ひびのあれこれ・・・写真家の快適生活研究

各種媒体で活動する写真家の毎日。高円寺で『カフェ分福』をオープンするまでの奮闘記、イベント情報などをお伝えします。

春野百合子「おさん茂兵衛」

2007年11月11日 | Weblog
今日は次回撮影の準備と落語三昧。まずは円生の「吉住万蔵」。人情噺と言われているようだが、怪談めいたところもあり、サゲはカラッとしていて悲惨な筋の割に後味は悪くない。約120分の長い話だが、飽きることなく聞きほれてしまった。
鳴物師の万蔵、旅先の熊谷で逗留した宿の娘お稲に稽古をつけてやるが、その夜二人は結ばれる。再会を約束して江戸に戻った万蔵だが、おいらん花遊の元に通い詰める間にお稲を忘れ懐具合も悪くなる。ある日、花遊の部屋で悪夢を見て、お稲のことを思い出す。只事ではないと思った万蔵、熊谷へ早速出かけるが、お稲は父親の事業が失敗したことで家族とともに江戸へ引き移ったという。江戸へ戻った万蔵、吉原を冷やかしていると、そこでおいらんになっていたお稲と再会。なかばヒモのようになってお稲の元に通う。お稲は万蔵を遊ばせるために無茶な稼ぎを余儀なくされ、起請を乱発。しかしお稲から貰った起請を真に受けた生真面目な客勝吉は万蔵の存在を知り激怒、お稲を殺し自分も死ぬ。通夜の支度を整え、お稲に別れの言葉をかけていた万蔵だったが、その戒名が燃え上がる。驚いた万蔵だったが、翌朝その戒名があべこべだったことが判明。サゲは「勝吉がそれを聞いちゃ、焼ける(妬ける)のは当たり前だ」。
そして十代目金原亭馬生十八番名演集(九)(十)から、「お富与三郎」。馬生の芸は枯淡の美がある。淡々とした口調で、決して押しつけがましくなく、それでいて心に染み込んでくるような魅力がある。木更津~島抜けまでは昭和51年11月15日から17日まで、三日連続で新橋演舞場の稽古場で収録されたものだが、与三郎の死は昭和55年12月に本牧亭で収録されたもの。与三郎を殺したお富の独白につい涙。
そして本日のメインイベントは春野百合子「おさん茂兵衛」のビデオ鑑賞。NHKソフトウェア発行で全29分。収録年は不明だが、春野百合子はまだ若々しい。曲師は大林静子、琴は小泉栄子。近松の名作を浪曲化したもので、舞台は京都。商家のおかみであるおさんは、奉公人のお玉から主人が寝間に忍んでくることを涙ながらに訴えられる。おさんは主人に意見してやろうと、お玉の寝間と自分の寝間を取りかえる。夫が忍んでくるのを待つおさんだったが、忍んできたのはなんと手代の茂兵衛だった。早朝、主人が帰り、過ちを犯してしまったことを知る二人、おさんを探す番頭の声が近づいてくる。窮地に立たされた二人は、手に手をとって丹後へと落ち延びる。旅を続けるうちに、おさんは茂兵衛に本当の愛を感じ始める。それは茂兵衛も同じこと、深い愛情に結ばれた二人だったが、おさんの胸には年老いて世間を狭くして生きているであろう両親の姿が気になって仕方がない。命を捨てる覚悟で二人は京へ舞い戻る。おさんの訪問を予期していた老夫婦、「とんでもないことをしてくれた」と口では言うものの、やはり娘の無事を願う気持ちは抑えられるものではなく、親子の情愛が堰を切ったように溢れ出る。両親の声を後に、夕闇に消えていくおさんと茂兵衛だった・・・。粗筋を思い出しているだけでも目頭が熱くなる。春野百合子の声はただただ「凄過ぎる」。琴線に触れると言うような生易しいものではなく、身の毛がよだつような艶と透明感があって、感動というよりも衝撃を受ける。濃密な29分。もっと聞いていたかった。
夕飯は阿佐ケ谷のタイ料理レストラン、サワディー。爽やかな辛さがやみつきになるグリーンカレー、ブロッコリーとイカのオイスターソース炒め、生春巻と牛スジヌードル。どれも高得点。


恐ろしい撮影失敗談

2007年11月10日 | Weblog
今日はK編集さんと次回撮影の打ち合わせ件食事。新高円寺の駅からほど近いベトナム料理屋へ。ベトナム人シェフと中国人の女性がやってるお店。中央線的な雰囲気。生春巻と鶏肉のフォーがおいしかった。
よく一緒に仕事をしているKさん。撮影にまつわる失敗談はつきない。特に最近はデジタルへの端境期。データトラブルはそんなに珍しい話ではないようだ。他人事ではない。「そんなにチャチいのか」とがっくりした話は、キャノンのカメラでの事故。電源を入れた状態でのメディアの取り出しで、メディアが破損してしまい撮影データが御陀仏になったそうだ。ニコンではその点あまりシビアではないらしいが、キャノンは繊細なのか・・・、恐ろしい。あとは、データの整理をしている時、誤って上書きして何万というストックを消してしまった事故。これはデータの管理に問題がありそうだが、ほんの僅かな操作ミスで取り返しのつかないことになってしまうのがデジタルの恐ろしさ。
とはいえ、フィルムだって事故は起きる。私も一度海外撮影の際、荷物検査のX線で、1ロールの中の数コマに光のラインが入ってしまったことがある。アメリカ発着便は要注意。以下は聞いた話だが、かなり恐ろしい。
<事故1>フィルムに何も写っていなかった:海外取材中、現場ではポラは正常、シャッターもちゃんと動いていたのに帰国して現像してみてびっくり、何も写っていなかったそうだ。これについては全く理由がわからない。スーツケースに入れて預け荷物で出したならありうるかもしれないが、全く何も写っていないというのは謎。結局カメラマンさんは自腹で再撮したそうだ。
<事故2>フィルムの巻き上げが誤作動、全部のコマに次のコマが半分ずつ被っていた:1ロール終わった時点で気が付きそうだが・・・。これは単純にカメラの問題だからメンテすれば解消されるので恐ろしさは感じない。
<事故3>カメラにフィルムが入っていなかった:プロでもそんな間違いがあるのかと身の毛もよだつ話。
<事故4>これは私自身。撮影中カメラと共に噴水に転落、カメラが御陀仏に。しかし現場が大阪だったので、背中びしょぬれのままヨドバシに走ってカメラを購入、その場を凌ぐことが出来た。水没したのはコンタックスNシリーズ。ハッセルはカメラバッグに入っていて無事だったのは不幸中の幸い。キューキューいうカメラの断末魔が次第に小さくなっていき、切ない気分に。どうにもならないコンタックスを、ヨドバシが下取りとして5000円で買い取ってくれたことが嬉しかった。捨てる神あらば拾う神あり。
<事故5>イタリア取材班の話。撮影後カフェで一服していたら、撮影済みの全フィルムが入った機材バッグが盗難に。:カメラは仕方ないが、撮影したフィルムが盗まれるのは痛過ぎる。これでプロダクションが潰れたというが真相は定かではない。
<事故(?)6>私自身の話。実は単なる勘違いだったのだが、ドイツに作品撮りに出かけて帰京し荷物を整理していた時のこと。撮影済みのフィルムが見当たらず大パニックに。思い当たるのは空港の荷物検査場。この時は荷物チェックが厳しくてカメラバッグの中身を全て出すという面倒臭いことをミュンヘンとCDGでさせられたので、うっかりそこに忘れてきたと早合点。空港に電話してみたところ、ミュンヘンの空港はとても親切に対応してくれたが、一方のCDGはまず電話番号がHP上で見当たらない。散々探してもフランス語の案内のみ。それらしきものにかけてみると、フランス語しか話さない。結局遺失物の相談は受け付けていないような状況。自己責任ということか?ドイツとフランスのお国柄を垣間見た気分。この時は、ルーマニアのシビウという都市からミュンヘンに入る空路でもトラブった。せいぜい30人乗りの小さな飛行機に乗り込み、いざ出発、そして到着し荷物を待っていたら、なんと搭乗客全員の荷物がシビウに置き去りに。たった21個の荷物、なぜ忘れる?と憤懣やる方ない気分が込み上げてくる。しかも、その荷物が個別の番号になっておらず、21分の1という大雑把な扱い。荷物タグがないのに、どうやって乗客と荷物を繋ぎあわせるのだろうと心配だったが、空港職員の冷静沈着でいわゆるドイツ的な真面目な対応が安心感をもたらしてくれた。荷物はちゃんと翌日の便でホテルに届けられた。ある意味大きな荷物を運ぶ手間が省けてよかった。

談春七夜アンコール「緋」

2007年11月08日 | Weblog
談春七夜アンコール「緋」@にぎわい座。
こはる「かぼちゃ屋」。前回よりもリズムが感じられる仕上がり。
談春は「おしっくら」から演目変更して「厩火事」。孔子の留守中に出火、お気に入りだった白馬を焼き殺してしまった家臣たち。孔子が家臣をいかに責め苛んだか、お咲の想像力がどんどんエスカレートしていき、果ては拷問イスから水攻めへと発展。お咲の帰りを待ちかまえる亭主の姿には、しっかりお咲への愛情が描かれている。亭主の了見が唐土か麹町か、試される亭主の奥歯を噛みしめて怒りの声を発する姿はかなりおかしい。ユーモラスに、密度の濃い演出で、今まで聴いた「厩火事」の中でもピカイチの出来栄え。劇画タッチ。
そして間髪入れずに「たちきり」スタート。柳好の「たちきり」しか聴いた事のない私にとっては極北の演出で、談春の心意気を感じた。談春「たちきり」は前回の七夜以来2回目。前回よりも丁寧に複雑に作り込まれている。話の時間軸を水平線とするならば、その線上に刻まれたエピソードが垂直軸として話に織り込まれ、話が多層化している。関西の「たちきれ線香」は重い内容だというが、その影響なのだろうか?道楽が過ぎて蔵に閉じ込められてしまった若旦那。蔵住まいを始めて50日経過した日、若旦那の処置一切を任されていた番頭が旦那夫婦に呼び出され、「そろそろ息子を出してやってくれないか?」と涙ながらに訴えられる。しかし頑なに100日を守り通す番頭。半狂乱で番頭を罵る母親を諌め、2人きりになった旦那と番頭。旦那は番頭の過去の恋愛について触れるが、番頭は「救えなかった」という謎の言葉を残すのみ、その過去は語られることなく、唐突に仲入へ。
100日目、蔵から出た若旦那は番頭に「やっぱり芸者を嫁に迎える」と宣言。番頭も鬼じゃない。こいとから届いた手紙の話を告白、「100日続いたら誰が何と言おうと二人を夫婦にしてあげるつもりだったが」その手紙は80日目を過ぎてぱったり途切れる。こいとから最後の手紙を渡された若旦那は結局その手紙を読むことなく風呂に入る。そして早々に両親に挨拶を済ませて一目散にこいとの元へ。こいとに会わせてくれとせがむ若旦那に対して、こいとの母親の長い独白が始まる。若旦那の存在は希薄。「若旦那が嘘をつくような人じゃないことはあのこがいちばんよくわかっていたのに、どうして最後まで信じることが出来なかったんでしょうね。それが私は悔しい」という母の言葉にぐっときて、「玄関を出たら小糸のことは忘れてください」にたまらず涙。いくつかの齟齬はあったが、インプロのような緊張感が感じられた。落語と一言では片づけられないような不思議な世界に遭遇したようで、終演後は疲労感と高揚感でハイな気分だった。
関内に移動し、4人でアパホテル1階にあるイタリア料理屋で夕食。ここはラストオーダーが10時なのでにぎわい座終演後に便利。ハウスサラダ、トマトクリームソースのニョッキ、キノコリゾット、アマトリチアーナ、カルボナーラ、アンチョビとトマトのピザを注文。日本人が作ったイタリア料理、そんな味。気取りがなく値段も安いので気軽に利用できる。

東京カレンダーMOOK「PRESTIGE」

2007年11月07日 | Weblog
東京カレンダーの別冊として、「PRESTIGE」が発行された。14年間という歳月を超えて掲載された黒澤明監督の秘蔵インタビューに続くギリシャの映画監督テオ・アンゲロプロスのページ(全6ページ)で、数年前ギリシャ北部で撮影した写真を掲載していただいた。文章は松浦寿輝氏によるもの。氏が、以前アンゲロプロス来日の際通訳として一緒に過ごしたということに、この企画の美しい偶然性を感じずにはいられない。私の写真にしても、アンゲロプロスへのオマージュと言えば聞こえはいいが、実際は映画の中の景色を自分の目で見てみたいという欲望に駆りたてられてギリシャを訪問した時のものだ。ロケ地を探し、地図にマークをつけて、あとはほとんど成り行き次第という気儘な旅だったが、北と南では同じギリシャといえども全く異なる。特に印象的だった町はカストリア。「ギリシャの宝石」と呼ばれる湖沿いの小さな町は、ギリシャでは「最も美しい町」として憧れの存在であるにもかかわらず日本では無名に等しい。以下は、以前用意したものの結局葬られた北ギリシャの企画書メモ:
 
 西マケドニア地方(といっても多くの日本人にとって一体それがどこに位置しているのかなど全く知られていない)、グラモス山とヴィッツィ山の間に横たわり、多くのギリシャ人にとって最も美しい町として知られるカストリアは人口17,000人の小さな町だ。山々に囲まれ、木々に縁どられたオレスティアダ湖に突き出す岬の地峡に家々が密集していて、鏡のように静かな湖面に映し出されるその家並は実に美しい。湖畔から急勾配に沿って町が広がっているので、やたらと坂道が多い。道は細く複雑に交錯していて、しばらく歩いているとすっかり方向感覚を失ってしまう。といっても小さな町なので、迷子になるようなことはない。曲がりくねった細い道を延々上った山の頂上の展望台から見下ろす景色は思わず溜息がでるほどの美しさ。
 カストリアの景観を特徴的にしている建築物は数多くのビザンチン、及びポストビザンチン教会(聞いた話では82の教会が現存しているらしい)と17世紀から18世紀に建造された邸宅だ。これらの建築は「アルホンティカ」と呼ばれ、当時の富裕な毛皮商人が居住していた。また、小さな町にこれほどの数の教会が存在するのは、その教会が公的なものではなく、裕福な一家に一つという形でごく個人的に所有されていたからだ。殆どの教会がアルホンティカに隣接するように存在している。
 今なお毛皮産業はこの町の主要産業で、その歴史はヨーロッパからの移民であるユダヤ人毛皮商人が湖周辺に生息するビーバーを求めて移り住んで以来受け継がれている。しかし、19世紀になると乱獲によってビーバーはこの地から絶滅し、毛皮産業は新たな局面を迎える。それがカストリア独特の、端切れを寄せ合わせた毛皮製品だ。このアイデアで成功を収めた毛皮職人は、端切れ及び製品の輸出でも大きな利益を生み出す。実際この町では多くの人々が毛皮産業に従事しており、町中に作業場やオフィスが点在している。晴れた日には薄い木の板に貼り付けた毛皮が日干しにされている光景を至る所で見かけることができ、小さな端切れを緻密に繋ぎあわせて一枚の毛皮を制作するその技術に触れることが出来る。
 前に述べたように、カストリアに存在する教会の殆どはプライベートな目的で建設されており、アルホンティカのすぐ横に並んで建っていることが多い。殆どの教会は鍵がかけられていて、一般に公開されているものは数少ない。しかし、教会の内部を是非見てみたいという熱心な訪問客にはチャンスが残されている。それぞれの教会には「キー・マン」とよばれる鍵の管理者がいて、大体1人のキー・マンが複数の教会を掛け持ちで管理している。例えば、ほぼ町の中央に位置するオモニア広場周辺の教会はHristos Philikas氏が管理している。彼に頼めば快く教会に案内してくれるそうだ。さて、どうやって彼を探せばよいかというと、広場周辺のカフェニオンで彼の所在を聞いてみればよいらしい。こういったところが非常にギリシャ的だが、大抵の場合何とかなってしまうので確実な情報がなかったとしてもそれほど心配することはない。或いは、心臓破りの坂を越えた丘の頂上にあるビザンチン・ミュージアムのキュレーターに尋ねてみるとよい。万が一キー・マンと遭遇できなかったとしてもがっかりすることはない。幾つかの教会は外壁にフレスコ画が施されていて、自由に閲覧することができる。特にタクシアルヒ・ミトロポリス教会の聖母と天使の描かれたエントランス部分のフレスコは13世紀のものとは思えないほど保存状態も良好で、独特の雰囲気が漂っている。裏手には小さな天使の彫刻がポツンと立っていて、何とも物悲しい。ちなみに、これらの教会から移送した多くのイコンがビザンチン・ミュージアムで展示・保存されている。イコンに描かれている聖者像は影のある、どことなく薄気味悪いような印象のものが多いのだが、その色彩の鮮やかさには驚嘆する。ところどころ剥げ落ちたり、ごっそり絵具が滑落していたりするのだが、それでもなお美しく、逆にそういった不完全さがこれらのイコンをより一層重厚なものに仕立て上げている。
現存する殆どのアルホンティカは町の南部、「ドルツォDoltso」地区に位置している。残念ながらアルホンティカの多くは公開されていないが、カストリア民族博物館は530年前に建造されたアルホンティカを利用しており、壮麗な内装と当時の生活を垣間見ることができるディスプレイは一見の価値がある。また、幾つかのアルホンティカはホテルに改装されている。
<カストリアの魅力とは>
 一言で表すとすれば、カストリアという町そのものが魅力である。この町が他のどのギリシャの町とも異なった独特の個性を持つことができた理由は、その地理的環境、民族、文化が相互に作用しこの地で独自に発達・展開し、今に伝えられてきたからではないだろうか。これほどの美しさを秘めた町でありながら、なぜツーリスティックな観光地に成り下がらなかったのか。お陰で町は静謐さを保ち、豊かな自然と融和してとても落ち着いた印象だ。残念ながらオレスティアダ湖の水はお世辞にも綺麗とは言い難いが、湖畔にはカフェ、タベルナが延々と続き、ゆっくりと遊歩道を散策しながら時間を楽しむには申し分ない。U字型に湾曲した湖畔から望む対岸の景色もまた格別だ。また、他の大都市と比べると些か物足りないかもしれないけれど、町の西側にあるダヴァキ広場周辺はちょっとした商店街になっていて、小奇麗に整備された歩道に沿って小さなショップが立ち並び、ウィンドウ・ショッピングが楽しめる。そして町中で見かける毛皮製品の店も、小物からコートまで豊富な品ぞろえの商品が魅力的な価格で手に入るので一度は立ち寄ってみたい。歴史的な側面と新しい時代の側面とが入り交じった町の景観は、程よく融合し調和しているように見える。「アルホンティカ」は徐々に修復されつつあり、将来が楽しみだ。とはいえ何分仕事のスピードが緩慢で人材も不足しているこの町では完全に町中のアルホンティカが復元されるまではかなりの年月を必要とするだろう。しかしそんなのんびりとした空気がこの町の良い所でもある。人々は極めて親切で友好的だ。タベルナでもカフェでも道端でも、場所を選ばず至る所で話しかけられ、何やかやと世話してくれる。好奇心旺盛な人々なので、逆にこちらから話しかけるととても嬉しそうだ。始終人からの視線(決して敵意のあるものではない、単純に見慣れないアジア人に興味津々なのだ)に曝されているので緊張することも多々あるが、これほど人々から注目を浴びるような経験はなかなかないと思って悠々と構えているのが得策だ。慣れてしまえば結構刺激的になって、日本に帰ってくると物足りなさを感じてしまうほどだ。
 食べ物も安価で非常に美味しい。ギリシャ料理以外のレストランは充実していないけれど、新鮮な食材を使用したシンプルなギリシャ料理が食べられる。特に感動的だったのはクテルのバス停にほど近いスープ専門の料理店で食べた、白濁した内蔵のスープだ。以前ヒオス島でこのスープを食べ、店内一杯に立ちこめる異様な臭気と内蔵のエグさと臭い、鼻を突く酸味に辟易した。しかし、カストリアで食べたスープは全く別の代物。内蔵の臭みは全くなくなっていてクセがなく、まろやかなコクとレモンのさわやかな酸味が絶妙のバランス。夜中の4時という時間にも拘らず、店は満席でみな一様に白いスープを啜っている。内蔵のグリルもあって、こちらも大変美味。スープは3~5種類あって、全て内蔵系。残念ながら私はカストリアでの最終日にこの店を訪れたので一度しか味わえなかったけれど、毎日通いたくなるぐらい美味だった。
カストリアの隣町には古代人の居住跡がある。湖の上に、木で土台を組んだ上に藁葺き屋根の小さな住居群が建てられている。7棟ほどの集落だが、中は当時の様子が再現されていたり湖面には数隻の木をくりぬいたボートが漂っていたりと想像以上に本格的。7000年前の住居跡だという。しかし非常に文化的な種族だったらしく、手作りの楽器なども残されている。私が訪れた時エデッサからの親子4人と遭遇したが、ここはギリシャでは広く知られているようで教科書にも載っているらしい。日本でいう高床式住居跡みたいなものか、と納得。歴史に興味のある人は是非訪れてみると良い。近々博物館も建設されるらしい。
 カストリア周辺にはまだまだ多くの見どころがあるので、カストリアを拠点に車で移動するのが得策だろう。バスは時間の拘束が多く、すみずみまでは網羅していないのでやはりレンタカーが一番だ。レンタカーはマニュアルしかないと考えた方がよい。しかしギリシャのタクシーは非常に安価なのでドライバーと交渉次第では最も効率の良い交通手段となる。
<プレスパ湖>
 プレスパ湖は2つの湖で構成されている。「ミクリ・プレスパ」と「メガロ・プレスパ」、その名の通り「小さなプレスパ」と「大きなプレスパ」だ。どちらも国境沿いというか、国境によって分断されていて、ミクリ・プレスパはアルバニアと、メガロ・プレスパはアルバニア・マケドニアとによって分割している。湖周辺は湯田いな自然の宝庫。両湖の間を貫く細い道路の両わきには湿地帯が広がっていて、多くの野生動物、野鳥が生息しているため、ナショナル・プリザベーションによる保護区域になっている。
 カストリアからプレスパ湖までの道のりはドライブにうってつけ。交通量も格段に少ないのでマイ・ペースで景色を楽しみながら運転することが出来る。小川が流れる美しい平原、遠くから響いてくる羊達の鐘の音、羊飼いと交わす挨拶、どれをとっても心が和む。文明に毒された体の灰汁が純化されるような気分で非常に清々しく、生まれ変わっていくような感覚。プレスパ湖への標識に沿って山を上っていくと、峠に展望台がある。ここから一望するプレスパ湖の景観は穏やかで、飽きることがない。峠を下りT字の道路に突き当たる。右に進めばアギオス・ゲルマノスの町、左へ進めば両プレスパ湖を分断する細長い地形の土地を抜けて再び山道に入る。一山越えれば3国のボーダーに隣接する町、ファラデスだ。この小さな村というか、集落はトラディッショナルな石造りの家々で構成されており、ナショナル・トラストによって保護区域に指定されている。そういった場所だから、ほんの小さな集落でありながらも観光バスの指定ルートとなっていて、宿泊施設やタベルナに困るようなことはない。そういいながらもやはり最果ての村、といったどことなく寂寞とした印象は拭いきれない。それはきっと湖の果てしない広がりのせいかもしれないし、あちこちにうち捨てられ、荒れ放題になっている半壊状態の家々の存在のせいかもしれない。或いは、不可視でありながら確実に存在し、ある種の脅威として人々の心に深い影を落としている国境というものに翻弄されてきた土地がもつ歴史的悲哀のせいかもしれない。そんな、美しさと物悲しさに包まれたファラデスの村の人々は、人懐っこく、田舎の人に特有の親切さと温かさ、慎ましやかさを持っている。村のメイン・ストリートは鶏や猫、犬などが闊歩し、湖に浮かぶ小降りな船の上では一仕事終えた漁師が緩やかな動作で網を繕い、湖に面して並ぶベンチには男達が話に花を咲かせていたり、ただボォッと彼方の光景を眺めていたり、一体この村の男性諸君の生業はどういったものなのか、と、こちらが心配になってしまうほどのんびりした空気が漂っている。
 
 西荻窪のトラットリア・ビア・ヌオーバで夕食。二人で前菜の盛り合わせとキノコのタリアテッレ、フォアグラのリゾット、魚介の煮込み、アップルパイにラベンダーとミントのハーブティー。移転以来初チャレンジ。以前の場所では昼の3食パスタランチがおいしくてよく通った。カジュアルな雰囲気の店に見合ったお手頃価格、量もちょうどいい。前菜はイチジクとリコッタチーズを生ハムで包んだもの、カポナータ、キッシュなど5種。リゾットと魚介の煮込みは少ししょっぱかったが、全体的には満足。


紀伊国屋の2階

2007年11月05日 | Weblog
午前中税務署に赴き、申告の説明を受ける。役所にしては親切・丁寧な対応。これも作戦か?
そして新宿へ。ランチは伊勢丹の「分とく山」でお弁当。見た目はキレイだが、味がなんとなくぼけていておいしいのかおいしくないのか判断がつきかねる。焼物だけはおいしかったが、それだけじゃあ・・・。
そして紀伊国屋の2階の落語CDコーナーへ。相変わらず充実の品揃え。今日は円生百席(ソニー)の「ちきり伊勢屋」、「吉住万蔵」、そして志ん生名演大全集(ポニーキャニオン)の「江島屋騒動・寄席のおはやし集」を購入。馬生十八番名演集ボックスは売切状態。しかしバラ売りがあったので、お富与三郎を入手。レジの男性に「円生師匠がお好きなんですか?」と聴かれる。円生の芸は好きだが、人間自体はあんまり粋じゃないという話を聞いて、以前興ざめした覚えがある。でも、そんな人間性を補って余りある芸の力、魅力は他と一線を画したものがある。マクラも機知に富んでいて、ソニーの円生百席シリーズはスタジオ録音ならではの醍醐味がある。

ダグラス・サーク ”Has Anybody Seen My Gal?”

2007年11月04日 | Weblog
久しぶりに家でDVDを見る。1952年に撮影された、ダグラス・サークの初カラー作品「Has Anybody Seen My Gal?(誰か彼女に会ったかい?)」(キングのDVDでは邦題が変わって「ぼくの彼女はどこ?」)。ロック・ハドソンのサーク映画初出演作品でもある。億万長者ジョン・スミスを演じるチャールズ・コバーンのチャーミングな魅力が炸裂するミュージカル・コメディ。突然10万ドルを贈られたブレイズデル一家は上流嗜好の強い母親により引っかき回され、結局投資していた株の暴落でにっちもさっちもいかなくなり、お金持ちとの縁談は破談、豪邸もスピッツも失い元の生活へ。お金持ち=幸福ではないという教訓的ストーリー。ダグラス・サークといえばメロドラマの印象が強いが、コメディにおいても素晴らしい才能を発揮している。2005年11月、パリのシネマテークで開催されたダグラス・サーク特集に数日通ったが、その時見た作品メモは以下の通り。
「Hitler's Madman(1943)」:プラハ近郊の小村でナチスに抵抗する人々の悲劇的結末。アンチ・スタイリッシュな画面。「Shock Proof」:5年の監獄生活を終えた女性殺人犯と保護監察官の恋愛が問うそう劇へと発展していく
「Weekend With Father」:二人娘を持つ男と二人息子を持つ女のラブ・コメディ。
「Thunder On The Hill(1951)」:Claudette Colbert:洪水の中で繰り広げられる宗教・恋愛が絡み合うサスペンス。シスターが無実の罪をきせられた若い女性の無実を証明する。
「The First Region(1951)」:Charles Boyer,Lyle Bettger,Barbara Rash:邦題「奇跡」。3年間寝たきりだった修道院の院長が突然元気になる。その奇跡に立ち会った医師と、それに疑問を感じる修道士。最後に車いすの少女が新たな奇跡に遭遇するシーンは感動的。
「Has Anybody Seen My Gal?(1952)」
「No Room For The Groom(1952)」:Tony Curtis,Piper Laurie
「All I Desire(1953)」:Barbara Stanwick:スキャンダルを抱え家族を捨ててブロードウェイに旅立ったものの鳴かず飛ばず、三流女優として生活する母の元に捨てた娘から卒業公演の案内状が届く。数年ぶりに再会を果たしたものの、いさかいが絶えない。ある日スキャンダルの張本人の男から逢引の合図である二発の銃声が発せられる。関係を抹消しようとする母だが、銃の暴発で男を撃ってしまう。

I Musici「四季」

2007年11月03日 | Weblog
今日は撮影で東京オペラシティで開催されるイ・ムジチの子供のためのコンサートへ。3世代で聴く、というサブタイトル通り、最初に日本で大ヒットを飛ばした1968年のアルバムで初めて聞いた世代~今の時代に生きる子供達へと贈る特別企画。名前だけは知っていたが、イ・ムジチは1976年に日本で100万枚、77年には世界で1000万枚を売り上げている。約1時間の演奏の前に、バイオリンに触れることが出来る体験コーナーが設けられ、真剣な眼差しでバイオリンを弾く子供たちの表情を撮影。開演後は消音バッグをつけてモニターブースやステージ袖からガラス越しの撮影。1万円程度の消音バッグ(エツミ?)だが、それなりに効果はある。弦楽器の澄んだ音色が聞こえてくる。久々の生音なのに、仕事で残念。終演後はイ・ムジチメンバーとの交流会、といってもサイン会のようなもの。子供も大人もメンバーの側に殺到し大混乱。しかしメンバーは笑みを絶やさずとても感じが良い。そんなにこやかなメンバーに対し、数人の子供達の握手する時の表情が気になった。というのも、握手をして貰っているにもかかわらず、相手の目を見ようともせず、ただただ無表情、無愛想なのだ。まるで握手を盗んでいるように見える。恥ずかしいのか、照れ隠しなのかわからないが、コミュニケーションが苦手な国民であると評判の日本人の姿を垣間見たような気がしてちょっと残念だった。

談春独演会@ハミングホール

2007年11月02日 | Weblog
開口一番は小春で「かぼちゃ屋」。ネタの数がどんどん増えていく。小春に対する観客の目はいつどこでも温かい。
談春は「粗忽の使者」。都心から離れた場所では定番となった噺。地方で見られる「優しい談春」。追っかけと地元のお客さんと、微妙な混じり具合で些か演り辛そう。
仲入り後は「夢金」。舵棒を握って漕ぎ出す姿はいつもながら美しい。
終演後に西荻窪のビストロ「サン・ル・スー」で食事。21:30オーダーストップなので大変便利、さらに気取りがない店なので気軽に利用できる。前菜、メイン、デザートのプリフィクス・コースで、前菜の選び方で値段が決まる。ワタリガニのスープとカスレ風煮込みオーブン焼き、プルーン入り焼き菓子をいただく。ボリュームある量で食べ応えあり。気取りのない素朴な味付けにほっとする。紅茶/ハーブティーはトレイに用意されたたくさんの瓶の中から好きなものを選ぶ事が出来る。料理にしても種類が豊富なので、メニュー選びを楽しめる人にはいいお店。

志らく百席@にぎわい座

2007年11月01日 | Weblog
開口一番はらく里「転失気」。元快楽亭ブラックの弟子。ブラジル→らくBから二つ目になってらく里に。立川流だけあって二つ目ながらうまい。
「強情灸」、ほんの一つまみ据えられただけで、天井突き破って皇居の周りを走ってしまう、というミネの灸を据えにいかない男がアルマジロと馬鹿にされ、巨大なモグサを肘に乗せて石川五右衛門の口上。「天井を~」の台詞が執拗に繰り返される。
「野ざらし」は柳好を思わせるところしばしば。骨を釣りにきた男が自分の鼻を釣るまでの暴れっぷりはちょっとしたもの。ちょっと速い印象だが軽快な調子で最後まで疾走。「どこの馬の骨だか牛の骨だかわからないものに回向するんじゃないよ」という隠居の忠言が伏線となり、最後に訪ねてくるのが牛と馬というサゲ。
中入後に「ちきり伊勢屋」。登場人物の設定を映画俳優で置き換えてみると・・・、そんなマクラで始まる。乞食伊勢屋と影で囁かれるほどケチと言われた父親の跡を継いだ伊勢屋の傳次郎が、ある日評判の易者白井左近にみてもらうと、親の因果が子に報い、「黒気がでている、来年の2月15日正午で寿命が尽きる」と言われてしまう。死んでしまうのはどうにもならない、来世での幸福のために、施しをして余生を過ごすようにと薦められ、他人のみならず自分にも施しをしながらいよいよ当日を迎え、生きたまま棺に入って伴を引連れ寺に行く道中、正午になっても死なない。結局財産は使い果たし、乞食同然となり、勘当になっていた友人と意気投合してその家に居候、大家の勧めでにわか駕籠かきに。昔世話した幇間もちの一八が客として登場、着ている着物をせしめる。ある日のこと、例の易者を見かけ、問いただすとなるほど死相が消えているという。「人の命を助けたか?」と聞かれた傳次郎、確かに金に困った母娘が首をくくって死のうとしているところを通りかかり、100両恵んで助けたことに思い当たる。「品川方面に吉事あり」という左近の言葉を信じ、一八の着物を持って質屋へ出かけるが、そこで命を助けた母娘と再会を果たす。そしてその娘と結婚、再び伊勢屋を開業するという人情噺。
「ちきり」というのは天秤の分銅のことらしい。その印をつけた伊勢屋=ちきり伊勢屋。