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戦没者追悼

2018-08-15 | 思い遥かに
戦没者追悼  
   
敗戦の日 太平洋戦争
終戦の詔勅 大東亜戦争
無条件降伏 第2次世界大戦
武力放棄 日中戦争

平成時代の最後という物言いに、感懐がある。天皇退位が決まって元号が変わるということである。それに、何か意味があるのかと思う。それをに思いをめぐらせて、昭和天皇の時代に戦争があり、今上天皇の時代はそれを目の当たりに、戦没者のこの世代をともに生きてきたわけであるから、出征兵士たちをみつづけていたわけである。明仁親王として、1933年、昭和8年生である。多感な10代を感慨をもって、日本の敗戦と独立を見続けてこられただろう。天皇陛下は56歳に即位してこの30年を過ごされたわけである。70年余を平和に生きて世代をともにした。




ウイキペディアより

1953年(昭和28年)3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。後年、2007年(平成19年)の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける[20]。

外遊からの帰国直後の同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を受け、1957年(昭和32年)までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年(平成21年)3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[21][22]。


結婚の儀に際し
1957年(昭和32年)8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると分かると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と母・香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃と共に昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。


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