東京カレンダーの別冊として、「PRESTIGE」が発行された。14年間という歳月を超えて掲載された黒澤明監督の秘蔵インタビューに続くギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスのページ(全6ページ)で、数年前ギリシャ北部で撮影した写真を掲載していただいた。文章は松浦寿輝氏によるもの。氏が、以前アンゲロプロス来日の際通訳として一緒に過ごしたということに、この企画の美しい偶然性を感じずにはいられない。私の写真にしても、アンゲロプロスへのオマージュと言えば聞こえはいいが、実際は映画の中の景色を自分の目で見てみたいという欲望に駆りたてられてギリシャを訪問した時のものだ。ロケ地を探し、地図にマークをつけて、あとはほとんど成り行き次第という気儘な旅だったが、北と南では同じギリシャといえども全く異なる。特に印象的だった町はカストリア。「ギリシャの宝石」と呼ばれる湖沿いの小さな町は、ギリシャでは「最も美しい町」として憧れの存在であるにもかかわらず日本では無名に等しい。以下は、以前用意したものの結局葬られた北ギリシャの企画書メモ:
西マケドニア地方(といっても多くの日本人にとって一体それがどこに位置しているのかなど全く知られていない)、グラモス山とヴィッツィ山の間に横たわり、多くのギリシャ人にとって最も美しい町として知られるカストリアは人口17,000人の小さな町だ。山々に囲まれ、木々に縁どられたオレスティアダ湖に突き出す岬の地峡に家々が密集していて、鏡のように静かな湖面に映し出されるその家並は実に美しい。湖畔から急勾配に沿って町が広がっているので、やたらと坂道が多い。道は細く複雑に交錯していて、しばらく歩いているとすっかり方向感覚を失ってしまう。といっても小さな町なので、迷子になるようなことはない。曲がりくねった細い道を延々上った山の頂上の展望台から見下ろす景色は思わず溜息がでるほどの美しさ。
カストリアの景観を特徴的にしている建築物は数多くのビザンチン、及びポストビザンチン教会(聞いた話では82の教会が現存しているらしい)と17世紀から18世紀に建造された邸宅だ。これらの建築は「アルホンティカ」と呼ばれ、当時の富裕な毛皮商人が居住していた。また、小さな町にこれほどの数の教会が存在するのは、その教会が公的なものではなく、裕福な一家に一つという形でごく個人的に所有されていたからだ。殆どの教会がアルホンティカに隣接するように存在している。
今なお毛皮産業はこの町の主要産業で、その歴史はヨーロッパからの移民であるユダヤ人毛皮商人が湖周辺に生息するビーバーを求めて移り住んで以来受け継がれている。しかし、19世紀になると乱獲によってビーバーはこの地から絶滅し、毛皮産業は新たな局面を迎える。それがカストリア独特の、端切れを寄せ合わせた毛皮製品だ。このアイデアで成功を収めた毛皮職人は、端切れ及び製品の輸出でも大きな利益を生み出す。実際この町では多くの人々が毛皮産業に従事しており、町中に作業場やオフィスが点在している。晴れた日には薄い木の板に貼り付けた毛皮が日干しにされている光景を至る所で見かけることができ、小さな端切れを緻密に繋ぎあわせて一枚の毛皮を制作するその技術に触れることが出来る。
前に述べたように、カストリアに存在する教会の殆どはプライベートな目的で建設されており、アルホンティカのすぐ横に並んで建っていることが多い。殆どの教会は鍵がかけられていて、一般に公開されているものは数少ない。しかし、教会の内部を是非見てみたいという熱心な訪問客にはチャンスが残されている。それぞれの教会には「キー・マン」とよばれる鍵の管理者がいて、大体1人のキー・マンが複数の教会を掛け持ちで管理している。例えば、ほぼ町の中央に位置するオモニア広場周辺の教会はHristos Philikas氏が管理している。彼に頼めば快く教会に案内してくれるそうだ。さて、どうやって彼を探せばよいかというと、広場周辺のカフェニオンで彼の所在を聞いてみればよいらしい。こういったところが非常にギリシャ的だが、大抵の場合何とかなってしまうので確実な情報がなかったとしてもそれほど心配することはない。或いは、心臓破りの坂を越えた丘の頂上にあるビザンチン・ミュージアムのキュレーターに尋ねてみるとよい。万が一キー・マンと遭遇できなかったとしてもがっかりすることはない。幾つかの教会は外壁にフレスコ画が施されていて、自由に閲覧することができる。特にタクシアルヒ・ミトロポリス教会の聖母と天使の描かれたエントランス部分のフレスコは13世紀のものとは思えないほど保存状態も良好で、独特の雰囲気が漂っている。裏手には小さな天使の彫刻がポツンと立っていて、何とも物悲しい。ちなみに、これらの教会から移送した多くのイコンがビザンチン・ミュージアムで展示・保存されている。イコンに描かれている聖者像は影のある、どことなく薄気味悪いような印象のものが多いのだが、その色彩の鮮やかさには驚嘆する。ところどころ剥げ落ちたり、ごっそり絵具が滑落していたりするのだが、それでもなお美しく、逆にそういった不完全さがこれらのイコンをより一層重厚なものに仕立て上げている。
現存する殆どのアルホンティカは町の南部、「ドルツォDoltso」地区に位置している。残念ながらアルホンティカの多くは公開されていないが、カストリア民族博物館は530年前に建造されたアルホンティカを利用しており、壮麗な内装と当時の生活を垣間見ることができるディスプレイは一見の価値がある。また、幾つかのアルホンティカはホテルに改装されている。
<カストリアの魅力とは>
一言で表すとすれば、カストリアという町そのものが魅力である。この町が他のどのギリシャの町とも異なった独特の個性を持つことができた理由は、その地理的環境、民族、文化が相互に作用しこの地で独自に発達・展開し、今に伝えられてきたからではないだろうか。これほどの美しさを秘めた町でありながら、なぜツーリスティックな観光地に成り下がらなかったのか。お陰で町は静謐さを保ち、豊かな自然と融和してとても落ち着いた印象だ。残念ながらオレスティアダ湖の水はお世辞にも綺麗とは言い難いが、湖畔にはカフェ、タベルナが延々と続き、ゆっくりと遊歩道を散策しながら時間を楽しむには申し分ない。U字型に湾曲した湖畔から望む対岸の景色もまた格別だ。また、他の大都市と比べると些か物足りないかもしれないけれど、町の西側にあるダヴァキ広場周辺はちょっとした商店街になっていて、小奇麗に整備された歩道に沿って小さなショップが立ち並び、ウィンドウ・ショッピングが楽しめる。そして町中で見かける毛皮製品の店も、小物からコートまで豊富な品ぞろえの商品が魅力的な価格で手に入るので一度は立ち寄ってみたい。歴史的な側面と新しい時代の側面とが入り交じった町の景観は、程よく融合し調和しているように見える。「アルホンティカ」は徐々に修復されつつあり、将来が楽しみだ。とはいえ何分仕事のスピードが緩慢で人材も不足しているこの町では完全に町中のアルホンティカが復元されるまではかなりの年月を必要とするだろう。しかしそんなのんびりとした空気がこの町の良い所でもある。人々は極めて親切で友好的だ。タベルナでもカフェでも道端でも、場所を選ばず至る所で話しかけられ、何やかやと世話してくれる。好奇心旺盛な人々なので、逆にこちらから話しかけるととても嬉しそうだ。始終人からの視線(決して敵意のあるものではない、単純に見慣れないアジア人に興味津々なのだ)に曝されているので緊張することも多々あるが、これほど人々から注目を浴びるような経験はなかなかないと思って悠々と構えているのが得策だ。慣れてしまえば結構刺激的になって、日本に帰ってくると物足りなさを感じてしまうほどだ。
食べ物も安価で非常に美味しい。ギリシャ料理以外のレストランは充実していないけれど、新鮮な食材を使用したシンプルなギリシャ料理が食べられる。特に感動的だったのはクテルのバス停にほど近いスープ専門の料理店で食べた、白濁した内蔵のスープだ。以前ヒオス島でこのスープを食べ、店内一杯に立ちこめる異様な臭気と内蔵のエグさと臭い、鼻を突く酸味に辟易した。しかし、カストリアで食べたスープは全く別の代物。内蔵の臭みは全くなくなっていてクセがなく、まろやかなコクとレモンのさわやかな酸味が絶妙のバランス。夜中の4時という時間にも拘らず、店は満席でみな一様に白いスープを啜っている。内蔵のグリルもあって、こちらも大変美味。スープは3~5種類あって、全て内蔵系。残念ながら私はカストリアでの最終日にこの店を訪れたので一度しか味わえなかったけれど、毎日通いたくなるぐらい美味だった。
カストリアの隣町には古代人の居住跡がある。湖の上に、木で土台を組んだ上に藁葺き屋根の小さな住居群が建てられている。7棟ほどの集落だが、中は当時の様子が再現されていたり湖面には数隻の木をくりぬいたボートが漂っていたりと想像以上に本格的。7000年前の住居跡だという。しかし非常に文化的な種族だったらしく、手作りの楽器なども残されている。私が訪れた時エデッサからの親子4人と遭遇したが、ここはギリシャでは広く知られているようで教科書にも載っているらしい。日本でいう高床式住居跡みたいなものか、と納得。歴史に興味のある人は是非訪れてみると良い。近々博物館も建設されるらしい。
カストリア周辺にはまだまだ多くの見どころがあるので、カストリアを拠点に車で移動するのが得策だろう。バスは時間の拘束が多く、すみずみまでは網羅していないのでやはりレンタカーが一番だ。レンタカーはマニュアルしかないと考えた方がよい。しかしギリシャのタクシーは非常に安価なのでドライバーと交渉次第では最も効率の良い交通手段となる。
<プレスパ湖>
プレスパ湖は2つの湖で構成されている。「ミクリ・プレスパ」と「メガロ・プレスパ」、その名の通り「小さなプレスパ」と「大きなプレスパ」だ。どちらも国境沿いというか、国境によって分断されていて、ミクリ・プレスパはアルバニアと、メガロ・プレスパはアルバニア・マケドニアとによって分割している。湖周辺は湯田いな自然の宝庫。両湖の間を貫く細い道路の両わきには湿地帯が広がっていて、多くの野生動物、野鳥が生息しているため、ナショナル・プリザベーションによる保護区域になっている。
カストリアからプレスパ湖までの道のりはドライブにうってつけ。交通量も格段に少ないのでマイ・ペースで景色を楽しみながら運転することが出来る。小川が流れる美しい平原、遠くから響いてくる羊達の鐘の音、羊飼いと交わす挨拶、どれをとっても心が和む。文明に毒された体の灰汁が純化されるような気分で非常に清々しく、生まれ変わっていくような感覚。プレスパ湖への標識に沿って山を上っていくと、峠に展望台がある。ここから一望するプレスパ湖の景観は穏やかで、飽きることがない。峠を下りT字の道路に突き当たる。右に進めばアギオス・ゲルマノスの町、左へ進めば両プレスパ湖を分断する細長い地形の土地を抜けて再び山道に入る。一山越えれば3国のボーダーに隣接する町、ファラデスだ。この小さな村というか、集落はトラディッショナルな石造りの家々で構成されており、ナショナル・トラストによって保護区域に指定されている。そういった場所だから、ほんの小さな集落でありながらも観光バスの指定ルートとなっていて、宿泊施設やタベルナに困るようなことはない。そういいながらもやはり最果ての村、といったどことなく寂寞とした印象は拭いきれない。それはきっと湖の果てしない広がりのせいかもしれないし、あちこちにうち捨てられ、荒れ放題になっている半壊状態の家々の存在のせいかもしれない。或いは、不可視でありながら確実に存在し、ある種の脅威として人々の心に深い影を落としている国境というものに翻弄されてきた土地がもつ歴史的悲哀のせいかもしれない。そんな、美しさと物悲しさに包まれたファラデスの村の人々は、人懐っこく、田舎の人に特有の親切さと温かさ、慎ましやかさを持っている。村のメイン・ストリートは鶏や猫、犬などが闊歩し、湖に浮かぶ小降りな船の上では一仕事終えた漁師が緩やかな動作で網を繕い、湖に面して並ぶベンチには男達が話に花を咲かせていたり、ただボォッと彼方の光景を眺めていたり、一体この村の男性諸君の生業はどういったものなのか、と、こちらが心配になってしまうほどのんびりした空気が漂っている。
西荻窪のトラットリア・ビア・ヌオーバで夕食。二人で前菜の盛り合わせとキノコのタリアテッレ、フォアグラのリゾット、魚介の煮込み、アップルパイにラベンダーとミントのハーブティー。移転以来初チャレンジ。以前の場所では昼の3食パスタランチがおいしくてよく通った。カジュアルな雰囲気の店に見合ったお手頃価格、量もちょうどいい。前菜はイチジクとリコッタチーズを生ハムで包んだもの、カポナータ、キッシュなど5種。リゾットと魚介の煮込みは少ししょっぱかったが、全体的には満足。
西マケドニア地方(といっても多くの日本人にとって一体それがどこに位置しているのかなど全く知られていない)、グラモス山とヴィッツィ山の間に横たわり、多くのギリシャ人にとって最も美しい町として知られるカストリアは人口17,000人の小さな町だ。山々に囲まれ、木々に縁どられたオレスティアダ湖に突き出す岬の地峡に家々が密集していて、鏡のように静かな湖面に映し出されるその家並は実に美しい。湖畔から急勾配に沿って町が広がっているので、やたらと坂道が多い。道は細く複雑に交錯していて、しばらく歩いているとすっかり方向感覚を失ってしまう。といっても小さな町なので、迷子になるようなことはない。曲がりくねった細い道を延々上った山の頂上の展望台から見下ろす景色は思わず溜息がでるほどの美しさ。
カストリアの景観を特徴的にしている建築物は数多くのビザンチン、及びポストビザンチン教会(聞いた話では82の教会が現存しているらしい)と17世紀から18世紀に建造された邸宅だ。これらの建築は「アルホンティカ」と呼ばれ、当時の富裕な毛皮商人が居住していた。また、小さな町にこれほどの数の教会が存在するのは、その教会が公的なものではなく、裕福な一家に一つという形でごく個人的に所有されていたからだ。殆どの教会がアルホンティカに隣接するように存在している。
今なお毛皮産業はこの町の主要産業で、その歴史はヨーロッパからの移民であるユダヤ人毛皮商人が湖周辺に生息するビーバーを求めて移り住んで以来受け継がれている。しかし、19世紀になると乱獲によってビーバーはこの地から絶滅し、毛皮産業は新たな局面を迎える。それがカストリア独特の、端切れを寄せ合わせた毛皮製品だ。このアイデアで成功を収めた毛皮職人は、端切れ及び製品の輸出でも大きな利益を生み出す。実際この町では多くの人々が毛皮産業に従事しており、町中に作業場やオフィスが点在している。晴れた日には薄い木の板に貼り付けた毛皮が日干しにされている光景を至る所で見かけることができ、小さな端切れを緻密に繋ぎあわせて一枚の毛皮を制作するその技術に触れることが出来る。
前に述べたように、カストリアに存在する教会の殆どはプライベートな目的で建設されており、アルホンティカのすぐ横に並んで建っていることが多い。殆どの教会は鍵がかけられていて、一般に公開されているものは数少ない。しかし、教会の内部を是非見てみたいという熱心な訪問客にはチャンスが残されている。それぞれの教会には「キー・マン」とよばれる鍵の管理者がいて、大体1人のキー・マンが複数の教会を掛け持ちで管理している。例えば、ほぼ町の中央に位置するオモニア広場周辺の教会はHristos Philikas氏が管理している。彼に頼めば快く教会に案内してくれるそうだ。さて、どうやって彼を探せばよいかというと、広場周辺のカフェニオンで彼の所在を聞いてみればよいらしい。こういったところが非常にギリシャ的だが、大抵の場合何とかなってしまうので確実な情報がなかったとしてもそれほど心配することはない。或いは、心臓破りの坂を越えた丘の頂上にあるビザンチン・ミュージアムのキュレーターに尋ねてみるとよい。万が一キー・マンと遭遇できなかったとしてもがっかりすることはない。幾つかの教会は外壁にフレスコ画が施されていて、自由に閲覧することができる。特にタクシアルヒ・ミトロポリス教会の聖母と天使の描かれたエントランス部分のフレスコは13世紀のものとは思えないほど保存状態も良好で、独特の雰囲気が漂っている。裏手には小さな天使の彫刻がポツンと立っていて、何とも物悲しい。ちなみに、これらの教会から移送した多くのイコンがビザンチン・ミュージアムで展示・保存されている。イコンに描かれている聖者像は影のある、どことなく薄気味悪いような印象のものが多いのだが、その色彩の鮮やかさには驚嘆する。ところどころ剥げ落ちたり、ごっそり絵具が滑落していたりするのだが、それでもなお美しく、逆にそういった不完全さがこれらのイコンをより一層重厚なものに仕立て上げている。
現存する殆どのアルホンティカは町の南部、「ドルツォDoltso」地区に位置している。残念ながらアルホンティカの多くは公開されていないが、カストリア民族博物館は530年前に建造されたアルホンティカを利用しており、壮麗な内装と当時の生活を垣間見ることができるディスプレイは一見の価値がある。また、幾つかのアルホンティカはホテルに改装されている。
<カストリアの魅力とは>
一言で表すとすれば、カストリアという町そのものが魅力である。この町が他のどのギリシャの町とも異なった独特の個性を持つことができた理由は、その地理的環境、民族、文化が相互に作用しこの地で独自に発達・展開し、今に伝えられてきたからではないだろうか。これほどの美しさを秘めた町でありながら、なぜツーリスティックな観光地に成り下がらなかったのか。お陰で町は静謐さを保ち、豊かな自然と融和してとても落ち着いた印象だ。残念ながらオレスティアダ湖の水はお世辞にも綺麗とは言い難いが、湖畔にはカフェ、タベルナが延々と続き、ゆっくりと遊歩道を散策しながら時間を楽しむには申し分ない。U字型に湾曲した湖畔から望む対岸の景色もまた格別だ。また、他の大都市と比べると些か物足りないかもしれないけれど、町の西側にあるダヴァキ広場周辺はちょっとした商店街になっていて、小奇麗に整備された歩道に沿って小さなショップが立ち並び、ウィンドウ・ショッピングが楽しめる。そして町中で見かける毛皮製品の店も、小物からコートまで豊富な品ぞろえの商品が魅力的な価格で手に入るので一度は立ち寄ってみたい。歴史的な側面と新しい時代の側面とが入り交じった町の景観は、程よく融合し調和しているように見える。「アルホンティカ」は徐々に修復されつつあり、将来が楽しみだ。とはいえ何分仕事のスピードが緩慢で人材も不足しているこの町では完全に町中のアルホンティカが復元されるまではかなりの年月を必要とするだろう。しかしそんなのんびりとした空気がこの町の良い所でもある。人々は極めて親切で友好的だ。タベルナでもカフェでも道端でも、場所を選ばず至る所で話しかけられ、何やかやと世話してくれる。好奇心旺盛な人々なので、逆にこちらから話しかけるととても嬉しそうだ。始終人からの視線(決して敵意のあるものではない、単純に見慣れないアジア人に興味津々なのだ)に曝されているので緊張することも多々あるが、これほど人々から注目を浴びるような経験はなかなかないと思って悠々と構えているのが得策だ。慣れてしまえば結構刺激的になって、日本に帰ってくると物足りなさを感じてしまうほどだ。
食べ物も安価で非常に美味しい。ギリシャ料理以外のレストランは充実していないけれど、新鮮な食材を使用したシンプルなギリシャ料理が食べられる。特に感動的だったのはクテルのバス停にほど近いスープ専門の料理店で食べた、白濁した内蔵のスープだ。以前ヒオス島でこのスープを食べ、店内一杯に立ちこめる異様な臭気と内蔵のエグさと臭い、鼻を突く酸味に辟易した。しかし、カストリアで食べたスープは全く別の代物。内蔵の臭みは全くなくなっていてクセがなく、まろやかなコクとレモンのさわやかな酸味が絶妙のバランス。夜中の4時という時間にも拘らず、店は満席でみな一様に白いスープを啜っている。内蔵のグリルもあって、こちらも大変美味。スープは3~5種類あって、全て内蔵系。残念ながら私はカストリアでの最終日にこの店を訪れたので一度しか味わえなかったけれど、毎日通いたくなるぐらい美味だった。
カストリアの隣町には古代人の居住跡がある。湖の上に、木で土台を組んだ上に藁葺き屋根の小さな住居群が建てられている。7棟ほどの集落だが、中は当時の様子が再現されていたり湖面には数隻の木をくりぬいたボートが漂っていたりと想像以上に本格的。7000年前の住居跡だという。しかし非常に文化的な種族だったらしく、手作りの楽器なども残されている。私が訪れた時エデッサからの親子4人と遭遇したが、ここはギリシャでは広く知られているようで教科書にも載っているらしい。日本でいう高床式住居跡みたいなものか、と納得。歴史に興味のある人は是非訪れてみると良い。近々博物館も建設されるらしい。
カストリア周辺にはまだまだ多くの見どころがあるので、カストリアを拠点に車で移動するのが得策だろう。バスは時間の拘束が多く、すみずみまでは網羅していないのでやはりレンタカーが一番だ。レンタカーはマニュアルしかないと考えた方がよい。しかしギリシャのタクシーは非常に安価なのでドライバーと交渉次第では最も効率の良い交通手段となる。
<プレスパ湖>
プレスパ湖は2つの湖で構成されている。「ミクリ・プレスパ」と「メガロ・プレスパ」、その名の通り「小さなプレスパ」と「大きなプレスパ」だ。どちらも国境沿いというか、国境によって分断されていて、ミクリ・プレスパはアルバニアと、メガロ・プレスパはアルバニア・マケドニアとによって分割している。湖周辺は湯田いな自然の宝庫。両湖の間を貫く細い道路の両わきには湿地帯が広がっていて、多くの野生動物、野鳥が生息しているため、ナショナル・プリザベーションによる保護区域になっている。
カストリアからプレスパ湖までの道のりはドライブにうってつけ。交通量も格段に少ないのでマイ・ペースで景色を楽しみながら運転することが出来る。小川が流れる美しい平原、遠くから響いてくる羊達の鐘の音、羊飼いと交わす挨拶、どれをとっても心が和む。文明に毒された体の灰汁が純化されるような気分で非常に清々しく、生まれ変わっていくような感覚。プレスパ湖への標識に沿って山を上っていくと、峠に展望台がある。ここから一望するプレスパ湖の景観は穏やかで、飽きることがない。峠を下りT字の道路に突き当たる。右に進めばアギオス・ゲルマノスの町、左へ進めば両プレスパ湖を分断する細長い地形の土地を抜けて再び山道に入る。一山越えれば3国のボーダーに隣接する町、ファラデスだ。この小さな村というか、集落はトラディッショナルな石造りの家々で構成されており、ナショナル・トラストによって保護区域に指定されている。そういった場所だから、ほんの小さな集落でありながらも観光バスの指定ルートとなっていて、宿泊施設やタベルナに困るようなことはない。そういいながらもやはり最果ての村、といったどことなく寂寞とした印象は拭いきれない。それはきっと湖の果てしない広がりのせいかもしれないし、あちこちにうち捨てられ、荒れ放題になっている半壊状態の家々の存在のせいかもしれない。或いは、不可視でありながら確実に存在し、ある種の脅威として人々の心に深い影を落としている国境というものに翻弄されてきた土地がもつ歴史的悲哀のせいかもしれない。そんな、美しさと物悲しさに包まれたファラデスの村の人々は、人懐っこく、田舎の人に特有の親切さと温かさ、慎ましやかさを持っている。村のメイン・ストリートは鶏や猫、犬などが闊歩し、湖に浮かぶ小降りな船の上では一仕事終えた漁師が緩やかな動作で網を繕い、湖に面して並ぶベンチには男達が話に花を咲かせていたり、ただボォッと彼方の光景を眺めていたり、一体この村の男性諸君の生業はどういったものなのか、と、こちらが心配になってしまうほどのんびりした空気が漂っている。
西荻窪のトラットリア・ビア・ヌオーバで夕食。二人で前菜の盛り合わせとキノコのタリアテッレ、フォアグラのリゾット、魚介の煮込み、アップルパイにラベンダーとミントのハーブティー。移転以来初チャレンジ。以前の場所では昼の3食パスタランチがおいしくてよく通った。カジュアルな雰囲気の店に見合ったお手頃価格、量もちょうどいい。前菜はイチジクとリコッタチーズを生ハムで包んだもの、カポナータ、キッシュなど5種。リゾットと魚介の煮込みは少ししょっぱかったが、全体的には満足。