*****************************
1. 用便に行かせなかったり、食事時間が過ぎても教室に留めて置く事は、肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に違反する。
2. 遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせない事は、例え短時間でも義務教育では許されない。
3. 授業時間中、怠けたり、騒いだからといって、生徒を教室外に出す事は許されない。教室内に立たせる場合には、体罰にならない限り懲戒権内として認めて良い。
4. 人の物を盗んだり、壊したりした場合等、懲らしめる意味で、体罰にならない程度に放課後残したりしても差し支えない。
5. 盗みの場合等、その生徒や証人を訊問する事は良いが、自白や供述を強制してはならない。
6. 遅刻や怠けた事によって、掃除当番等の回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
7. 遅刻防止の為の合同登校は構わないが、軍事教練的色彩を帯びない様に注意する事。
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1949年、法務省の前身の法務庁が発表した「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」で在る。この7つの心得は”一応”現在迄適用されている事になっているのだが、政府の肝入りで設置された教育再生会議*1は、「体罰」の定義となっているこの心得の見直しを求める方針を固めたそうだ。
過去の記事でも書いた様に、自分は異常な程厳しい校則の下で学生生活を送って来た。理不尽な校則を錦の御旗にして明らかに自らのストレス発散を目的とした体罰を為す教師も居り、だからこそ権力を笠に着ての体罰にはトラウマの様な物を抱えている。(何処ぞのプロ野球チームの元監督が”愛の鞭”と称して、選手達を良くぶん殴ったり蹴り上げたりしていた。マスメディアはそれを然も麗しい出来事の様に報じていたが、大の大人に対するそんな行為は単なる暴力に過ぎないと辟易する思いだった。)
しかし、だからと言って体罰を全面的に否定もしていない。小学生の頃、決して行儀の良い生徒で無かった自分は担任からしばしば怒られたし、御尻を手で叩かれるという体罰を受けた。その頃は体罰に不満を覚えなかった訳でも無いが、でも「自分が明らかに悪い事をした。」という思いが在り、担任に対して恨みを持つなんて事は無かった。今となってみれば、社会の何たるかなんて判り様も無い当時の自分に、言葉だけで注意しても果たして何処迄伝わったか疑問だし、痛さによって自分の落ち度を再認識させられたという面は在った様に思う。
体罰の許容範囲を明確に線引きするのは困難だが、抽象的な言い方をすれば、教師の側が感情に任せて行なうのは体罰では無く、単なる暴力だろう。体罰として御尻を叩く際に、教師が自らの手で叩くので在れば生徒の側も痛みを覚えるが、同時に教師の側も手に幾許かの痛みを伴い、即ち痛みを共有する。しかし、手では無く物を使って叩くなんていうのは論外。教師の側が自らの痛みだけを放棄した様に、自分には思えるからだ。遅刻した生徒を教室に入れずに廊下に立たせて置くなんていうのは、個人的には在りだと考えている。
そこで皆様にズバリ聞きます!「体罰に付いてどう思われますか?そして体罰を100%否定されない場合は、具体的にどの程度迄許されるものと考えられますか?」![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)
*1 昨年の紅白に於ける”DJ OZMAの脱ぎ騒動”に関して、教育再生会議の委員達の間から「ショックを受けた。」、「孫と見ていたがとんでもない!」等の批判が相次いだそうで、山谷えり子首相補佐官は「放送倫理・番組向上機構(BPO)や公共広告機構(AC)、日本広告審査機構(JARO)等と未成年向けのテレビ放送の在り方に付いて協議する必要が在る。」とのコメントを発表した。
あの演出に関しては賛否両論在って当然とは思うが、だからと言って「一個人がどうこうと言うのならば未だしも、政府の一組織が”あのレベル”の事でワアワア騒ぐ必要性が在るのだろうか?」と正直思う。そりゃあ”ハケ水車”(この企画だって御下劣で、決して好ましいものとは言わないが、子供達が視聴しない”で在ろう”深夜帯に放送していたものだし。)の様な事を紅白でやったというなら問題だろうが、裸に見えるボディー・スーツ程度で果たして政府の一組織が噛み付く程のものなのだろうか?それならば、民放の生放送でポ○チンを丸出しした笑福亭鶴瓶氏の方が余程問題だと思うのだが。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_nika.gif)
以前の記事「教育再生」でも触れたが、教育再生会議を”実質”仕切っている山谷女史のエキセントリックさにずっと懸念を覚えている。”DJ OZMA脱ぎ騒動”よりも他に最優先で論じる問題は山積みの中、敢えて政府の一組織を代表してこういうコメントが出された事に、言っちゃあ悪いが山谷女史のエキセントリックさがかなり影を落としている様に感じてしまう。何度も書くが、個人でどうこう言うのならば未だしも、政府の一組織としてコメントを出す程の事柄とは思えず、何か昔の”漫画総バッシング時代”の様で気持ちが悪い。
大多数が不快感や疑問を覚える様な演出ならば論外だが、上半身の裸程度は自分が子供の頃の番組でもチラホラ流れていた様に思う。それに対して親は、「さあさあ此処からは、大人の時間だぞ。」といった感じで”柔軟に”対応していたもの。或る意味、大人の対応力が今問われている様な気もするのだが・・・。
それにしても「教育再生会議の委員達が、本当に教育を論じるに相応しい面々なのだろろうか?」という疑問が発足当初からずっと在る。著名人を一般人扱いするのも何なのだが、教育のプロでは無い一般人からの意見を聞くという発想は悪くないのだが、旧こぶ平氏のおっかさんの「挨拶の出来る子が少のうございます。それは母親が教えてくれた幼児言葉を無くしたせい。幼児言葉と子守唄を復活させる事が大切。」や、元シンクロ選手の「三十人三十一脚をテレビで見て非常に感動した。ここから助け合う事を学べるので、学校でも直ぐ(三十人三十一脚を)取り入れたら良いのでは?」等の委員達の発言を見聞してしまうと、名前だけで委員を掻き集めるのでは無く、”もっとアレな人達”を選任す可きではなかったのだろうかと改めて思ってしまう。
1. 用便に行かせなかったり、食事時間が過ぎても教室に留めて置く事は、肉体的苦痛を伴うから体罰となり、学校教育法に違反する。
2. 遅刻した生徒を教室に入れず、授業を受けさせない事は、例え短時間でも義務教育では許されない。
3. 授業時間中、怠けたり、騒いだからといって、生徒を教室外に出す事は許されない。教室内に立たせる場合には、体罰にならない限り懲戒権内として認めて良い。
4. 人の物を盗んだり、壊したりした場合等、懲らしめる意味で、体罰にならない程度に放課後残したりしても差し支えない。
5. 盗みの場合等、その生徒や証人を訊問する事は良いが、自白や供述を強制してはならない。
6. 遅刻や怠けた事によって、掃除当番等の回数を多くするのは差し支えないが、不当な差別待遇や酷使はいけない。
7. 遅刻防止の為の合同登校は構わないが、軍事教練的色彩を帯びない様に注意する事。
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1949年、法務省の前身の法務庁が発表した「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」で在る。この7つの心得は”一応”現在迄適用されている事になっているのだが、政府の肝入りで設置された教育再生会議*1は、「体罰」の定義となっているこの心得の見直しを求める方針を固めたそうだ。
過去の記事でも書いた様に、自分は異常な程厳しい校則の下で学生生活を送って来た。理不尽な校則を錦の御旗にして明らかに自らのストレス発散を目的とした体罰を為す教師も居り、だからこそ権力を笠に着ての体罰にはトラウマの様な物を抱えている。(何処ぞのプロ野球チームの元監督が”愛の鞭”と称して、選手達を良くぶん殴ったり蹴り上げたりしていた。マスメディアはそれを然も麗しい出来事の様に報じていたが、大の大人に対するそんな行為は単なる暴力に過ぎないと辟易する思いだった。)
しかし、だからと言って体罰を全面的に否定もしていない。小学生の頃、決して行儀の良い生徒で無かった自分は担任からしばしば怒られたし、御尻を手で叩かれるという体罰を受けた。その頃は体罰に不満を覚えなかった訳でも無いが、でも「自分が明らかに悪い事をした。」という思いが在り、担任に対して恨みを持つなんて事は無かった。今となってみれば、社会の何たるかなんて判り様も無い当時の自分に、言葉だけで注意しても果たして何処迄伝わったか疑問だし、痛さによって自分の落ち度を再認識させられたという面は在った様に思う。
体罰の許容範囲を明確に線引きするのは困難だが、抽象的な言い方をすれば、教師の側が感情に任せて行なうのは体罰では無く、単なる暴力だろう。体罰として御尻を叩く際に、教師が自らの手で叩くので在れば生徒の側も痛みを覚えるが、同時に教師の側も手に幾許かの痛みを伴い、即ち痛みを共有する。しかし、手では無く物を使って叩くなんていうのは論外。教師の側が自らの痛みだけを放棄した様に、自分には思えるからだ。遅刻した生徒を教室に入れずに廊下に立たせて置くなんていうのは、個人的には在りだと考えている。
そこで皆様にズバリ聞きます!「体罰に付いてどう思われますか?そして体罰を100%否定されない場合は、具体的にどの程度迄許されるものと考えられますか?」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuma_wel.gif)
*1 昨年の紅白に於ける”DJ OZMAの脱ぎ騒動”に関して、教育再生会議の委員達の間から「ショックを受けた。」、「孫と見ていたがとんでもない!」等の批判が相次いだそうで、山谷えり子首相補佐官は「放送倫理・番組向上機構(BPO)や公共広告機構(AC)、日本広告審査機構(JARO)等と未成年向けのテレビ放送の在り方に付いて協議する必要が在る。」とのコメントを発表した。
あの演出に関しては賛否両論在って当然とは思うが、だからと言って「一個人がどうこうと言うのならば未だしも、政府の一組織が”あのレベル”の事でワアワア騒ぐ必要性が在るのだろうか?」と正直思う。そりゃあ”ハケ水車”(この企画だって御下劣で、決して好ましいものとは言わないが、子供達が視聴しない”で在ろう”深夜帯に放送していたものだし。)の様な事を紅白でやったというなら問題だろうが、裸に見えるボディー・スーツ程度で果たして政府の一組織が噛み付く程のものなのだろうか?それならば、民放の生放送でポ○チンを丸出しした笑福亭鶴瓶氏の方が余程問題だと思うのだが。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_nika.gif)
以前の記事「教育再生」でも触れたが、教育再生会議を”実質”仕切っている山谷女史のエキセントリックさにずっと懸念を覚えている。”DJ OZMA脱ぎ騒動”よりも他に最優先で論じる問題は山積みの中、敢えて政府の一組織を代表してこういうコメントが出された事に、言っちゃあ悪いが山谷女史のエキセントリックさがかなり影を落としている様に感じてしまう。何度も書くが、個人でどうこう言うのならば未だしも、政府の一組織としてコメントを出す程の事柄とは思えず、何か昔の”漫画総バッシング時代”の様で気持ちが悪い。
大多数が不快感や疑問を覚える様な演出ならば論外だが、上半身の裸程度は自分が子供の頃の番組でもチラホラ流れていた様に思う。それに対して親は、「さあさあ此処からは、大人の時間だぞ。」といった感じで”柔軟に”対応していたもの。或る意味、大人の対応力が今問われている様な気もするのだが・・・。
それにしても「教育再生会議の委員達が、本当に教育を論じるに相応しい面々なのだろろうか?」という疑問が発足当初からずっと在る。著名人を一般人扱いするのも何なのだが、教育のプロでは無い一般人からの意見を聞くという発想は悪くないのだが、旧こぶ平氏のおっかさんの「挨拶の出来る子が少のうございます。それは母親が教えてくれた幼児言葉を無くしたせい。幼児言葉と子守唄を復活させる事が大切。」や、元シンクロ選手の「三十人三十一脚をテレビで見て非常に感動した。ここから助け合う事を学べるので、学校でも直ぐ(三十人三十一脚を)取り入れたら良いのでは?」等の委員達の発言を見聞してしまうと、名前だけで委員を掻き集めるのでは無く、”もっとアレな人達”を選任す可きではなかったのだろうかと改めて思ってしまう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face_z.gif)
giants-55さん、我らが?巨人軍の補強(補弱)の仕方はどうなんでしょうか?工藤選手を放出して、門倉ですから。訳がわかりません。
ところで、体罰ですが、
以前教育現場で働いていたときは、感情むき出しにして生徒をぶん殴っていました。いつも、ムカついて、いらいらして、『なぜ言うこときかないんだ!!』という気持ちで、生徒を殴っていました。
現場から離れてはじめて自分のしてきたことが理解できました。今は体罰反対です。
giants-55さんのおっしゃるように、体罰の線引きは難しいのですが、授業を妨害する生徒がいる場合は、一時的に教室外に出しても問題ないと思います。お尻ペンペンや、拳骨は厳しいと思います。
教師の質が低下していると考えられるし、PTAの考え方もだいぶ変わってきていますので、手を出すのは体罰として禁止し、その代わり、授業妨害する生徒の親を指導する。それを義務にすると面白い面白いと勝手に思っています。
そういえば、教育再生委員会、
これで本当にいいんかい?
と、言いたくなるようなレベルでございます。
そんな人たちに国の将来にかかわる、教育について方って欲しくない。
大丈夫ですかね~?
こんなこと議論していて。委員会のみなさん!!
今の教育再生委員会の皆様がたは、どうも真の問題をわかっていない方が多いようですね。別に女性を否定するわけではないですが、変なことに固執して攻撃するよりも、もっとやらなければならない問題があることに早く気づいて欲しいものです。
工藤投手をプロテクトから外していたのが未だに解せません。若手選手をプロテクトから外す訳にもいかず、苦渋の末に外したと上層部は語っていますが、戦力的にも彼は貴重な存在だし、何よりも甘ったれた生え抜き選手が多い中で、あれだけのプロ意識を持った選手は生きた教科書な筈。ましてや昨年オフに、原監督が直々に工藤選手に対して「来季も一緒に頑張ろう!」と声を掛けたという報道も在り、それなのにこの”仕打ち”では、他の選手達も監督に忠誠心を持とうなんて思わなくなるのではないかと心配しています。
さて本題ですが、教師とはいえ人間ですからついつい感情的になってしまう面が在るとは思います。本来の業務以上に様々な雑務を負わされ、非常識な保護者達(全部が全部とは勿論言いませんが。)からの圧力や、そういった親達を見て育ったこれ又非常識な生徒達(こちらも勿論全部では在りませんが。)の面倒を見なければならないのですから、”まともな”教師にとってはさぞや精神的なプレッシャーは多い事でしょう。
感情に任せた振る舞いは許されないと思いますが、「教師と生徒」との間には理屈では無い”壁”が厳然と在って然る可きで在り、やはり一定以上の悪しき行為を為した生徒には毅然と、度を越さない体罰をしても良いのではないかなあという気がします。
問題行動を為す生徒の親の指導を義務化というのは良い案ですね。産み捨てした様な親が多い中、きちんと責任を負わせるのは必要と自分も感じます。
恐らくsyuu様と自分はほぼ同世代と思っているのですが、我々の学生時代は校則&体罰の苛烈さは異常な程でしたね。特に都市圏では、その酷さが際立っていたと聞きます。syuu様は竹刀で叩かれたとの事ですが、同い年の知り合い(関東圏在住)は木刀で御尻を思いっきり叩かれて、物凄い青痣が出来たと言っていました。こんなのは教育では無く、単なるストレス発散の為の暴力に過ぎないでしょう。”趣味”の話を聞いていなかっただけで、ロッカーの上に正座というのも酷い話ですね。
記事ではたまたま女性の委員達の”迷言”を列挙しましたが、勿論男性の委員達の意見にも妙な物が在りました。結局、安倍政権の目指す方向性に沿った人達を委員として掻き集めたのでしょう。何度も書いている事ですが、安倍首相の”形”に執着し、肝心な”中身”が薄い姿勢に不安を覚えます。子供達は国家の宝。必要以上に甘やかす必要は在りませんが、でも彼等の事を最優先した取り組みを真剣にやって貰いたいです。
自分が子供の頃、尊敬に値する大人も居ましたが、「ああはなりたくない。」と子供心にも思ってしまう駄目な大人も居たんですよね。大人が誰も彼も皆立派な存在では無かったというのは、今も昔も変わらない事では在ります。唯、明らかに違うのは、子供達の多くがそれこそ「1+1=2」という数式と同様に、「大人は大人、子供は子供で全く違う存在。大人の言う事に子供は従わなければいけない。」という思いが在った事ではないかと。それが崩れて来てしまったのは、所謂団塊の世代の子供達の代辺りからの様な気がします。
教師と生徒の関係で言えば、昔とは違って大学進学率が著しく高まり、親達自身が教師に対するリスペクトの念を失い、子供達に向かって「あんな駄目な先生は~。」等と侮蔑の言葉を言ったりすれば、そりゃあ子供達だって教師を軽んじるのは自明の理。
後、「何故それが悪い事なのか。」というのを系統立てて説明出来ない(又は面倒臭いと思っている)親や教師が増えているのも問題なんでしょうね。
仰る様に愚直な迄に一生懸命頑張っている教師も決して少なくない筈。そんな教師達が精神的に追い込まれ、休養せざるを得なくなっている現状が在るならば、”一定の範囲内での感情に任せない”体罰は在りだと自分は考えます。
ある意味かわいそうな職業なわけで。なんだかこういった相関関係と学校の荒れは無関係でないと思うのですが、都会の人、山谷某のような人には見えづらいのでしょうね。山谷はもしや学校を某統一協会の理想像の姿のようにしたいのかな。しかしねぇ。あの「イートン校」ですら某H王子(父上は別の学校だったと思いますが、陰湿ないじめのターゲットだったとか。彼本人も何らかのターゲットにされていたのかも。ゆすりとか)は隠れてハッシシだか大麻だかやっとったんですから、完全に管理教育にはできんでしょうね(笑)。
え~と我が家では息子たち(小5と小3)が
「偽乳(にせちち)!」と
あっさり指摘しましたし、
私なぞ
「NHKが国際配信している番組で裸なんかあるわけないだろw」
と冷静に画面を眺めておりました。
息子たちに言わせると
・体の表面にしわが寄っていた(実際のあのくらいの年代の肉体ではしわはよらない)
・服を着ているときに腹部に必要以上にボリュームがあった
ということです。
いまは常識的な校則を守れ、という指導に対しても必要以上に反発する「いかれた」保護者がときどきいますので、体罰を見直すなら、どう見直したのかをあまねく知らしめないと、余計なトラブルの元になると思います。
殴って問題が解決するなら殴りますけどね、解決しないって。
「教師一族」というのは地方部で特に多い事なのかもしれませんね。特定郵便局の局長と似た感じなのかも。
「将来の日本を背負って立つ子供達の育成」って非常に重要な事ですし、それを行なう教師って職業は自ずと尊ばれる(尊ばれなければ”ならない”という意味では在りません。)ものの筈。此処迄教育現場がグチャグチャになってしまった以上、やれ教師が悪い、やれ家庭が悪いと責任転嫁をするのでは無く、皆が協力し合ってより良き教育が行なえる環境を作る事が最優先す可きでしょうね。
十人十色、様々な個性や思想&信条を持った人達で構成されている人間社会。特に社会性という面では未だ未成熟な子供達の集団で在る学校では、守らせる可き規律を守らせるのは当然ですが、一から十迄全てに於いて”ロボットの如く”従わせるというのも不気味な話。教育再生会議の面々、特に仕切っている人達はどうもそういった不気味さを求めている様で直怖いです。
そういえば「教鞭」なんて言葉死語ですね。せっかくだから復活させましょう。イギリスの競馬なみに鞭で叩くのは3回までとか決めておいて、違反した教師は免許停止。親か子供によって鞭打たれるとか。
子供を馬と同じに扱うな、という良識派の声が聞こえてきそうですがとんでもない!
馬に失礼です。