国語問題が起こったのは、明治初期である。国語改良問題と合わせて、説明がある。国語は漢字廃止の意見から、近代国家へと変遷するなかにあって、日本語のとらえ方にシフトする。>前島はさらに、明治政府に対し、ひらがなをもって「国字と定め、古来の教育法を変じ、新教育法を以て、論理、物理、法理等より日常万般の事に至るまで、其仮名字なる簡易の国字を以て教育する」ことにしたらどうかという趣旨 を述べて、国字の概念をもち出している。そこで、国語、国字改良の機運をとらえると、その後に国語について、国語問題、国語改良運動となって、漢字制限論、言文一致論、標準語論、国語尊重擁護論などが展開される。国語国字問題とする動きは。ここに、国語調査委員会を委嘱することとなる。明治三十三年の国語調査委員の委嘱、三十五年三月官制により国語調査委員会、そして国語調査委員会は大正二年に廃止、十年に臨時国語調査会を設置するも、昭和九年十二月廃止する。この過程に、国語国字問題のことがらが議論されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317732.htm
二 国語調査機関の設置
国語問題・国語改良運動
> 徳川時代の封建鎖国のとびらが開かれて、わが国が近代化のれい明を迎えようとした幕末のころ、前島密が徳川慶喜に建議した「漢字御廃止之(の)儀」が国語改良運動の最初である。これは、「国家の大本は国民の教育にして其教育は士民を論ぜず国民に普からしめ之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざるべからず」という論旨で、漢字の国語発達に及ぼす影響、漢字廃止に伴う利益等を論じたものである。前島はさらに、明治政府に対し、ひらがなをもって「国字と定め、古来の教育法を変じ、新教育法を以て、論理、物理、法理等より日常万般の事に至るまで、其仮名字なる簡易の国字を以て教育する」ことにしたらどうかという趣旨の「国文教育ノ儀ニ付建議」を提出した。このようにして、わが国の国語問題、国語改良運動が芽ばえてきた。明治維新を一つの新たな刺激として一転機を画したわが国の近代化現象の一翼に、欧米文物の吸収による近代市民社会的な進歩改良主義と国民意識の統一、国民文化の高揚による国力伸張主義が登場してきたのである。これが外に向かっては、わが国が諸外国と伍して対等に交際していく上において、日本語は外国語に比べて見劣りするのではないかという反省があり、国語についての近代社会的・文化的意義を改めてせんさくする必要が生まれたのである。また、内に向かっては、国民的教養の大衆化のための国語の統一と学習の平易化を図る必要から、国語・国字改良の機運が生まれてきたのである。
明治二十六年、井上文相は字音仮名遣に関する諮問を落合直文、栗田寛、外山正一ほかの国語学者に対して行ない、その答申を受けて
三十三年八月小学校令、同施行規則により「仮名の字体」、「字音仮名遣」、「千二百字漢字制限」を実施した。
三十三年四月、前島密ほか七人の国語調査委員を委嘱したが、これは
三十五年三月官制により国語調査委員会となり、加藤弘之委員長ほか委員一二人で「国語ニ関スル事項ヲ調査ス」る機関として発足した。この機関は、「普通教育ニ於ケル、目下ノ急務ニ応ゼン」ために、漢字の制限、字音仮名遣の改定、一語仮名造の改定ほかの調査を行なうこととし、「送仮名法」、「漢字要覧」、「仮名遣及仮名字体沿革資料」、ほか数多くの成果を発表した。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317732.htm
二 国語調査機関の設置
国語問題・国語改良運動
> 徳川時代の封建鎖国のとびらが開かれて、わが国が近代化のれい明を迎えようとした幕末のころ、前島密が徳川慶喜に建議した「漢字御廃止之(の)儀」が国語改良運動の最初である。これは、「国家の大本は国民の教育にして其教育は士民を論ぜず国民に普からしめ之を普からしめんには成る可く簡易なる文字文章を用ひざるべからず」という論旨で、漢字の国語発達に及ぼす影響、漢字廃止に伴う利益等を論じたものである。前島はさらに、明治政府に対し、ひらがなをもって「国字と定め、古来の教育法を変じ、新教育法を以て、論理、物理、法理等より日常万般の事に至るまで、其仮名字なる簡易の国字を以て教育する」ことにしたらどうかという趣旨の「国文教育ノ儀ニ付建議」を提出した。このようにして、わが国の国語問題、国語改良運動が芽ばえてきた。明治維新を一つの新たな刺激として一転機を画したわが国の近代化現象の一翼に、欧米文物の吸収による近代市民社会的な進歩改良主義と国民意識の統一、国民文化の高揚による国力伸張主義が登場してきたのである。これが外に向かっては、わが国が諸外国と伍して対等に交際していく上において、日本語は外国語に比べて見劣りするのではないかという反省があり、国語についての近代社会的・文化的意義を改めてせんさくする必要が生まれたのである。また、内に向かっては、国民的教養の大衆化のための国語の統一と学習の平易化を図る必要から、国語・国字改良の機運が生まれてきたのである。
明治二十六年、井上文相は字音仮名遣に関する諮問を落合直文、栗田寛、外山正一ほかの国語学者に対して行ない、その答申を受けて
三十三年八月小学校令、同施行規則により「仮名の字体」、「字音仮名遣」、「千二百字漢字制限」を実施した。
三十三年四月、前島密ほか七人の国語調査委員を委嘱したが、これは
三十五年三月官制により国語調査委員会となり、加藤弘之委員長ほか委員一二人で「国語ニ関スル事項ヲ調査ス」る機関として発足した。この機関は、「普通教育ニ於ケル、目下ノ急務ニ応ゼン」ために、漢字の制限、字音仮名遣の改定、一語仮名造の改定ほかの調査を行なうこととし、「送仮名法」、「漢字要覧」、「仮名遣及仮名字体沿革資料」、ほか数多くの成果を発表した。