昨夜、ザッピングしていたら、日テレG+で「ジャイアンツヴィンテージ」が放送されていた。「日本テレビが中継して来たジャイアンツ戦の中から、名場面を選りすぐって再放送する。」というのが此の番組のコンセプトで、1970年代から1980年代の試合が、メインで取り扱われている。
昨夜の内容は「1983年10月11日の対スワローズ戦」で、ジャイアンツがリーグ優勝を決めた試合。因みに、此の年のセ・パの最終順位は、下記の通り。
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1位:ジャイアンツ
4位:タイガース(同11.5ゲーム差)
5位:ドラゴンズ(同18.5ゲーム差)
6位:スワローズ(同19ゲーム差)
1位:ライオンズ
2位:ブレーブス(首位から17ゲーム差)
3位:ファイターズ(同20.5ゲーム差)
4位:バファローズ(同29.5ゲーム差)
5位:ホークス(同31.5ゲーム差)
6位:オリオンズ(同39.5ゲーム差)
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此の年のジャイアンツ、監督は藤田元司氏、助監督は王貞治氏、そしてヘッド・コーチは牧野茂氏(V9時代、“川上哲治監督の知恵袋”と称された人物。)という、所謂“トロイカ体制”。前年の1982年、ジャイアンツは2位に終わり、「今年こそは優勝。」という思いで臨んだ年だった。
此の年のジャイアンツの“スタメン”、「開幕戦」と優勝を決めた「10月11日の試合」とを下記してみる。
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「1983年のジャイアンツのスタメン」
≪開幕戦≫
≪10月11日の試合≫
1番:淡口憲治選手【ライト】
2番:鈴木康友選手【ショート】
3番:篠塚利夫(和典)選手【セカンド】
4番:原辰徳選手【サード】
5番:レジー・スミス選手【レフト】
6番:中畑清選手【ファースト】
7番:駒田徳広選手【センター】
8番:山倉和博選手【キャッチャー】
9番:西本聖選手【ピッチャー】
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ジャイアンツが開幕ダッシュに成功するも、“先発の三本柱”と呼ばれた江川卓投手、西本聖投手、そして定岡正二投手が揃って調子を落とし、抑えの角三男(光雄、盈男)投手が肘痛で精彩を欠いた事等から、6月に入って大失速。7月12日にはカープに首位の座を譲り、前半戦は2位で折り返し。後半戦に入ってカープは息切れし、ジャイアンツが勢いを取り戻した事から、最終的には2位のカープに6ゲーム差を付けての優勝となった年だった。
4番の原選手は、プロ3年目の25歳。甥っこの菅野智之投手が今年で25歳になるので、全く同じ年齢という事になる。
話を元に戻すが、昨夜の「ジャイアンツヴィンテージ」、見始めたのは「『7対4』とジャイアンツのリードで迎えた9回表、スワローズの攻撃時。」からだった。先発の西本投手が突如ペースを乱し、「無死満塁」の大ピンチを作って降板。抑えとして急遽マウンドに登ったのは、此の年「16勝9敗3セーヴ」を記録した江川投手。(因みに、此の年の西本投手は「15勝10敗」を記録。)1失点を許すも、「7対5」でジャイアンツが勝利し、リーグ優勝を決めた。
解説は“我等がカネやん”が務めていたが、解説と言うよりも“ジャイアンツの応援団”といった感じで、笑ってしまった。
スワローズは、ボビー・マルカーノ選手が4番を務めていた。ブレーブスでも活躍した名選手だが、1990年に39歳の若さで鬼籍に入っている。同じスワローズでは武上四郎監督、そしてジャイアンツでは藤田監督と牧野ヘッド・コーチが、此の日ベンチ入りしていた中では物故者となっており、31年という歳月の長さを痛感。
後楽園球場で行われた優勝決定戦、試合中の応援は、今と比べると非常に静かに感じた。でも、試合終了後に行われた優勝監督インタヴューでは、藤田監督が話している間、のべつ幕無しに応援歌等ががなり立てられ、「此方に関しては、今の方が観客のマナーは良いかも。」と思った次第。
試合後の「優勝祝勝会」の様子も、引き続き再放送された。「読売新聞社内の会議室か何かで遣ったの!?」と思ってしまう程、会場は手狭だし、飾り付け等も非常に簡素。手狭な上、会場の真ん中には食事が載った机がドーンと置かれているから、余計に狭さが際立つ。
当時のオーナー・正力亨氏の姿がちらっと見えたので、「伝説となっている『山が在るから登るので在ります。』のスピーチの時かな?」と期待していたのだが、残念乍らオーナーのスピーチはカット(?)。藤田監督と王助監督のスピーチが流されたのだけれど、王助監督の若さとふっくらとした顔立ちが印象的。
又、眼鏡を掛ける前の松本選手、此の年にブレークした“50番トリオ”(槙原寛己投手、駒田選手、吉村禎章選手)等、選手達にも(今と比べると)「若さ」や「スリムさ」が感じられ、隔世の感を禁じ得なかった。
優勝祝賀会で一番意外だったのは、「乾杯の音頭の後の雰囲気」が今とは全く違った事。「乾杯の音頭と同時に、ビール掛けが始まる。」というのが今は“定番”だが、少なくとも此の年のジャイアンツに関して言えば、王助監督が乾杯の音頭を取った後、暫くは皆、淡々と飲食したり、インタヴューを受けたりしていた。
終盤(今は優勝祝賀会の様子を1時間近く中継する所も在るが、昨日の放送は20分も無かった様に思う。カットしたのかもしれないが、余りの短さに驚き。)、インタヴューを受けていた篠塚選手に漸とビールが掛けられるも、皆がワーッと掛け合うのでは無く、単発的に淡々と掛けられているという感じで、非常に意外な光景だった。
「顔に日の丸ペインティング」はサッカーではなくて92年アルベールビル五輪のノルディック複合チームで初めて見ました。衝撃だったので覚えています。ここでもその頃には死語になっていた「新人類」が親爺週刊誌で復活(大笑)。あれから22年。勝手に感無量の気分の外野日本人視聴者の1人です(渡部君には迷惑かも?)。
野球に戻すとメガホン応援はどの辺から今ほどきれいな物になったのでしょうか?今のファンのほうがマナーがいいというご指摘で思い出しましたが、1980代後半頃の外野席というと確かに怖い親爺がクダまいてるような場所でした。契機はやはりドーム化からでしょうか。中日ドラゴンズの応援の印象がドーム以前と以後では変わりました。こういう研究をなさってる方いらっしゃったらご一報を(笑)。応援団史では広島カープがエポックメイキングを結構作りつつも阪神や中日にパクられて手柄を盗まれている印象も^^;。あと意外に当時の「芸能界野球大会」との交流が影響ありそうな気がするんです。
Wikipediaの情報(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%8B%E3%81%91#.E8.B5.B7.E6.BA.90)によると、日本球界でビール掛けが最初に行われたのは、1959年に4年振りのリーグ優勝を決めた南海ホークスが、選手宿舎だった「中野ホテル」での祝勝会だったそうです。ハワイ生まれの日系二世で、アメリカのシャンパン・ファイト(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%88)の風習を知っていた彼が、「折角優勝したのに、乾杯だけで終わってしまうのは寂しい。」と、他の選手にビールを掛けたとの事。結構、歴史が在るんですね。
昔の球場、外野では応援団が幅を利かしていましたね。盛り上がるのは構わないけれど、不当に場所を占拠し、団旗を振り回す等、試合観戦に没頭したい人間にとっては、迷惑な面が結構在りました。
資金が潤沢では無い事から、「知恵」を絞って、チームを強化して来たカープ。だからと言う訳でも無いのでしょうが、カープ・ファンも応援に関して、斬新なアイデアを生み出して来ましたね。