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「フィフィ 除夜の鐘に対する苦情に反論『日本は静か過ぎる。』」(12月9日、トピックニュース)
9日、タレントのフィフィが自身のTwitter上で、除夜の鐘に対する苦情に反論した。
事の発端は、大晦日の恒例で在る除夜の鐘に寄せられた苦情に在る。東京都小金井市に在る八幡山千手院を始め、各寺院が鳴らす除夜の鐘に「五月蠅いので、鐘を鳴らさないで欲しい。」と騒音苦情が相次いだ結果、自粛する動きも起きていると言う。
フィフィは此の話題を取り上げ、騒音を訴える声に「こんな年一行事の音で一々苦情出してる様じゃあ、生活音のあるとこで生きられないよ。」と指摘。「日本は静か過ぎる程の国だよ。」と嘆いている。
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正確さを期す意味で、今回の件に関してフィフィさんがツイッター上に書いた全文章を記す。
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騒音苦情で除夜の鐘を中止するかって話題、除夜の鐘で子供が起きるから五月蠅いとか、こんな年一行事の音で一々苦情出してる様じゃ生活音の在る所で生きられないよ。寺に行く人の声が問題なら改善すれば良いし、餅搗き中止と同じ、マナー等を守れば良いだけの事。日本は静か過ぎる程の国だよ。 (12月9日 09:56)
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極論が目立つので、フィフィさんの主張には共感出来ない事が多いのだけれど、今回に関しては彼女の主張に同意する。「要らないと思う年末年始の恒例行事」が在る一方で、今年の1月に書いた記事「元日が年々、“普通の日”になって行く」で触れた様に、“特別な日々”で在った年末&年始がどんどん“普通の日々”になって行く事に寂しさを感じているからだ。
寺が比較的近くに在る事から、大晦日の夜は除夜の鐘を聞き乍ら、新年を迎えるのが常だった。しーんと静まり返った中、「ボーン」という鐘の音を聞くのが、何とも言えずに心地好かった物。然し、或る時期から鐘の音は聞こえなくなり、「『五月蠅い。』と苦情が出たのかなあ?そうだとしたら、何か世知辛いな。」という思いが。
「子供の声が五月蝿い。」といった理由から、各地で保育施設の建設に反対の声が上がっている。子供の声を五月蠅いと感じるのは判らないでも無いけれど、「子供は、国全体で育てる。」という思いが在るので、「一定の防音措置が取られているならば」という前提が在れば、自分は近くに保育施設が建設されたとしても、反対する気は無い。とは言え、少なくとも日中はずっと子供の声に晒される環境を、近隣住民達に「我慢しろ。」とも言えない。
人間の煩悩の数に因み、「108回」の鐘を撞く除夜の鐘。「107回目迄は前年の内に撞き、最後の1回は新年になって撞く。」というのが正式な形なのだとか。大体は23時少し前から撞き始め、0時になって最後の1回を撞くという感じで、鐘が撞かれるのは高々1時間位の事。年に1回、其れも1時間位の行事を、「五月蠅いから。」の一言で止めさせてしまうのはどうかと思うし、「こんな年一行事の音で一々苦情出してる様じゃ生活音の在る所で生きられないよ。」というフィフィさんの主張は、其の通りだ。
唯、1つだけ彼女の主張に異を唱えるならば、最後の「日本は静か過ぎる程の国だよ。」という、否定的とも思える部分。日本が“静か過ぎる程の国”かどうかは別にして、「少なくとも大晦日の夜は、一定の静かさが保たれているからこそ、除夜の鐘の音が逆に心に染み渡る。」という面が在ると思っているので、“静か過ぎる程の国”で在ったとしても、其れが必ずしも悪い訳では無いだろう。
これに対して、大晦日の鐘は年に一晩の数時間のこと。数百年以上の固有文化で、慣習的に根付いているもの。
それを「五月蝿いから」言うのならば、じゃ小学校の運動会も止めなきゃならんのか?
地域の盆踊りや、縁日も五月蝿いから止めるのか? 行き過ぎた住民エゴすね!
んなもん「自粛」するから付け上がる!
闘わない寺にも問題ある。
文化とか伝統とか風情とかと無縁の世界で生活している人たちなんでしょうか。
味気ないですね。
田舎の夏から秋、カエルや虫たちの合唱のなかで夜を過ごしたら、きっと気が狂うでしょうね(苦笑)。
都会の夜の騒音、特に深夜の暴走族のエンジン音やダンプなど大型車のクラクションなど、けたたましい音は勘弁してほしいと思っていますが。
例えば「火葬場」や「塵焼却所」。社会に必要不可欠な施設では在るけれど、では「直ぐ傍に作ります。」と言われたら、正直困惑してしまう。エゴと言われればそうなのだけれど、己が立場に置き換えた場合、“本音”と“建前”が異なる事も在る。
「保育施設」もそういう意味では、反対する人の気持ちも判らないでは無いけれど、考えられる対策を打った上での建設ならば、社会を構成する一員として、或る程度我慢しなければいけない所も在る。非常に難しい問題では在りますけれど。
でも、「ずっと接しなければいけない環境。」と「接するのが僅かな環境」とでは、状況が全く異なる訳で、「除夜の鐘が五月蝿いから止めろ!」というのは、矢張り乱暴な気がしますね。
人の受け取り方は千差万別ですから、除夜の鐘を「五月蠅い。」と捉える人も居る事でしょう。でも、1日中鳴り続けている風鈴なら未だしも、除夜の鐘なんか1年に高々1時間程度の事。何でも彼んでも「五月蠅い!」の一言で片付けてしまったら、此の世の中から“潤い”が無くなってしまう。