「ラオウ伝 激闘の章」を観るにあたって、過去2作をも一度チェック。
「ラオウ伝 殉愛の章」を観たとき、何を描きたかったのか分からずにいた気がする。それはこれが5部作であることを知らなかったから。
実際、「ユリア伝」を一度見てから再度殉愛の章を見ると、ラオウとケンシロウのスタンスを明確にするという意図があるように捉えられる。そして、ユリア伝ではラオウとケンシロウの対峙をユリアの視点から描くことで、より二人の宿命に厚みを持たしている。
ただ、殉愛の章は劇場版ということで、どうしてもメインストーリーに偏り過ぎているように思える。ラオウ伝たるストーリーが乏しく見える。逆にユリア伝は、メインストーリーを知っていることが前提のサイドストーリーなので、全く別の面白さがある。
そう考えると、「激闘の章」にはそれほど大きな期待を持たない方がいいのかも。むしろ、その後に控える「トキ伝」を見ることで、「激闘の章」がより厚く(熱く)なるのではないかと期待させられる。
今回、殉愛の章とユリア伝を改めて見て面白かったのが、ジャギの存在だった。
殉愛の章では、ストーリー上必要がないからか、「リュウケンは三人の男児を養子に…」と完全に存在を否定されていた。
ところが、ユリア伝では、シンを狂気に走らせた張本人として存在が見出され、見事に復活していた。
ちぐはぐな構成と言ってしまえばそれまでだけど、必要な要素を必要なだけ組み込んだ、ある意味スペシャルな構成と言えるのかも知れない。(ちょっと良く言い過ぎかな?
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「ラオウ伝 殉愛の章」を観たとき、何を描きたかったのか分からずにいた気がする。それはこれが5部作であることを知らなかったから。
実際、「ユリア伝」を一度見てから再度殉愛の章を見ると、ラオウとケンシロウのスタンスを明確にするという意図があるように捉えられる。そして、ユリア伝ではラオウとケンシロウの対峙をユリアの視点から描くことで、より二人の宿命に厚みを持たしている。
ただ、殉愛の章は劇場版ということで、どうしてもメインストーリーに偏り過ぎているように思える。ラオウ伝たるストーリーが乏しく見える。逆にユリア伝は、メインストーリーを知っていることが前提のサイドストーリーなので、全く別の面白さがある。
そう考えると、「激闘の章」にはそれほど大きな期待を持たない方がいいのかも。むしろ、その後に控える「トキ伝」を見ることで、「激闘の章」がより厚く(熱く)なるのではないかと期待させられる。
今回、殉愛の章とユリア伝を改めて見て面白かったのが、ジャギの存在だった。
殉愛の章では、ストーリー上必要がないからか、「リュウケンは三人の男児を養子に…」と完全に存在を否定されていた。
ところが、ユリア伝では、シンを狂気に走らせた張本人として存在が見出され、見事に復活していた。
ちぐはぐな構成と言ってしまえばそれまでだけど、必要な要素を必要なだけ組み込んだ、ある意味スペシャルな構成と言えるのかも知れない。(ちょっと良く言い過ぎかな?
