箇命(天津彦根命の御子神、つまり天照大神の孫)

摂社 美御前社 市杵島姫命(天照大神の御子神、つまり天津彦根命の妹)
   新宮社(天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂)
   一挙社(一言主命)

天津彦根命が天照大神の御子神であることや参詣のための街道沿いにあることから伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とも詠われた。

古来より標高403メートルの多度山が、神体山として信仰され、古代祭祀を物語る磐座が山の中腹に存する。社伝によると五世紀後半、雄略天皇の御代に社殿が創建されたと伝えられる。(資料より)


平成22年5月23日参拝  つづく

一拳社はこちら
白馬舎はこちら
美御前社はこちら
御手洗場はこちら
本宮多度神社はこちら
別宮一目連神社はこちら


公式サイトの境内図はこちら

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神戸岡神社

2010年05月24日 | 県外の神社
電車を降りて、娘のアパートに行く道すがらこの神社を見つけました。
しかし夜中の11時ごろ。
ちょっと立ち寄る気にはなれません(^^;)
明日の朝しっかりお参りしましょうと思っていた。

しかし朝は通り過ぎてしまった。
どうも反対側の和菓子屋に気を取られていたみたい(^^;)

まぁいいかと駅に急いだのだけど、休日と平日の時刻表を見間違えたのか、切符を買っているときに列車は発車してしまった(-"-;)この頃、この手のことが多い。
あと20分も電車はこないし・・・ということでもう一度戻って、この神社へお参り。

娘は朝夕、この前の道を通るからね。
しっかりとお参りしておかなくちゃ。
きっとその為に列車に乗り遅れたんだ。




元は街道の東側にあったらしい。しかし明治29年に立坂神社に合祀され、昭和35年に現在の地に移転されたらしい。
それ以上詳しいことは分らない。

でもここのすぐそばに

矢田立場がある。


江戸時代の矢田町は、東海道の立場(宿場と宿場の中間にあった、旅人が休息する茶店などが集まっている所)であった。「久波奈名所図会」には、「比立場は食物自由にして、河海の魚鱗・山野の蔬菜四時無きなし」とある。福江町八曲がる角には火の見櫓(現在の火の見櫓は平成三年に再建したもの)もあった。現在でも、馬を繋ぎとめた鉄環のある家や連子格子のある家も見られる。
 福江町も矢田立場の続きで、茶店や宿屋が多くあった。福江町の南端は、桑名宿の入口に当たるので、旅人を引き止めるために、宿屋の人たちが集まっている宿引き小屋があった。また西国からの大名などが通行の際には、桑名藩からの役人が出迎えて、ここから案内した。 桑名市・桑名市教育委員会の看板より


桑名宿とは(教育委員会看板より)
江戸時代の東海道は、慶長六年(1601)正月に定められ、桑名宿も設けられた。江戸から約九十六里(約384Km)、京都から約三十里(約120Km)であった。宮宿(熱田)から海上七里(約28Km)、四日市宿までは陸上三里八丁(約13Km)。七里の渡し場から川口町、江戸町、片町、京町、吉津屋町、鍛冶町、新町、伝馬町、鍋屋町、矢田町、福江町までが桑名宿であり、さらに大福、安永を通り町屋橋を渡って、東海道が続いていた。天保十四年(1843)調べでは、宿内人口は8,848人であり、本陣2軒、脇本陣4軒旅籠屋120軒があった。 桑名市


さすが東海道だね。
こういうのを見るのは、きっと初めて。



 

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