開口一番はらく里「転失気」。元快楽亭ブラックの弟子。ブラジル→らくBから二つ目になってらく里に。立川流だけあって二つ目ながらうまい。
「強情灸」、ほんの一つまみ据えられただけで、天井突き破って皇居の周りを走ってしまう、というミネの灸を据えにいかない男がアルマジロと馬鹿にされ、巨大なモグサを肘に乗せて石川五右衛門の口上。「天井を~」の台詞が執拗に繰り返される。
「野ざらし」は柳好を思わせるところしばしば。骨を釣りにきた男が自分の鼻を釣るまでの暴れっぷりはちょっとしたもの。ちょっと速い印象だが軽快な調子で最後まで疾走。「どこの馬の骨だか牛の骨だかわからないものに回向するんじゃないよ」という隠居の忠言が伏線となり、最後に訪ねてくるのが牛と馬というサゲ。
中入後に「ちきり伊勢屋」。登場人物の設定を映画俳優で置き換えてみると・・・、そんなマクラで始まる。乞食伊勢屋と影で囁かれるほどケチと言われた父親の跡を継いだ伊勢屋の傳次郎が、ある日評判の易者白井左近にみてもらうと、親の因果が子に報い、「黒気がでている、来年の2月15日正午で寿命が尽きる」と言われてしまう。死んでしまうのはどうにもならない、来世での幸福のために、施しをして余生を過ごすようにと薦められ、他人のみならず自分にも施しをしながらいよいよ当日を迎え、生きたまま棺に入って伴を引連れ寺に行く道中、正午になっても死なない。結局財産は使い果たし、乞食同然となり、勘当になっていた友人と意気投合してその家に居候、大家の勧めでにわか駕籠かきに。昔世話した幇間もちの一八が客として登場、着ている着物をせしめる。ある日のこと、例の易者を見かけ、問いただすとなるほど死相が消えているという。「人の命を助けたか?」と聞かれた傳次郎、確かに金に困った母娘が首をくくって死のうとしているところを通りかかり、100両恵んで助けたことに思い当たる。「品川方面に吉事あり」という左近の言葉を信じ、一八の着物を持って質屋へ出かけるが、そこで命を助けた母娘と再会を果たす。そしてその娘と結婚、再び伊勢屋を開業するという人情噺。
「ちきり」というのは天秤の分銅のことらしい。その印をつけた伊勢屋=ちきり伊勢屋。
「強情灸」、ほんの一つまみ据えられただけで、天井突き破って皇居の周りを走ってしまう、というミネの灸を据えにいかない男がアルマジロと馬鹿にされ、巨大なモグサを肘に乗せて石川五右衛門の口上。「天井を~」の台詞が執拗に繰り返される。
「野ざらし」は柳好を思わせるところしばしば。骨を釣りにきた男が自分の鼻を釣るまでの暴れっぷりはちょっとしたもの。ちょっと速い印象だが軽快な調子で最後まで疾走。「どこの馬の骨だか牛の骨だかわからないものに回向するんじゃないよ」という隠居の忠言が伏線となり、最後に訪ねてくるのが牛と馬というサゲ。
中入後に「ちきり伊勢屋」。登場人物の設定を映画俳優で置き換えてみると・・・、そんなマクラで始まる。乞食伊勢屋と影で囁かれるほどケチと言われた父親の跡を継いだ伊勢屋の傳次郎が、ある日評判の易者白井左近にみてもらうと、親の因果が子に報い、「黒気がでている、来年の2月15日正午で寿命が尽きる」と言われてしまう。死んでしまうのはどうにもならない、来世での幸福のために、施しをして余生を過ごすようにと薦められ、他人のみならず自分にも施しをしながらいよいよ当日を迎え、生きたまま棺に入って伴を引連れ寺に行く道中、正午になっても死なない。結局財産は使い果たし、乞食同然となり、勘当になっていた友人と意気投合してその家に居候、大家の勧めでにわか駕籠かきに。昔世話した幇間もちの一八が客として登場、着ている着物をせしめる。ある日のこと、例の易者を見かけ、問いただすとなるほど死相が消えているという。「人の命を助けたか?」と聞かれた傳次郎、確かに金に困った母娘が首をくくって死のうとしているところを通りかかり、100両恵んで助けたことに思い当たる。「品川方面に吉事あり」という左近の言葉を信じ、一八の着物を持って質屋へ出かけるが、そこで命を助けた母娘と再会を果たす。そしてその娘と結婚、再び伊勢屋を開業するという人情噺。
「ちきり」というのは天秤の分銅のことらしい。その印をつけた伊勢屋=ちきり伊勢屋。