「話せばわかる」と言うことがよく言われるのだが、それは「相手によりけり」ではないだろうか?。
いくら話しても話が「平行線」をたどるばかりか、「かえって溝が深くなる」と言う事だってある。
ましてや、相手が「難癖を付ける」と言う状態では、「話せばわかる」などと言う言葉は何の意味も持たなくなってしまう。
今の民主党が正にその状態で、「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」と言う状態で、「水掛け論」と言うか「もぐら叩き」と言うか、一国の政治を担う人のすることとは思えないことをしている。
責任の一端は自民党にもあることは確かなのだが、それ以上に、それを支持する有権者がいると言う事が不思議でならない。
根底には「何が何でも自民党のする事に反対」と言う考えしかないようで、「話し合う」と言う気持ちなど微塵も見られないのだが、これは或る程度「仕方ない事」と言う一面もあるのではないだろうか?。
多少こじつけの部分は有るが、政治の世界の「与党と野党の関係」は、スポーツの世界の「一位と二位の差」と同じ様な物と考えるれば説明がつくのではないだろうか。
たとえ「写真判定」であっても、一位の記録は後世に残るが、二位の記録は「表舞台」には殆ど出てこない。
42.195キロを走り終えたとしても、その結果がたった1ミリの差でもあれば、二位は所詮二位でしかないために、多くのランナーは一位を目指して過酷な練習に励むのである。
或る選手が「一位以外は二位もビリも同じ」と言っているように、一位と言うものにはそれ程大きな意味があるために、政治の世界でも「責任政党(一位)」を目指して、様々な駆け引きがおこなわれ、その魅力に取り付かれた結果「絶滅危惧種?」同然となった、かつての社会党(現在の社民党)などが良い例ではないだろうか?。
アメリカの大統領予備選挙でも、指名争いでオバマ候補とクリントン候補が同じ様な事をしているように、政治の世界もスポーツの世界と同じ様に、所詮は「一位(覇権)争い」をしているに過ぎないのではないだろうか?。
「成熟した現代社会」には、「本当の意味の政治」など必要なくなってしまったのかもしれない。
この事は、我々人間の成長と重ね合わせて見ると良くわかるのではないだろうか?。
子供から大人になる頃までは、学ぶ事も沢山あったが、年とともに学ぶ事が少なくなり、その代わりとして「趣味や娯楽」と言うものが増えるのと同じようなもので、国をあげて取り組まなければならないような「重要な案件」が無くなった為に、「重箱の隅をつつく様な状態」になってしまったのだろう。
「どの政党が政権を取っても大同小異」「政策論争と言うより足の引っ張り合い」などと言う状態が、「投票率の低下」と言う結果を招き、「無党派層」どころか「政治に無関心な人」を増やす結果になっている。
投票率の低下=政治不信、と考えるべきであろう。
いくら話しても話が「平行線」をたどるばかりか、「かえって溝が深くなる」と言う事だってある。
ましてや、相手が「難癖を付ける」と言う状態では、「話せばわかる」などと言う言葉は何の意味も持たなくなってしまう。
今の民主党が正にその状態で、「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う」と言う状態で、「水掛け論」と言うか「もぐら叩き」と言うか、一国の政治を担う人のすることとは思えないことをしている。
責任の一端は自民党にもあることは確かなのだが、それ以上に、それを支持する有権者がいると言う事が不思議でならない。
根底には「何が何でも自民党のする事に反対」と言う考えしかないようで、「話し合う」と言う気持ちなど微塵も見られないのだが、これは或る程度「仕方ない事」と言う一面もあるのではないだろうか?。
多少こじつけの部分は有るが、政治の世界の「与党と野党の関係」は、スポーツの世界の「一位と二位の差」と同じ様な物と考えるれば説明がつくのではないだろうか。
たとえ「写真判定」であっても、一位の記録は後世に残るが、二位の記録は「表舞台」には殆ど出てこない。
42.195キロを走り終えたとしても、その結果がたった1ミリの差でもあれば、二位は所詮二位でしかないために、多くのランナーは一位を目指して過酷な練習に励むのである。
或る選手が「一位以外は二位もビリも同じ」と言っているように、一位と言うものにはそれ程大きな意味があるために、政治の世界でも「責任政党(一位)」を目指して、様々な駆け引きがおこなわれ、その魅力に取り付かれた結果「絶滅危惧種?」同然となった、かつての社会党(現在の社民党)などが良い例ではないだろうか?。
アメリカの大統領予備選挙でも、指名争いでオバマ候補とクリントン候補が同じ様な事をしているように、政治の世界もスポーツの世界と同じ様に、所詮は「一位(覇権)争い」をしているに過ぎないのではないだろうか?。
「成熟した現代社会」には、「本当の意味の政治」など必要なくなってしまったのかもしれない。
この事は、我々人間の成長と重ね合わせて見ると良くわかるのではないだろうか?。
子供から大人になる頃までは、学ぶ事も沢山あったが、年とともに学ぶ事が少なくなり、その代わりとして「趣味や娯楽」と言うものが増えるのと同じようなもので、国をあげて取り組まなければならないような「重要な案件」が無くなった為に、「重箱の隅をつつく様な状態」になってしまったのだろう。
「どの政党が政権を取っても大同小異」「政策論争と言うより足の引っ張り合い」などと言う状態が、「投票率の低下」と言う結果を招き、「無党派層」どころか「政治に無関心な人」を増やす結果になっている。
投票率の低下=政治不信、と考えるべきであろう。