今年で89歳になる西村京太郎氏は、1964年に文壇デビューして以降、オリジナル著作数は600冊を超えている。1ヶ月に約1冊のペースで上梓している計算になるが、今も此のペースは変わっていないのだから凄い。
彼の作品が好きで、恐らくは全てを読んでいる。新刊が上梓されると、必ず手に取っているのだが、今回読んだ「十津川警部 坂本龍馬と十津川郷士中井庄五郎」は、歴史好きの自分にとって興味深い内容だった。
此の本は、中井庄五郎という人間をキー・パーソンに据えている。歴史好きと書き乍ら、実は此の小説を読む迄、彼の事を全く知らなかった。
京都霊山護国神社には、坂本龍馬と(彼と共に「近江屋事件」で殺害された)中岡慎太郎の銅像と墓が建てられているが、坂本龍馬の墓の傍に中井庄五郎の墓が在るのだとか。「此の人は誰?」と興味を持つ人が少なく無く、近年は注目を集めているのだそうだ。
1847年に生まれ、1868年に20歳で亡くなった中井。尊皇攘夷派だった彼は坂本龍馬に私淑していた。剣の腕も立った様で、沖田総司、永倉新八、斎藤一という、新選組の中でも凄腕の3人と、“実質的に”1人で斬り合ったものの、無傷だったという話が在る。
尊敬する坂本龍馬が殺され、紀州藩士の三浦休太郎が犯人と思った彼は、三浦が泊まっていた旅籠「天満屋」を襲撃する。所謂「天満屋事件」と呼ばれ、襲撃した15人の中には「後に外務大臣として、イギリスとの間に日英通商航海条約を締結した陸奥宗光。」も居た。三浦には護衛として、新選組の斎藤一等7人が付いており、激しい斬り合いの末、襲撃側で唯一亡くなったのが中井だったと言う。
奈良県の最南端に在る十津川村。「日本の施政権が及んでいる範囲では、村として最大の面積。」として知られる十津川村は、熊野参詣道小辺路や谷瀬の吊り橋、野猿、十津川温泉等、様々な観光スポットが存在する。非常に面積が広く、交通手段も限られているので、移動には滅茶苦茶長い時間を必要とするが、大分前に彼の地を旅した家人によると、「とても良い所だった。」との事。
「十津川郷に在住していた郷士集団。」を十津川郷士と呼ぶが、中井もそんな1人。十津川郷士は「神武天皇東征の際、道案内に立った八咫烏をトーテムと信じている。」等、古くから朝廷に尽くして来た事でも知られている。南北朝の時代には、自分達を頼って来た後醍醐天皇(南朝の初代天皇)と其の皇子・護良親王を守り支える等、勤皇の意識が非常に強かった。
で、「十津川警部 坂本龍馬と十津川郷士中井庄五郎」で初めて知った1つに、「十津川村は、1,200年近く“無税”だった。」という事実が在る。「山間の農耕に適さぬ地形で、税たる農作物が満足に作れない。」という地理的条件も在るけれど、「朝廷に尽くして来た。」という事から、「古来より“免租の地域”として、時々の権力者の支配を受けず、半ば独立した村落共同体として存在し続けた。」と言う。
具体的に言えば、「天武天皇が起こした壬申の乱(672年)に十津川の民が出陣し、大きな功績を残した事から“免租の地”となり、明治政府により『地租改正』(1873年)が行われる迄の1,200年近く“無税”だった。」との事。驚きの事実だった。