へそ曲がりおじさんのひとり言

常識にとらわれるのが嫌い。
他人と同じ事が嫌い。
世の中、別な角度から見ると新しい物が見えるから。

木を見て森を見ず    7 (認識の相違)

2008年03月17日 03時14分14秒 | Weblog
国会の場で、自民党の主張に反対する「民主党のお偉方」がよく使う言葉に、「・・・・・であり、私はそう思います」と言う言葉があるのだが、「私はそう思います」と言う言葉は、後になって都合が悪くなった時に「少なくともその時には正しいと思った」と言う言い訳が用意されている。
追い詰めれれてゆくと、更に奥の手として「認識の相違」と言う言葉も用意されているはずで、行き着く所「堂々巡り」と言う事になるのではないだろうか?。
「認識の相違」と言うことは、日常生活でもたびたび起きる事ではあるが、問題は「その後の対応」と言う事になるのではないだろうか?。
「相違」している事がわかった時点で、どちらかに統一されれば問題は起きないのだが、「逃げ口上」として使われた場合は厄介な事になってしまう。
「私はそう思います」、思うのは勝手だが、それを他人に押し付けるのは「国の最高機関にいる人間」がするのはどうかと思うのだが?。
私も時々使うのだが、この場合は「アクまでも個人的意見で、実行するかどうかは個人の自由判断による」と言うことだが、国会の場で決まった場合は「全ての国民は、法律によって否応ナシに従わなくてはいけない」と言う事になり、「個人の自由判断」と言うものは認められなくなってしまう。
教育(学力)の問題にしても、個人個人の置かれた立場によって「無数の考え方(認識)」が有り、どの考え方を優先させるかは非常に困難な事で、ましてや、「全てを満足させる案」など存在し無い。
個人個人に能力の違いがある以上、学校教育に全てを任せるのではなく、学校教育で賄えない部分は「各個人で補う」と言う以外ないのではなかろうか?。
一つの参考意見として、私が通った学校の例を挙げてみよう。
まさか?、と思うかもしれないが、中学での授業レベルは「公立高校と同じレベルかそれ以上」と言う状態なので、「予習と復習」を十分しておかないととても付いてゆく事は出来ません。
何しろ、東京の学校にも拘らず「千葉・埼玉・神奈川」からも優秀な生徒が集まって来ているのだから、私が落ちこぼれるのも当然です。
「授業中は常に『辞書・参考書』を机の上に置き、解らない事はすぐに自分で調べろ」と言うことを始めに言われました。
「辞書」とは、国語辞典、漢和辞典、古語辞典、和英辞典、英和辞典、などで、「参考書」は、文字通り「参考書」と言うほか無いのであるが、物理、生物、化学、政治経済、歴史、地理、などの授業で必要と思われるものが対称になります。
更に驚くべき事があります、ナント、「教科書のアンチョコ(教科書の内容を解り易く解説したもので、電話帳の半分位の厚さがありました)」と言うものが、通学路沿いの書店で販売されているのです。
私も欲しかったのですが、「親の無理解」で買う事が出来ず、一部を先輩から譲り受けて勉強しましたが、一度遅れてしまうと、追いつく事は「至難の技」と言わざるを得ず、学校側の取る対策は「家庭教師を頼むように」と言うことしかしせず、付いて行けないものには、「落ちこぼれ」と言う道しかありません。
全てのエリートがそうだとは言いませんが、多くの人はこのような「難関」を突破して初めてエリートになる資格を得るのです。
東大、一橋大、京大、慶大、早大などの卒業生を企業が求めるのは、これだけの「難関を突破する能力(学力)を持っている」と言うことが理由でしょう。
学校で一位、県で一位、関東で一位、全国で一位を比べれば、一目瞭然なように、其処には「歴然とした差(格差)」と言うものが存在し、この格差を乗り越える事は非常に難しいのだが、努力を怠ってしまえば「現状維持」さえ難しくなり、「下位へ転落」と言う事さえ起きてしまう。
私に言わせれば「教育制度に文句を言っている暇があったら自分で勉強しろ!」と言いたい。
「文句を言う人ほど努力しない」と言うのは言い過ぎだろうか?・・・・・。
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木を見て森を見ず    6 (教育現場の苦悩) 

2008年03月15日 03時04分09秒 | Weblog
放送の内容に限らず、近頃の親は何でも学校教育に頼りすぎていて、困った時代になった物である。
私も一人の子供の親として学校教育を見てきたのであるが、「教育現場の荒廃」が年々ひどくなっており、教える先生の苦悩はかなりの物だと思う。
「先生の教え方が悪い」「先生の能力が低い」などと、親の側からの批判が続出しているのだが、冷静に考えてみて「文句を言う親の側も『親の責任』を果たしているのか?」と言いたくなる。
学校の側からすれば「親の躾が悪い」「自分勝手なことを言うな」と言いたい所だろうが、「教育現場と父兄の争い」になることを恐れて「じっと我慢する」と言う事になるため、父兄の側はそれを良い事に付け上がっているのだが、ここにも「数の原理」が働いているのである。
「数の原理」とは、「数の多い方が強い」と言うことで、先生の数と、父兄の数を比べて見れば良く解ると思う。
私の子供の頃は、「先生」と言う存在は「一種のステイタス」と言うことで、「文句を言ってはいけない」と思われていたようであり、尚且つ「学校は学問を学ぶ場で、躾は家庭でするもの」と言うことが当り前の時代であったが、最近では親が「自分の責任を放棄して、その責任を先生に押し付ける」と言うことが当り前になり、尚且つ「子供の前で先生の批判をする」と言うことが平然と行われているのだから、子供が先生の言う事を聞かないのは「親の責任」と言わざるを得ない。
「教え方」についても、教員養成の場ではそれ程重点が置かれている訳ではないはずで、「教育現場て少しずつ学んで覚える」と言うのが実情だろうが、全ての先生にその能力があるわけではないと思うし、「飛びぬけた才能を持つ人」なら、もっと他の「お金になる仕事」を選ぶのではないだろうか?。
教え方が上手だからと言って「給料に差がつく」などと言う話は、「塾の先生」以外にはあまり聞いたことが無いが、一般の社会では、「能力の差=報酬の差」と言うのが大方の常識だろうが、教育の場では殆ど耳にしないのだが、その事が「先生のやる気を無くす」と言う原因になってはいないだろうか?。
学校や先生に「過大な要求」をするのであれば、「それに見合った報酬」を保障するべきだと思うのだが・・・・。
「自分の事を棚に上げて、他人を批判する」と言う「自分勝手な親」の子供なのだから、出来が悪いのは仕方ないだろう。
「子供を見れば親がわかる」「この親にしてこの子有り」「子供は親の背中を見て育つ」と言うではないか。
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1+1の答えは?

2008年03月13日 04時10分02秒 | Weblog
近所の小学3年生2人が喧嘩をしていたのだが、喧嘩の原因は、一人の子が「1+1は2じゃないって知ってる?」と言うと、別な子が「お前バカじゃない?2に決まってるジャン、そんな事も知らないんだ!」と、バカにしたように言った所「兄ちゃんが言ったんだから間違ってない!」と言って喧嘩になったのである。
常識的に考えれば、2、と言う事になるのだろうが、「常識的」って一体ナンなのであろうか?。
1+1=2、などと言う事は、幼稚園の子供でも知っていることで、「2じゃない」と言う部分は、「2になる事もあるが、2になるとは限らない」と言うのが正解でしょう。
「何故そんな事を言うのか?」と思われるかもしれないのだが、現実の話、そもそも「1」とはナンであろうか?。
「1」とは「単なる数字以外の何物でもない」と言うことで、実社会においては「1」と言う数字が単独で使われることは殆ど無く、必ず、「個・本・枚・円・匹」などと言う「単位」が付いて初めて意味を持ってくるばかりではなく、「足す事が出来ない数字もある」と言うことに考えが及ばない人が多い。
「足す事が出来ない?」と思う人もいると思うが、1塁・2塁・・・、1位・2位・・・、点呼をとる時などの、1・2・3・・・、などは足す事はできない。
1位と1位を足すと、2位ではなく「2勝」となるが、2位と2位を足した場合は、4位にならないばかりか「2勝」にもならない事からも解るように、文字としては数字でも「その後ろに付随する言葉(単位)」によって様々な意味や答えを持つ事になり、同じ単位の物同士なら「1+1=2」と言う計算式も成り立つだろうが、それ以外の場合は「a+b=X」 と言う方程式で表さなくてはいけないわけで、「お兄ちゃんが言った」と言うのはこの事だろう。
この話は2人の子供にも話したのだが、何分にも、小学3年生には少し難しかったと見えて「半信半疑」のようであったが、とりあえず喧嘩は収まった。
「こんな事を書いて、何の意味があるんだ!」と、お叱りを受けそうだが、話はこれでオワリではなく、最後まで読んでいただきたい。
大分前の話ではあるが、ある小学校の理科の試験で「氷がとけたら何になりますか?」と言う問題に「春になる」と書いて×担ったと言う話があるが、とかく日本人は「画一化した答え」を求めがちで、「1+1=2」と言う事に「何の疑問も持たない」と言うことも含め、「独創(創造)力・応用力・想像力を育む環境」に乏しく、益々世界に遅れを取る事になるだろう。
「氷が解けたら春になる」と言う答えも「一つの答え(正解)」として受け入れられるような社会にならなければ「応用力も想像力も育たない」のではないだろうか?。
現状のままでは益々日本の学力は低下してしまうだろう。
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木を見て森を見ず    5

2008年03月13日 03時44分32秒 | Weblog
低下した学力の中でも、「応用力や想像力の低下が目立つ」と言うのだが、元々日本人が苦手とする分野ではなかったろうか?。
それでは何故「応用や想像が苦手なのか」と言うことを考えてみたのだが、私の考えでは「日本語」そのものに問題があるような気がしてならない。
よく外国人が「敬語や謙譲語などが有って難しい」と言う話がを聞くのだが、それ以外にも「日本語を難しくしている原因」に、「文字の種類が多い」と言うことが考えられる。
文字の種類とは、「使われる文字の数が多い」という意味ではなく、「漢字」以外に「平仮名、片仮名」と言うものの存在が「多様な表現」を可能にしていると思う。
英語の場合は、タッタ26個のアルファベットのみで構成されている為に、「言葉(文字では有りません)の数」が限定されてしまい、一つの言葉で「複数の意味」を持つ事になり、状況により違う意味になってしまうのだが、日本語の場合は殆どが「単独の意味」しか持たないために、想像する必要が無く、応用範囲も限られた物になってしまう。
一つの例として、私、俺、自分、我輩・・・と言う言葉も、英語では、I、だけで表現する為、言葉以外でも相手に伝える努力をしなくてはならないため、必然的に体の動きが大きくなったのではないだろうか?。
「一つの言葉で一つの意味」と言う「専門化?」した使い方しか出来ない日本語では、想像力も応用力も育たない(必要ない)のではないだろうか?(マネをするのは上手なのだが・・・)。
国を代表する「衆参両院議会」の場で「不毛の論議」が繰り返されているようでは、学力以外の場でも世界に後れを取る事になるだろう。
言葉以外でも、日本人は「熱しやすく冷めやすい」などと言われているが、これも「社会制度の違いから来る」と言えるのではないだろうか?。
一般市民が参加して何ヶ月もかけて大統領を選ぶアメリカに対して、議員と一部の党員(代議員)が「党利党略で選ぶ」と言うことの違いから来るように思うのだが・・・・。
「子供の学力低下」以前に、「大人の脳力低下」を心配する必要が有ると思うのだが・・・・。
以前「テレビが人間を白雉化させる」と書いたことがあるが、テレビ以外にも、次から次へと開発される「便利な生活用品」なども、人間の「脳や体力の低下」を引き起こし、ひいては「想像力・応用力」をも奪ってしまうだろう。
「若年性認知症の増加」と言う問題も起きてくるのではないだろうか?。
認知症ばかりではない、昔はある程度年を取った人に多かった「腰痛」が、若い世代にも広がっているが、「車社会」だけが原因ではないような気がするのだが・・・・。
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木を見て森を見ず    4

2008年03月12日 19時08分25秒 | Weblog
書きたいことは山ほどあるのだが、どのように書けばよいのか頭の中が混乱しているため、「思いつくままに書く」ので、まとまりの無い文章になったらお許しください。
さて、「勉強する事の意味が解らない」と言う話がよく出てくるのだが、私に言わせるならば「勉強する事に意味など必要ない」と言いたい。
そして、更にキツイ言い方をするならば「勉強したくないと言う事を『誤魔化す為の詭弁』」といっても良いだろう(一部には違うと言う人もいるかもしれないが・・)。
何故に「意味など必要ない」と言うのかと言うと、「勉強=学校でするもの」と言う考え方そのものが間違っているからで、人間「オギャーと生まれた瞬間から、棺おけに入るまで勉強する事だらけ」のはずで、「生きる=勉強」と考えるべきで「意味(理由)など必要ない」のである。
「はえば立て、立てば歩めの親心」などと言うが、当の子供は「自分で必死に頑張って(勉強)いる」ので、誰に「強制」されたわけでも、「仕方無し」にでもなく、「生きる為」に頑張って(勉強)いるのである。
さて、「学校教育」と言う部分だけに限定して考えると、判断基準は「試験の成績」と言う事になるのだが、実社会においては「時と場合によって判断基準が変わる」と言う「厄介な問題」が出てくるため、「要求される能力(学力)も多様化するのだが、「個々に要求される能力(学力)に応じた授業」など出来る筈も無く、「最大公約数的」「総花的」「幕の内弁当的」な授業にならざるを得ない。
どうしても自分の子供の能力を伸ばしたいのであれば、「塾へ行くか家庭教師を雇う」なりすればよいので、其処まで学校に求めるのは「弱い物いじめ」ではないだろうか?。
その一方で、日本人特有の「画一化」と言う考え方にも苦言を呈したい。
多くの人は「上」ばかり見ているようだが、足元にも目を向けて欲しいと思うのだが・・・・。
こんな事を書くと「言われなくても見ている!」と言う返事が返ってきそうだが、私の言う所の「足元」とは、「高層建築物の地下に隠れた基礎」と言う意味で、つまり、「上」とは「見える部分」で、「足元」は「見えない部分」と考えて欲しい。
よく子供たちが「なりたいもの(職業)」として、アイドル歌手、有名スポーツ選手、などを上げるのだが、彼らが、「アイドル・有名」でいられるのは、能力(才能)だけではなく「数多くのファン」と言う表面に出てこない存在があるからで、「ファンの存在」なくしては成り立たず、高層建築物にしても「それに見合って基礎」が無くてはタチマチ倒壊してしまうだろう。
「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と言うように、何処かが欠けると成り立たない事も多いため、「役に立つかどうかわからない」と言うだけの理由で勉強しないのは、自分自身の「将来の可能性を狭くする」と言う事になりはしないだろうか?。
その時になって慌てても、「泥棒を捕まえてから縄をなう」と言うことと同じで、「折角のチャンスを逃す」と言うことにもつながると思うのだが・・・・。
何処かへ旅行をする時の事を考えて見て欲しい。
「万一」に備えてあれこれと「使うかどうか解らない物(傘など)」を持って行くと思うのだが、「結局使わず荷物になっただけ」と言う事と同じではないだろうか?。
日常生活においても様々な事に「万一の備え」と言うことをしていると思うが、「これで絶対大丈夫」と言うレベルにするためには「多くの資金(資材)」が必要になるため、「この位で大丈夫だろう?」と言うことが多くなり、「災害の被害者」になってしまうように、「学力(知識)」にも同じ様に「万一の備え」と言うものが必要だと思うのだが・・・・。
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木を見て森を見ず    3

2008年03月11日 03時05分25秒 | Weblog
番組の中だけではなく、社会全体が「教師に対する過度の要求」をしているようで、今日は教師の立場になった考え方をしてみようと思います。
私はけして教師になった経験も無く、教師の資格も無いのだが、少年野球のコーチをした経験から考えると、「子供たちの指導(教育)がいかに大変なものか」と言うことは理解出来ます。
コーチも教師も似たような物なので、少年野球の指導を例に書きますが、子供が少数(4・5人まで)の場合はそれ程でもないのですが、人数が増えてくると一人で全体をコントロールする事は非常に困難になってしまい、全体をまとめる為にはやむを得ず「大きな声で怒鳴る」と言うことも珍しく無く、時には「ゲンコツ」と言うものも必要になってしまいます。
昔は「極当り前」だったゲンコツが、何時の間にか「体罰だ!」と言う風潮から消えてしまったのですが、私の場合は「注意(警告)する」と言う意味で必要に応じて(軽くですが)使いますが、子供や親たちとの「信頼関係」があれば問題にはされず、子供の方でも「今のはゲンコツですよね!」言って待っている子がいたり、時には「僕にもゲンコツちょうだい!」などと言う子も出てきて、チームとしてのまとまりが良くなる場合もありますが、アクまでも「信頼関係」と言うことが前提になるので、少年野球チームのように十数人程度までが限界で、40人学級と言う教育現場に持ち込むことは困難でしょう。
次に、指導(教育)を「上手の子と下手な子」のどちらに重点を置くかと言う問題が出て来ますが、一人一人個性を持った子供たちを一人で教える事は、とても出来る相談ではなく、少年野球の世界でも「勝利至上主義」が蔓延しているため、殆どが「上手な子を中心にする」と言う事になってしまい、理想的な指導をする為には、「子供と同じ数のコーチが必要」と言うことになり、「実現不可能」な事なのです。
単に「人数だけを集める」と言う事は可能かもしれないのだが、「子供の能力に合わせた人を集める」と言う事は無理な相談でしょう。
教育の現場でも、「一人の教師で生徒全員の面倒を見る」と言う、正に「神業」が要求されるため、「パニック状態」に陥る教師が続出しているのです。
冷静にわが身を振り返ってみれば、「教師の大変さ」が解ると思うのだが、最近は、「少子化」に加えて「権利の乱用」と言う風潮が広がり、「相手を思いやる」と言う心が失われてしまった。
自分の子供を育てる場合でも、子供の数が増えると「面倒を見るのが大変」と言うのと同じ様に、教育の現場でも同じ事だと言う事に気が付くべきである。
「子育てと教育は違う!」と言う人もいるだろうが、所詮は「大同小異」でしかなく、ましてや、最近の風潮として「本来家庭で躾けるべき事」をしないで、教育の現場に求め、ただでさえ忙しい教師を困らせている。
「子供を車に放置してパチンコに夢中になる親」「子供にばかり勉強しろ!と言う親」、そして「自分の責任を棚に上げて、他人に責任を擦り付ける」と言うことを親がしているのだから、子供の学力が低下するのは「当然の結果」と言うしかない。
子供の学力低下を問題にするのなら、「親の学力」も問題にするべきだと思うのだが・・・・。
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木を見て森を見ず    2

2008年03月10日 01時30分02秒 | Weblog
昨日のブログでは、書きたいことの「ほんの一部」しか書くことが出来なかった為、同じテーマでまた書くことにしたのだが、部分的に見れば「表現の違い」が出ることを予め承知をしておいてください。
番組の中では「学力」と言うものに主題が置かれている為に、「いかに子供たちに勉強をさせるか」と言う事に話がいってしまうので、昨日は「学力=学ぶ力」と言う書き方をしたのだが、今日は「何を学ぶか?」と言う部分に触れて見たいと思います。
「駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」と言うように、世の中には様々な人が居り、「様々な生き方」をしているのだが、人それぞれ生き方によって必要とするものも違ってくる。
解り易く言うなら、「平屋の家を建てるのには高層ビルを建てるような基礎は必要ないが、平屋を建てる基礎では高層ビルは建てられない」と言うことと同じで、平屋の家で満足できるのであれば、「ブロックを並べた程度の簡単な基礎」でも良いのだが、「後になって二階を増築しようとしても出来ない」と言う事を考えると、将来を見越して「ある程度の基礎」は必要になる。
以前に聞いた言葉であるが、「守・破・離」と言う言葉を思い出した。
名前は忘れてしまったが、ある芸術家の話で、「始めは基本(基礎)を守り、次に基本を破り、最後は基本から離れる事によって自分の物(芸術)になる」と言うのだが、この事からもわかるように「全ての事は基本(基礎)が無くては始まらない」と言うことである。
「学ぶ事の意味がわからない」と言うのは、「学ぶ=勉強=学校」と言う「短絡的な考え方」による物で、「学校を卒業したら勉強しなくて良い」などと言う法律は何処にも無いように、社会に出れば出たで学ぶ事は山ほど有り「学ぶ事が無くなる」などと言う事は絶対にありません。
あと3ヶ月で66になる私でさえ「勉強する事だらけ」で、何か一つの事を解決すると「新たな問題が発生」して来るのだが、「その問題の解決策」には、遥か昔に「難しい試験問題で苦労した」と言う事も役に立っている。
「知識(基礎)」は、お金と違って「使えば使うほど増える」と言う性質があるのだが、反対に「使わないと役に立たなくなってしまう」と言う性質も併せ持っている。
また「何時何に役に立つかわからない」と言う「不確定要素」と言う厄介な問題があるため、「ないがしろ」にされてしまうのだが、「一種の保険」と言う考え方も出来ると思うのだが・・・・。
さて、表題の「木を見て森を見ず」であるが、この「森」は「自然の森」であって「人工的な森」では無い事は言うまでも無いのだが、「自然の森」では、人間が手を加えなくとも、様々な樹木が調和を取って長く維持されるのだが、「人工的な森」では、人間が手を加えて維持して行かないと、やがて「崩壊してしまう」と言う事になる。
人間の学力(学力と言う表現をするからいけないのかもしれないが)にも同じ事が言えるはずで、「受験に必用な学力」だけでは、社会に出てから苦労する事になるだろう。
学力=知識、と言う考え方をすれば、「知識は人生を豊かにしてくれる」と言う言葉もあるように、「身に付けておいて損はない」と思うのだが・・・・。
知識が無い為「折角のチャンスを逃す(運も実力のうち)」と言う事だってあるだろう(運に後ろ髪は無い)。

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木を見て森を見ず

2008年03月09日 03時09分26秒 | Weblog
日本の、これから「大丈夫ですか?日本人の学力」、と言う討論番組をやっていたが、中学生や高校生を含めた様々な分野の人たちが様々な意見を出しているのだが、効果的な結論を得るには至らずに終わってしまったが、当然の結果と考えるべきで、「十人十色」と言うように、一人一人が「自分が置かれた立場」にもとずいて考える以上、考え方に差が出るのは当然の事で、「森は様々な木によって形成されている」のと同じ事で、「どの意見が正しいのかを判断する事など出来る筈が無い」と言うより、「問題を解決する為には、全ての意見を取り入れる」と言う必要があるのだが、その様な事は「財政的にも、人材的にも不可能」と言ってよいだろう。
番組のなかで「先生の質(指導法)」と言うことが槍玉に上がるケースがかなりあったのだが、これは「無理な要求(先生は完全無欠な人間ではない)」で、そもそも「先生」とは、「特定の教科に詳しい人」と言うことが前提であるはずで、教え方が上手だからと言う理由では先生になれる筈が無く、ましてや「教え方の上手な人」などどれだけいるのであろうか?。
「先生にも能力主義を」と言う意見も合ったが、その為には「能力に見合った給与」も考えなくてはならず、現実的な話ではない。
「イチロー」の名前も出て来たが、「イチローレベルの人」世界にどれだけいると言うのであろうか?、発言した人の真意が知りたい物である。
そもそも「学力」とはいかなる物であろうか?。
学力とは、そのものズバリ「学ぶ力」と言うべきで、本人に学ぶ気が無ければ、「先生の質」など問題になるはずも無く、本人の学ぶ意識が高ければ、先生の質が悪くても学ぶ事は出来るはずで、「馬を水辺に連れて行く事は出来ても、水を飲ませる事は出来ない」と言うことと同じである。
「日本人は応用力・読解力に欠ける」と言われるが、基礎が出来ていなければ応用する事も、読解する事も出来無い筈だが、それでは「基礎」とは一体どのようなものであろうか?。
これは私個人の考えであるが、「基礎」とは、「普段の生活の中から学び取るもので、学校で先生に教えられて学ぶものではない」と考えているのだが、携帯電話やゲームなどは、「百害あって一利なし」だと思っている。
最近の試験では、○×式や、選択式の問題が多くなり、「考える」と言う事が余り求められなくなっているのだが、ここで私の中学時代のことを少し書いてみたいと思うのだが、多くの人は信じられないかもしれないが、私が通った中高一貫校では、理科、数学、国語、社会、と言う四大教科では無く、理科は「物理・生物・化学」、数学は「幾何・代数」、国語は「漢文・古文・現代文」、社会は「政治経済・地理・歴史」と言う11に細分化された授業で、しかも「選択」ではなく「全て必修」と言う授業で、各教科に「専門の先生」が付く事にに加えて、試験には「教科書以外」からも出題される事が良くあり、教科書から出題される場合でも「そのまま」と言う事は少なく、常に「応用力」が要求されていた。
特徴的なのは、生物と物理の試験で、生物の試験などは「問題を作った先生でも満点は取れない」と言う問題さえあり、「98点が満点と思え」などと言うことが言われていたし、物理の先生は、「答えは違っているが、解き方に問題は無い」「時間が足りなくて途中までしか出来なかった」などと言う場合は、それなりの点が付けられ、反対に「答えが合っていても、解き方に問題がある」と言う場合は減点され、場合によっては「減点ではなく、マイナス点」を付けられる事さえあった。
私は、高一で中退(落ちこぼれ)したのだが、卒業生は全員、東大、一ツ橋大、学習院大、慶大、早大、に現役で合格しており、それ以外の大学を受ける人は「殆どいない」と言う状態であった。
学力のない者は容赦なくふるい落とされ、中学でも「学力不足で留年」と言う事さえあり(この場合は、他の中学に転校してゆく)、「先生の質・・・・」などと言う事は問題にならず、始めから「勉強する気の無い子供はいない」と言うことが前提になっており、今のように「塾」などと言うものも殆ど無かった時代にそれを支えたのが「家庭教師」と言うもので、正に「マンツーマン」と言う理想の指導が出来たのであるが、それが出来たのはごく一部の裕福な家庭で、それが出来なければ「受験資格はない」と言っても良いかもしれない。
当時は、中学を卒業してすぐに就職する事が珍しい事ではなかったのだが、ロクに勉強する事も出来なかったにも拘らず、その後社会で活躍出来たのは、学校以外で学んだ「基礎」と言うものが役に立ったのであろう。
携帯やゲームはおろか、「テレビさえない」と言う時代では合ったが、「自然」と「良好な人間関係」には恵まれており、「学校では学べない大切な物」を沢山学べた事が役に立ったと思う。
便利な物があふれている「物質社会」には、「様々な危険」が潜んでおり、「学力の低下」と言う問題もその危険の一つであろう。
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レジ袋やめます

2008年03月05日 20時20分27秒 | Weblog
東京のあるスーパーが、「レジ袋を削減」するのではなく、「やめる」と言うことを試験的に始めるという。
省エネが叫ばれる中で、ある意味で「画期的」とも言えるのだが、私の感覚から言わせてもらうなら、????、と言う感じである。
「資源を大切に」と言う意味では大いに結構な事ではあるが、以前にも書いたことがあるのだが、「レジ袋の削減・廃止」による効果は「それ程大きなものではない」、つまり「やらないよりマシ」と言う程度だと思うのだが・・・・。
「1リットルのガソリンを節約する事が、レジ袋何枚の節約になるか?」と言う事は考えられていない。
トヨタを始めとする多くの自動車メーカーが「ハイブリット車の開発」に力を入れているようだが、このことにも少し、????、と言う気がしてならない。
「果たして本当に普及出来るのか?」と考えると、「車自体は省エネ・省資源」と言う事になるが、「普及させる為のインフラ整備」と言う部分に、「多くの資源とエネルギー」が必要になってくるのだが、その部分には全くと言ってよいほど触れられていないため、トータルに考えると「省エネ・省資源につながらない」と言う危険性さえ有ると思うのだが・・・・。
開発に使われる、資源やエネルギーもバカにならないのではないだろうか?。
そしてまだ気がかりな事がある、省エネ・省資源のために「ハイブリット車の開発」をしている一方で、「ハイオク仕様で、リッター5キロか6キロしか走らない車」の生産もしている事である。
私の車は、7年前の車であるが、「レギュラー仕様でリッター16キロ前後」は走ってくれるから、三分の一程度のガソリンで済むのだが、果たしてレジ袋何枚分の節約になるのであろうか?。
「車種が違う」と言ってしまえばそれまでだが、「ハイブリット車の開発」を前面に押し出しておいて、その一方で「豪華で重たくて燃費の悪い車の生産をしている」と言う現実は、かつて「ガソリンをこぼして走っている」と酷評された「アメ車」と、大して変わりがないのではないだろうか?・・・・。
「1500CC の私の車より重たい軽自動車がいくらでもある」と言う、「豪華で大型化をしている自動車産業」と言う状況の中で、マツダ・デミオが「小型化して100キロの軽量化」を成し遂げた事は、「大いに歓迎すべき事」だと思うのだが、「現状の流れに逆らう」と言う状況を考えると、「マツダ一社の力で何処まで出来るか?」と言う不安を拭い去る事は出来ない。
以前「マネシタ電器」と言う事を書いたが、トヨタの場合は「様子見トヨタ」と言う言葉が陰で言われているように、「消費者の反応」を見ながら動くので、マツダ・デミオの動きが広がるかどうかは「消費者の反応次第」ということになるのでは?・・・・。
昔からトヨタはマツダを嫌っているので、「マツダの後追い」と言う形になるのですぐに動く事は無いだろうが、「省エネ・省資源」と言うことを考えれば「面子」に拘っている事など出来ないと思うのだが・・・・。
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最近少しスランプに陥ってしまったようである

2008年03月04日 03時21分24秒 | Weblog
ブログを始めて1年2ヶ月余り、途中少し休んだ時期もあったが、われながらよく続いたものだと思う。
始めの頃は題材を見つけるのはそれ程難しい事ではなかったのだが、色々と書いてくるうちに適当な題材を探すのに苦労するようになってしまい、内容自体も、書いている本人でさえ時々、??、と言う状態が出てきてしまっている。
そのためだろう、最近ブログにアクセスしてくださる人の数が半減してしまっている。
「継続は力」と言う言葉があるが、つくずく「継続する事の難しさ」を思い知らされている。
作家やコラムニストの苦労はこんな物ではないだろうが、多少はその苦労がわかるような気がする。
今の国会で、自民党と民主党がくだらない事で言い争っているのも、「他にこれと言った争点が無い」と言うことが原因になっているもので、所謂「ネタ切れ」と言う状態に陥ってしまっているのであるが、他人事ではない、私のブログも「ネタ切れ」を起こしているのだから。
ここで終わりにするか、軽い話題でお茶を濁すか、それとも「へそ曲がり」の看板を下ろすか、難しい選択である。
もう一つの方法として、新たに別なブログを立ち上げて、「話の内容で使い分ける」と言う手もあるのだが、どなたか「名案」をお持ちの方はご教授ください。


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