夏季オリンピックに関してですら、一般の人からすると関心度が低い自分。夢中になって見るのは野球とソフトボール、そして競泳位か。これが冬季オリンピックになると、競技者達には申し訳無いけれど関心度は極めて低くなる。ウインター・スポーツと称される物を嗜まないというのが、関心度の低さに大きく影響しているのは間違い無い。現在開催中のバンクーバー・オリンピックに関しても、スポーツ・ニュース等でダイジェスト版を見ているだけという在り様だ。そんな自分が、バンクーバー・オリンピックに付いてチラッと触れてみたいと思う。関心度の低い人間の戯れ言と、サラッと読み流して戴きたい。
「事業仕分けで、特定の競技への支援が見直し&廃止が決定した。」という報道(この報道自体、必ずしも正しくは無かった様だが。)がされた際、「選手達は純粋に競技に取り組んでいるのだから、それを支援しないとは何事だ!仕分け人達は鬼か?」等と憤慨を口にする知識人達が結構居た。そんな彼等に「今回のオリンピックで、日本人選手達は幾つメダルを獲得すると思いますか?」との質問が為されると、「最低でも10個。兎に角、沢山獲って貰わないと困ります。我々の貴重な血税で、彼等は行っているのですから。」等と平然と“同じ口で”言い放つ者が少なからず居たりする。「純粋にスポーツに打ち込む事」を礼讃する一方で、「沢山獲って貰わないと困ります。」と口にする不思議さ。「『困ります。』って、貴方何様なの?」と突っ込みを入れたくもなる。まあ、そういう好い加減な部分って、多くの人が多少なりとも持っている物だけれど・・・。
そして、これは冬季オリンピックのみならず夏季オリンピックのにも言える事なのだけれど、“個人的には”「感性や感情が採点に介在する競技」というのがどうも好きでは無い。シンクロナイズドスイミングの様に「芸術的な表現力」が採点対象になる競技がそうで、採点者の感性によって評価が微妙に変わるのがどうもスッキリしない。
サッカーやボクシング、野球等で良く指摘される“アウェーでの不利さ”。これなんかは感情が競技の判定に介在している訳で、どんな競技でも判定から100%感情や感性を取り除くなんていうのは無理だけれど、それでも「芸術的な表現力」なんていう物からすると、その度合いは高く無い様に思う。
誤解しないで欲しいのは、「感性や感情が介在する競技が悪い。」と言っている訳では無いという事。シンクロナイズドスイミングを見ていて「綺麗だなあ。」と自分も思うし。唯、「“スポーツの判定としては”スッキリしないし、そういうのって好きじゃないなあ。」という思いが在るだけの話。これは「数学はバシッと一つの答えだけ導き出されるから好きだけど、国語は幾つも答えが在り得るから好きじゃない。」、「否、色んな答えが在り得るからこそ、国語は良いのだ。寧ろ一つの答えしかない数学の方が、自分は詰らない。」等と、多種多様な考え方が在るのと同様で、「スポーツにも、色んな捉え方が在って良い。」のは言う迄も無い。
「事業仕分けで、特定の競技への支援が見直し&廃止が決定した。」という報道(この報道自体、必ずしも正しくは無かった様だが。)がされた際、「選手達は純粋に競技に取り組んでいるのだから、それを支援しないとは何事だ!仕分け人達は鬼か?」等と憤慨を口にする知識人達が結構居た。そんな彼等に「今回のオリンピックで、日本人選手達は幾つメダルを獲得すると思いますか?」との質問が為されると、「最低でも10個。兎に角、沢山獲って貰わないと困ります。我々の貴重な血税で、彼等は行っているのですから。」等と平然と“同じ口で”言い放つ者が少なからず居たりする。「純粋にスポーツに打ち込む事」を礼讃する一方で、「沢山獲って貰わないと困ります。」と口にする不思議さ。「『困ります。』って、貴方何様なの?」と突っ込みを入れたくもなる。まあ、そういう好い加減な部分って、多くの人が多少なりとも持っている物だけれど・・・。
そして、これは冬季オリンピックのみならず夏季オリンピックのにも言える事なのだけれど、“個人的には”「感性や感情が採点に介在する競技」というのがどうも好きでは無い。シンクロナイズドスイミングの様に「芸術的な表現力」が採点対象になる競技がそうで、採点者の感性によって評価が微妙に変わるのがどうもスッキリしない。
サッカーやボクシング、野球等で良く指摘される“アウェーでの不利さ”。これなんかは感情が競技の判定に介在している訳で、どんな競技でも判定から100%感情や感性を取り除くなんていうのは無理だけれど、それでも「芸術的な表現力」なんていう物からすると、その度合いは高く無い様に思う。
誤解しないで欲しいのは、「感性や感情が介在する競技が悪い。」と言っている訳では無いという事。シンクロナイズドスイミングを見ていて「綺麗だなあ。」と自分も思うし。唯、「“スポーツの判定としては”スッキリしないし、そういうのって好きじゃないなあ。」という思いが在るだけの話。これは「数学はバシッと一つの答えだけ導き出されるから好きだけど、国語は幾つも答えが在り得るから好きじゃない。」、「否、色んな答えが在り得るからこそ、国語は良いのだ。寧ろ一つの答えしかない数学の方が、自分は詰らない。」等と、多種多様な考え方が在るのと同様で、「スポーツにも、色んな捉え方が在って良い。」のは言う迄も無い。
審査員の詳しい点数ってわかりかねます。
基準がその国や審査員によって変わってくると、ひどければえこひいきがつながりそうなんで、どうしても好きになれないのです。
夏はシンクロ、冬はフィギュアスケートがあまり好んで見ないのはそこです。
まあ、オリンピックは見ますが、世界選手権をやってもフィギュアは見ません。
勝敗のはっきりしたほうがすっきりすんですよね。
自分やてくっぺ様は苦手だけれど、「審査基準に曖昧さが在るのが、寧ろ面白みが在って良い。」とする人も居るでしょうね。それはそれで良いと思います。斯く言う自分は「曖昧さの在る科目『国語』が好き。」だし、その意味では一貫性が無いとも言える。絵画鑑賞も好きだけれど、「この絵は100点だけれど、あっちの絵は76点だなあ。」なんて見方をしている訳でも無く、感情の赴くままに見ているだけだし。
「体操はオリンピックの中で最も人間的な人間くさい競技です。審判をふくめた人と人との戦いという意味で。」
加藤さんにしてみれば、それこそ、ライバルであるソ連の審判にも高得点をつけずにはいられなくするような演技を見せることが最高の快感だったのでしょう。
「電気計時で努力を測られる競技の方が僕はむなしいと思います。」
とも加藤さんは語っていますが、実は僕が冬季五輪の競技で一番好きなのは、スピードスケートの短距離種目です。日本人がメダルを取ったから、というだけでなく、高速でのコーナリングは見ていてカタルシスを得られます。
陸上競技はマラソンや長距離が好きですが、スケートの長距離は見ていて冗長な感じがしますし、ショートトラックはせわしなさ過ぎます。
作家の椎名誠さんは五輪ではスキーのジャンプや陸上の棒高跳びが好きなのだそうです。
「人間が空を飛ぶ」
のが好きだからだとか。
「電気計時で努力を測られる競技の方が、僕はむなしいと思います。」というのも、理解は出来ます。と言うのも「判定への感情介在」が嫌いな自分ですが、でも「野球の判定を全て機械で行なう」となると、それは嫌だからです。「おいおい、これがアウトかよ?審判おかしいんちゃう?」と愚痴り乍らも、全てが機械で管理されてしまうとなるのも嫌だから。ヒューマン・エラーも、野球の良い味付け(ドラマ化)になっているケースも在ると思ったりもするのですから、自己矛盾も甚だしいです。
「福本選手の華麗な走り」や「ホーナー選手の信じ難い飛距離のホームラン」、「イチロー選手の華麗な守備」、「王選手の美しい打撃フォーム」等々、野球でも結果以外の部分に魅せられた事は数多く在ります。ですので「技術と芸術が重なるのはスポーツならでは。」というのはその通りだと思うのですが、例えば野球の場合は「判定に感情が基本的には介在しない。」という違いがシンクロナイズドスイミングとは異なっている様に感じるんです。つまり「起承転結」で考えると、野球の場合は「結」の部分で厳密に感情が排されるけれど、シンクロナイズドスイミングの場合は「起」から「結」に到る迄多分に感情が介在してしまう違いと言いましょうか。それが良い悪いでは勿論無いのですが、どうも個人的には不得手というのが正直な所です。