日本の、これから「大丈夫ですか?日本人の学力」、と言う討論番組をやっていたが、中学生や高校生を含めた様々な分野の人たちが様々な意見を出しているのだが、効果的な結論を得るには至らずに終わってしまったが、当然の結果と考えるべきで、「十人十色」と言うように、一人一人が「自分が置かれた立場」にもとずいて考える以上、考え方に差が出るのは当然の事で、「森は様々な木によって形成されている」のと同じ事で、「どの意見が正しいのかを判断する事など出来る筈が無い」と言うより、「問題を解決する為には、全ての意見を取り入れる」と言う必要があるのだが、その様な事は「財政的にも、人材的にも不可能」と言ってよいだろう。
番組のなかで「先生の質(指導法)」と言うことが槍玉に上がるケースがかなりあったのだが、これは「無理な要求(先生は完全無欠な人間ではない)」で、そもそも「先生」とは、「特定の教科に詳しい人」と言うことが前提であるはずで、教え方が上手だからと言う理由では先生になれる筈が無く、ましてや「教え方の上手な人」などどれだけいるのであろうか?。
「先生にも能力主義を」と言う意見も合ったが、その為には「能力に見合った給与」も考えなくてはならず、現実的な話ではない。
「イチロー」の名前も出て来たが、「イチローレベルの人」世界にどれだけいると言うのであろうか?、発言した人の真意が知りたい物である。
そもそも「学力」とはいかなる物であろうか?。
学力とは、そのものズバリ「学ぶ力」と言うべきで、本人に学ぶ気が無ければ、「先生の質」など問題になるはずも無く、本人の学ぶ意識が高ければ、先生の質が悪くても学ぶ事は出来るはずで、「馬を水辺に連れて行く事は出来ても、水を飲ませる事は出来ない」と言うことと同じである。
「日本人は応用力・読解力に欠ける」と言われるが、基礎が出来ていなければ応用する事も、読解する事も出来無い筈だが、それでは「基礎」とは一体どのようなものであろうか?。
これは私個人の考えであるが、「基礎」とは、「普段の生活の中から学び取るもので、学校で先生に教えられて学ぶものではない」と考えているのだが、携帯電話やゲームなどは、「百害あって一利なし」だと思っている。
最近の試験では、○×式や、選択式の問題が多くなり、「考える」と言う事が余り求められなくなっているのだが、ここで私の中学時代のことを少し書いてみたいと思うのだが、多くの人は信じられないかもしれないが、私が通った中高一貫校では、理科、数学、国語、社会、と言う四大教科では無く、理科は「物理・生物・化学」、数学は「幾何・代数」、国語は「漢文・古文・現代文」、社会は「政治経済・地理・歴史」と言う11に細分化された授業で、しかも「選択」ではなく「全て必修」と言う授業で、各教科に「専門の先生」が付く事にに加えて、試験には「教科書以外」からも出題される事が良くあり、教科書から出題される場合でも「そのまま」と言う事は少なく、常に「応用力」が要求されていた。
特徴的なのは、生物と物理の試験で、生物の試験などは「問題を作った先生でも満点は取れない」と言う問題さえあり、「98点が満点と思え」などと言うことが言われていたし、物理の先生は、「答えは違っているが、解き方に問題は無い」「時間が足りなくて途中までしか出来なかった」などと言う場合は、それなりの点が付けられ、反対に「答えが合っていても、解き方に問題がある」と言う場合は減点され、場合によっては「減点ではなく、マイナス点」を付けられる事さえあった。
私は、高一で中退(落ちこぼれ)したのだが、卒業生は全員、東大、一ツ橋大、学習院大、慶大、早大、に現役で合格しており、それ以外の大学を受ける人は「殆どいない」と言う状態であった。
学力のない者は容赦なくふるい落とされ、中学でも「学力不足で留年」と言う事さえあり(この場合は、他の中学に転校してゆく)、「先生の質・・・・」などと言う事は問題にならず、始めから「勉強する気の無い子供はいない」と言うことが前提になっており、今のように「塾」などと言うものも殆ど無かった時代にそれを支えたのが「家庭教師」と言うもので、正に「マンツーマン」と言う理想の指導が出来たのであるが、それが出来たのはごく一部の裕福な家庭で、それが出来なければ「受験資格はない」と言っても良いかもしれない。
当時は、中学を卒業してすぐに就職する事が珍しい事ではなかったのだが、ロクに勉強する事も出来なかったにも拘らず、その後社会で活躍出来たのは、学校以外で学んだ「基礎」と言うものが役に立ったのであろう。
携帯やゲームはおろか、「テレビさえない」と言う時代では合ったが、「自然」と「良好な人間関係」には恵まれており、「学校では学べない大切な物」を沢山学べた事が役に立ったと思う。
便利な物があふれている「物質社会」には、「様々な危険」が潜んでおり、「学力の低下」と言う問題もその危険の一つであろう。
番組のなかで「先生の質(指導法)」と言うことが槍玉に上がるケースがかなりあったのだが、これは「無理な要求(先生は完全無欠な人間ではない)」で、そもそも「先生」とは、「特定の教科に詳しい人」と言うことが前提であるはずで、教え方が上手だからと言う理由では先生になれる筈が無く、ましてや「教え方の上手な人」などどれだけいるのであろうか?。
「先生にも能力主義を」と言う意見も合ったが、その為には「能力に見合った給与」も考えなくてはならず、現実的な話ではない。
「イチロー」の名前も出て来たが、「イチローレベルの人」世界にどれだけいると言うのであろうか?、発言した人の真意が知りたい物である。
そもそも「学力」とはいかなる物であろうか?。
学力とは、そのものズバリ「学ぶ力」と言うべきで、本人に学ぶ気が無ければ、「先生の質」など問題になるはずも無く、本人の学ぶ意識が高ければ、先生の質が悪くても学ぶ事は出来るはずで、「馬を水辺に連れて行く事は出来ても、水を飲ませる事は出来ない」と言うことと同じである。
「日本人は応用力・読解力に欠ける」と言われるが、基礎が出来ていなければ応用する事も、読解する事も出来無い筈だが、それでは「基礎」とは一体どのようなものであろうか?。
これは私個人の考えであるが、「基礎」とは、「普段の生活の中から学び取るもので、学校で先生に教えられて学ぶものではない」と考えているのだが、携帯電話やゲームなどは、「百害あって一利なし」だと思っている。
最近の試験では、○×式や、選択式の問題が多くなり、「考える」と言う事が余り求められなくなっているのだが、ここで私の中学時代のことを少し書いてみたいと思うのだが、多くの人は信じられないかもしれないが、私が通った中高一貫校では、理科、数学、国語、社会、と言う四大教科では無く、理科は「物理・生物・化学」、数学は「幾何・代数」、国語は「漢文・古文・現代文」、社会は「政治経済・地理・歴史」と言う11に細分化された授業で、しかも「選択」ではなく「全て必修」と言う授業で、各教科に「専門の先生」が付く事にに加えて、試験には「教科書以外」からも出題される事が良くあり、教科書から出題される場合でも「そのまま」と言う事は少なく、常に「応用力」が要求されていた。
特徴的なのは、生物と物理の試験で、生物の試験などは「問題を作った先生でも満点は取れない」と言う問題さえあり、「98点が満点と思え」などと言うことが言われていたし、物理の先生は、「答えは違っているが、解き方に問題は無い」「時間が足りなくて途中までしか出来なかった」などと言う場合は、それなりの点が付けられ、反対に「答えが合っていても、解き方に問題がある」と言う場合は減点され、場合によっては「減点ではなく、マイナス点」を付けられる事さえあった。
私は、高一で中退(落ちこぼれ)したのだが、卒業生は全員、東大、一ツ橋大、学習院大、慶大、早大、に現役で合格しており、それ以外の大学を受ける人は「殆どいない」と言う状態であった。
学力のない者は容赦なくふるい落とされ、中学でも「学力不足で留年」と言う事さえあり(この場合は、他の中学に転校してゆく)、「先生の質・・・・」などと言う事は問題にならず、始めから「勉強する気の無い子供はいない」と言うことが前提になっており、今のように「塾」などと言うものも殆ど無かった時代にそれを支えたのが「家庭教師」と言うもので、正に「マンツーマン」と言う理想の指導が出来たのであるが、それが出来たのはごく一部の裕福な家庭で、それが出来なければ「受験資格はない」と言っても良いかもしれない。
当時は、中学を卒業してすぐに就職する事が珍しい事ではなかったのだが、ロクに勉強する事も出来なかったにも拘らず、その後社会で活躍出来たのは、学校以外で学んだ「基礎」と言うものが役に立ったのであろう。
携帯やゲームはおろか、「テレビさえない」と言う時代では合ったが、「自然」と「良好な人間関係」には恵まれており、「学校では学べない大切な物」を沢山学べた事が役に立ったと思う。
便利な物があふれている「物質社会」には、「様々な危険」が潜んでおり、「学力の低下」と言う問題もその危険の一つであろう。