「今日の記事には、過去に記した内容が少なからず含まれている。」事を、先に断っておく。
「あいつ今何してる?」【動画】というヴァラエティー番組が在る。「ゲスト出演者の学生時代の同級生が今、何をしているのかを調査する番組。」だ。
男性の平均寿命からすると、疾うに“折り返し地点”は過ぎたものの、とは言え、“ゴール”迄には未だ短からずの年月が在るで在ろう年齢。そんな自分は、此の番組のタイトルでは無いが、「彼奴、今何してる?」と同級生達を思う事が増えて来た。特定の人物を思い浮かべる訳では無く、ざっくりと同じクラスだった人達の現在、もっと正確に言えば、「彼等の中で亡くなった人間は、何れ程居るのだろうか?」と考えてしまうのだ。
同年代の人間と比べると、自分は比較的早く“死”という物を意識し始めたと思う。高校に上がる前に、父親を病気で失った事が大きく影響しているのだと思う。病気で会社を休んではいたけれど、医者からは「風邪でしょう。」と言われていた父が、或る日、心臓系の病気で急死。「人間って、唐突に亡くなってしまう事が在るのだなあ。」という思いが、強く心に刻まれた。
自分の兄弟の場合、若くして亡くなった同級生が何人か居る。一番ショックだったのは、(兄弟が)中学の時に同級生が亡くなった事。夏休み、一家で祖父母の家に帰省した帰り道、高速道路で交通事故に巻き込まれ、一家全員が亡くなった。
又、矢張り中学時代の同級生が、数年前に亡くなった。或る一件から自暴自棄になった彼は、吹っ掛けた喧嘩が原因で急死したと言う。そういう形で息子を失った親御さんは、嘸や辛かったろう。
自分の場合、中学時代の同級生が成人前に、遊びに行った海で溺死した事を、風の便りで聞いた。中学時代はそこそこ仲が良かったけれど、彼が不良仲間と連む様になって以降は疎遠になっていた。
高校時代の同級生が2人亡くなっていた事を知ったのは、20歳前後だったと思う。1人はそんなに親しい間柄では無かったが、常に微笑みを絶やさない様な人だった。死因は癌。
学生時代、良く話したりしていたもう1人とは、実家が近かったという事も在り、卒業して以降、何度か道でばったり遭い、立ち話をした。若かりし頃の三善英史氏に似た雰囲気の彼は、とても穏やかな人柄。或る時期から彼の姿を全く見掛けなくなったので、「引っ越したのかなあ。」と思っていたのだが、或る日、「彼は亡くなったそうだよ。」という話を同級生から聞いた。
そして、今夏、同級生が運営しているサイトで、或る“同級生”が亡くなった事を知った。同級生と言っても、自分は全く面識が無い。唯、自分とは同い年の同級生が、若くして癌で亡くなったという事に、大きなショックが。
人は、何時亡くなってもおかしくない。100歳を超えても元気な方が居れば、若くして亡くなる方も居る。生かされている限り、悔いの残らない生き方をしていきたいと、最近はより強く思う様になった。
そのかわり友人は多く亡くしました。私より年下の友人たちはほとんどが癌です。
それから震災でも友人知人を亡くしました。東日本大震災では長年のSFの友人をなくしました。
阪神大震災では、中学の先生で2人、同級生で5人亡くしました。病気で友人を亡くすのとは違い、地震のような天災で亡くすのは、とつぜんのことなので、あきらめきれません。
生きたくても生きられなかった人を何人か見送って来た経験から、仮令耐え難い苦しみの中に在ったとしても、自ら命を絶つという行為に対して強い抵抗が在る自分。生きたくても生きられなかったという場合でも、病ならば未だ自分を納得させる事が出来るけれど、天災でとなると、本当に受け容れ難い物ですよね。
例えば、十代で亡くならなければならなかった人が居るとする。病で在ったとしても、天災による物で在ったとしても、「彼(乃至は彼女)が此の年齢で亡くなるというのは、生まれた時点で決まっていたのだろうか?」等と、“運命論”に思いを馳せたりする事が在ります。