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「さもしい」という言葉を知ったのは、幼少時に見ていた人形劇「新八犬伝」(動画)でだった。登場するキャラクターの1人に網干左母二郎(あぼし・さもじろう)なる浪人が居て、彼の決め台詞が「さもし~い浪人、網干左母二郎たぁ、俺の事だぁ~!」。せこくて狡賢く、心根が卑しいのだけれど、何処か抜けた所が在り、「100%の悪人」には成り切れないというのが魅力のキャラクターだった。
自分自身を「さもしい」と言い乍ら、憎めなさを有している網干左母二郎の様な人物なら良いのだが、世の中には「さもしさ」しか感じられない様な人が居たりする。本当に残念な事なのだけれど。
知人から聞いた話だ。彼の家の近所に在る某コンビニエンス・ストアでは、敷地内(屋外)に小さな机とベンチ、そして灰皿が置かれていて、其処では日中に男性の高齢者達が数人集まり、談笑している姿が良く見掛けられた。コンビニで購入した飲食物をテーブルに置き、四方山話に興じている彼等の姿を見掛ける度に、「退職して以降は『世間との繋がりが無くなった。』と、家に閉じ籠った儘になってしまう男性高齢者も少なくないと言われているけれど、同世代がこうやって談笑出来る場所が在るって良いよなあ。」と彼は微笑ましく思っていたと言う。
しかし数ヶ月が経った頃、何時もの場所に誰も居らず、椅子やテーブル等が全て片付けられていた。「どうしたんだろう?」と気になった彼は、(コンビニの)顔見知りの店員に聞いてみた所、其の店員が「実は・・・。」と困惑気味に話したのは・・・。
談笑する光景が見られる様になってから数日後、其のコンビニに「外に集まっている爺達が邪魔!直ぐに排除しろ!然もないと、其方で一切商品を買わないし、不快に思っている人達と共に不買運動を起こすぞ!!」という抗議の電話が連日掛かって来る様になったそうだ。同じ人間が掛けていた様だが、「特に迷惑を掛けられている訳でも無いので、排除しろというのは・・・。」と店長はやんわり拒否していた所、インターネット上で同様の抗議が執拗に書かれたり、其のコンビニの親会社に抗議の電話が行く様になったりし、止むを得ず椅子やテーブル等を撤去する事になったのだと。
店舗に出入りする客達の邪魔になっていた訳でも無く、大騒ぎをしたりゴミを撒き散らかしたりしていた訳でも無い(吸殻は灰皿にきちんと捨てていたとの事。)、単に数人が集まって談笑していただけの高齢者を、「邪魔だから。」の一言で排除しようとする人間の心には、「さもしさ」しか感じられない。「皆が仲良くしているのを見るのが気に食わない。」という理由からか、矢鱈と意味不明な難癖を付ける人をインターネット上で時々見掛けるが、同種の人間なのかもしれない。
居場所を無くし、他者と触れ合う場所を捜し求める身に、自分も何れはなるかもしれないのに・・・。
私は自宅から駅まで自転車を使っています。私が使っている駐輪場は神戸市営の駐輪場で、3ヶ月4000円。1ヶ月1300円ほどです。
私と同じころ、同じ駅から出勤するおっさんがいます。そのおっさんは、駅前のスーパーの駐輪場に自転車を止めています。毎朝です。「お買物のお客様以外はお断り」の立て札の前にです。
月に1300円のお金が惜しいのでしょうか。なんともさもしいおっさんです。
不景気から“御小遣い”が減額されているのかもしれませんが、其れにしてもさもしい行為では在りますね。(駐輪場が一杯になっているという訳でも無いでしょうし。)「御買物の御客様以外は御断り」とわざわざ注意書きして在るのだし、何よりもそういった行為によって、本来買い物の為に自転車で来店した人が停められなくなってしうまう可能性も在るのだから。
私の市の中心部に市唯一の小中高以外の学校である看護学校があります。その近くの商店街のコンビニにはそこの学生がいつもたむろしています。近年は看護師になる人は大学や短大に行くそうで、今は昔のような高卒・中卒者ではなく正看護師になるため通っている準看護師が学生の中心だという話なのですが、
看護師というのは喫煙率が高いようです。
時々町会、商店街にもクレームが来ますが、単純に彼らのマナーに関するものなので、文中のケースのような病的なクレームではありません。
商店街にすると彼らがたむろしてくれたほうが人がいてありがたいという面もあります。
(何度か看護学校の廃止が検討されるのですが、商店街が反対しています)
大声で騒いだり、飲食物や吸殻で周りを汚し捲ったりしていたら勿論論外ですが、知人曰く「マナー良く談笑しているだけの高齢者。」という事で、「何故彼等を排除しろ!」と主張するのか理解不能。仰る様に「自身と同じ様に居場所を無くした人達が談笑しているのが許せないという、他者とのコミュニケーションを上手く取れない人のやっかみ心。」というのも可能性は在るでしょうね。
我家の子供によると、「どや顔」は下品な表現で、「したり顔」は悪巧みでもしているような表現だと言ってました。
さて、さもしさ・・・他者への思いやりというか、許容量が少ないのでしょう。心の貧しさがそのまま現れているというか。
みんなが貧しかった時代よりも、貧富の差が広がり、それが世襲されているような感のある現在のほうが、さもしい人が増えているような気がします。心にゆとりが無いのでしょうね。
他人の幸せを妬む暇があれば、心を豊かにする趣味の一つも持てばいいのに・・・。
全く落ち度が無いのに、難癖を付けて駅員に暴力を振るう客が近年増えていると聞きます。「客だから偉いのだ。」という“頭の悪い勘違い”も在るのでしょうが、“心のゆとりの無さ”も要因としては在るのかもしれません。自身の心のキャパシティーが一杯一杯で、少しでも弱いと思う立場の人に、剥き出しの暴力が向かう。暴力は物理的な物だけでは無く、言葉の暴力も含む訳ですが、実に寂しい話です。
悠々遊様の様に星空を見上げる事で、心の中が沈静化されて行くケースも在ろうし、「心を豊かにする趣味を持つ。」というのは大事な事でしょうね。
「近所の図書館に良くホームレスが現れ、水飲み場で水を飲でいるが、税金も払っていない彼等が無料で水を飲んでいるのは許し難い!」といった趣旨の書き込みをネット上で見掛けた事が在ります。そういった類の事で、ホームレスをバッシングしているケースも散見されますが、こういったケースの場合は「他人様に迷惑を掛けている訳では無いし、単に弱い者虐めをしたいだけでは?」と思ってしまいます。
で、今回の自転車の件ですが、確かに3518様が書かれている様なケースも在るでしょうし、気の毒には思うのですが、唯、上記のケーると比べた場合「他者への迷惑の有無」という点で、「考えなければいけない点が或るのではないだろうか?」という気がするんです。「少しでも支出を切り詰めたい。」という気持ちは良く判るし、其れで“時たま”スーパー等の無料駐輪場に停めるというのは看過して上げたいけれど、「真に買い物が目的で来た客が、自転車を停めれられない。」という可能性や、「不適切な形で駐輪場を使われる事で、売り上げ減の可能性が出る店側。」というのを考えると、「気の毒だから見逃して上げよう。」という気持ちに100%なれないというのが、自分の偽らざる思い。況してや、そんなに困窮していないのに、「こりゃラッキー!」といった軽い乗りで停めている人も居るかもしれないし。
「困っている人達に関しては、出来るだけ寛容な気持ちを持ちたい。でも困っているからと言って、他人様に迷惑を掛ける可能性が在る事迄、全てを許してしまうのもどうか?」という複雑な思いを、自分は抱えています。