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・ 同じちり紙の件では、笑えない思い出話がある、と陽平が話してくれたのはこうだ。「お前、便所で紙を何枚使っているんだ。」と聞かれたので、「四、五枚ですが、何か。」。これがいけなかった。「そういう無駄なことをするな。世界には紙じゃなく手で拭く民族だっているんだから、一枚を半分にしてケツを吹き、残りの半分は鼻紙に使え。」。「冗談じゃないですよ。」と今だから陽平は言う。「ある朝から仕方ないので五、六枚使った後、半分にちぎった紙を残しておいたんです。後から親父が入ると、親父はすっかりその気になって、『陽平の奴、ちゃんと半分でケツを吹くようになった。』って喜んでお手伝いさんに話してました。でもね、僕は家中の洗濯をさせられていたんですが、親父のパンツにはいつもうんこがくっついてたな。」昭和30年ごろの話である。戦時中は推して知るべしだろう。
・ あるとき、ダイエーを創業した中内功が笹川の事務所を訪ねた。二人の間で次のような会話が交わされたと、陽平が明かす。「中内氏は召集されて二等兵か上等兵で戦後復員してから、売春宿のある場所で女たちにチリ紙を売って、そこから『主婦の店ダイエー』を立ち上げて、あそこまでいった方。最後は人の持ち物を何でも欲しがってね、三越まで欲しいって言い出すぐらいだった。その方が親父のところへ来てこう言われた。『先生、お陰様で私も売春宿でチリ紙売っていたのが、今日までになれて何百億かの資産ができました。』とね。そのころはちょうどダイエーと取引したくて銀行の頭取が日参するような時代でしたが、親父はね、つまらなそうに聞いていて、『ああ、そう。それはおめでとう、よかったね。ところでキミ、あの世にその金を持ってゆく方法は考えたのか。』っていって、それでおしまい。」笹川は常々子供たち三人に対して、「俺はお前たちには一切財産は残さん。なまじ残すとろくなことにならない。財産を残さないという教育が俺の財産だ、よく覚えておけ。」といってはばからなかった。陽平が苦笑いしながらこうも言う。「そういったって死ねばまあ多少はこっちにもくるだろう、と思っていたらとんでもなかった。そのころ親父は数百憶は自分の金を持っていましたからね。死んだら、なんと本当に残っていなかった。」。
・ 「式典などに出られてお二人でお帰りになりますと、二階へお上がりになってそれはもう仲睦まじくってね。奥様のことを会長(笹川氏)が『アーちゃん、アーちゃん。』って、お呼びになるんですよ。それが甘えられた声でね、最初は私には何だか分からなかったんです。そうしたら奥様が「なあに、坊やちゃん。』って返事をなさる。これも驚いたんですが、会長が『ワンワン。』とお答えになると『ニャンニャン。』なんて奥様がお返事なさって、そういうときは仲がおよろしくって。」
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家庭で笹川氏が奥さんから「坊やちゃん」と呼ばれているという話は以前聞き及んでいたが、まさか「ワンワン。」とか「ニャンニャン。」と迄口にしていたとは。威圧感たっぷりの彼がそんな事を言っている場面や、パンツにうんこを付けていた姿を思い浮かべると、何か微笑ましさすら感じてしまう。
女性には極めてだらしなく、3人の息子達や其の母親に対しては冷たさを感じなくも無い笹川氏。私生活では半端で無い吝嗇さを見せる一方で、戦争による犠牲者の救済や福祉事業に対して自分が想像していた以上に私財を投じていたのも、又、笹川氏の姿。世の中には「死に金」と「生き金」が在ると良く言うが、彼の場合は終生「生き金」を使う事に費やした人生の様に思えた。
巣鴨プリズン内で彼が見た「地位高き人々達の浅ましい姿」、そして彼がハンセン病撲滅に注力する要因となった「幼き日の出来事」等、色々考えさせられる事の多い本だった。
*1 笹川良一氏が多々良純氏に似ていると思っていたのは、自分だけだろうか?
・ 同じちり紙の件では、笑えない思い出話がある、と陽平が話してくれたのはこうだ。「お前、便所で紙を何枚使っているんだ。」と聞かれたので、「四、五枚ですが、何か。」。これがいけなかった。「そういう無駄なことをするな。世界には紙じゃなく手で拭く民族だっているんだから、一枚を半分にしてケツを吹き、残りの半分は鼻紙に使え。」。「冗談じゃないですよ。」と今だから陽平は言う。「ある朝から仕方ないので五、六枚使った後、半分にちぎった紙を残しておいたんです。後から親父が入ると、親父はすっかりその気になって、『陽平の奴、ちゃんと半分でケツを吹くようになった。』って喜んでお手伝いさんに話してました。でもね、僕は家中の洗濯をさせられていたんですが、親父のパンツにはいつもうんこがくっついてたな。」昭和30年ごろの話である。戦時中は推して知るべしだろう。
・ あるとき、ダイエーを創業した中内功が笹川の事務所を訪ねた。二人の間で次のような会話が交わされたと、陽平が明かす。「中内氏は召集されて二等兵か上等兵で戦後復員してから、売春宿のある場所で女たちにチリ紙を売って、そこから『主婦の店ダイエー』を立ち上げて、あそこまでいった方。最後は人の持ち物を何でも欲しがってね、三越まで欲しいって言い出すぐらいだった。その方が親父のところへ来てこう言われた。『先生、お陰様で私も売春宿でチリ紙売っていたのが、今日までになれて何百億かの資産ができました。』とね。そのころはちょうどダイエーと取引したくて銀行の頭取が日参するような時代でしたが、親父はね、つまらなそうに聞いていて、『ああ、そう。それはおめでとう、よかったね。ところでキミ、あの世にその金を持ってゆく方法は考えたのか。』っていって、それでおしまい。」笹川は常々子供たち三人に対して、「俺はお前たちには一切財産は残さん。なまじ残すとろくなことにならない。財産を残さないという教育が俺の財産だ、よく覚えておけ。」といってはばからなかった。陽平が苦笑いしながらこうも言う。「そういったって死ねばまあ多少はこっちにもくるだろう、と思っていたらとんでもなかった。そのころ親父は数百憶は自分の金を持っていましたからね。死んだら、なんと本当に残っていなかった。」。
・ 「式典などに出られてお二人でお帰りになりますと、二階へお上がりになってそれはもう仲睦まじくってね。奥様のことを会長(笹川氏)が『アーちゃん、アーちゃん。』って、お呼びになるんですよ。それが甘えられた声でね、最初は私には何だか分からなかったんです。そうしたら奥様が「なあに、坊やちゃん。』って返事をなさる。これも驚いたんですが、会長が『ワンワン。』とお答えになると『ニャンニャン。』なんて奥様がお返事なさって、そういうときは仲がおよろしくって。」
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家庭で笹川氏が奥さんから「坊やちゃん」と呼ばれているという話は以前聞き及んでいたが、まさか「ワンワン。」とか「ニャンニャン。」と迄口にしていたとは。威圧感たっぷりの彼がそんな事を言っている場面や、パンツにうんこを付けていた姿を思い浮かべると、何か微笑ましさすら感じてしまう。

女性には極めてだらしなく、3人の息子達や其の母親に対しては冷たさを感じなくも無い笹川氏。私生活では半端で無い吝嗇さを見せる一方で、戦争による犠牲者の救済や福祉事業に対して自分が想像していた以上に私財を投じていたのも、又、笹川氏の姿。世の中には「死に金」と「生き金」が在ると良く言うが、彼の場合は終生「生き金」を使う事に費やした人生の様に思えた。
巣鴨プリズン内で彼が見た「地位高き人々達の浅ましい姿」、そして彼がハンセン病撲滅に注力する要因となった「幼き日の出来事」等、色々考えさせられる事の多い本だった。

*1 笹川良一氏が多々良純氏に似ていると思っていたのは、自分だけだろうか?
