へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

結果論

2008年03月25日 04時01分14秒 | Weblog
テレビなどの「ニュース報道」を見ていて気になるのが、「結果論で批判する」と言うことが非常に多い事である。
「結果が出てからあれこれ批判する」と言うことは、誰にでも出来ることで「専門家が言うせりふ」ではないと思うのだが・・・・。
今回の無差別殺人事件でも「制服の警察官を・・・・」と言うことが言われていたが、制服の警察官を配置した場合には、「警戒して別な場所で犯行に及ぶ」と言う可能性も考える必用が有ると思うのだが・・・・。
被害に遭われた方には申し訳ないのだが、「事件を未然に防ぐ」と言う事は非常に困難な事で、軽はずみに「結果論で物を言う」と言う事は慎みたい物である。
9・11事件を始めとする「テロによる破壊行為」を見れば解るように、事件を起こす側は「厳重な警戒網」をくぐって事件を引き起こすのであるから、どの様な警戒網を引いたとしても「これで十分」と言う事は無いであろう。
厳重な警戒をしているにも拘らず、各国で「首脳やそれに類する人」が命を落とし
ている事実から考えてみても、「警備」と言うものがいかに難しい物かわかると思うのだが・・・・。
「現場の警察官が犯人に気が付かなかった」と言うことも、「髪型を変えていた」と言うことから考えると、責めるのは可哀相な気もするのだが・・・・。
我々だって「普段と違う格好だったので気が付かなかった」と言う事は良くある事ではないだろうか?。
中国製の毒入り餃子事件に端を発した「中国製食品の危険性」ばかりが問題になっていたが、「危険に遭う可能性」はどこにでも有ると思うのだが・・・・。
市民一人一人にボディーガードを付けたとしても、完全に事件を防ぐ事は難しいだろうし、ましてや、「誰でも良いから人を殺したかった」と言うのでは、手の打ちようもないのでは?・・・・。
単に「運が悪かった」と言うより、「そうなる運命だった」のかもしれない。
変な話であるが、昔、旧国鉄の三河島駅で起きた列車事故での事だが、私の知り合いの父親が「九死に一生を得る」と言うことが有ったのを思い出した。
通勤で毎日のように事故を起こした電車に乗っていたのだが、たまたま事故が起きた日に「出掛けに奥さんとけんかをしたために乗り遅れてしまった」と言うのであるが、似たような話はどこにでも有ると思う。
周りに多勢の人がいたにも拘らず「ナゼあの人たちが?」と言う気もするのだが、これも「運命のいたずら」なのだろうか?。
コメント (6)
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