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ひのもと

2018-12-04 | 木瓜日記

いざ子ども 早く日本へ 大伴の
    御津の浜松 待ち恋ひぬらむ    巻1-63 山上憶良

去来子等 早日本辺 大伴乃 
    御津乃浜松 待恋奴良武   山上臣憶良在唐時憶本郷作歌

万葉集の歌に表記するには、日本 と、書くのがよかったのだろう。
大宝2年、702年に渡唐し、帰国と目される。このときは40歳代はじめか。
720年、729年に国史が編纂されて、すでに、日本 の表記はあったのであるから、
この憶良の和歌に見る表記は、ヤマトについて、外地からの呼称に取られたか。
万葉集の編纂が7世紀後半から8世紀にかけて、その万葉時代は629年に即位、舒明天皇以降と、万葉集最後の歌は巻二十の4516番が作られた759年、天平宝字三年までの、約130年間である、このころには倭と日本との表記が自らのものかどうかで意識されていたのである。


続日本紀 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/続日本紀
『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
山上憶良
やまのうえのおくら
[生]斉明6(660).百済?
[没]天平5(733)頃
奈良時代の万葉歌人。文武5 (701) 年遣唐少録として名を記録されたのが『続日本紀』の初出で,このとき 42歳で無位であった。


ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
日本書紀
にほんしょき
奈良時代の歴史書。六国史の一つ。 30巻 (『続日本紀』に系図1巻を付すとあるが現存しない) 。舎人親王らの編。養老4 (720) 年成立。


http://www.geocities.jp/astpa693/kokugoh.html
防長人丸社新考
日本国号私考13.07.17.上稿

ところで、憶良らの遣唐使一行には気になる人物がいる。請益僧(短期の留学僧)として渡唐した釈弁正で、『懐風藻』に、彼が唐で詠んだ五言詩「唐に在りて本郷を憶ふ」が残されている。

27 日辺瞻日本、雲裏望雲端。遠遊労遠国、長恨苦長安。

(訓読)日辺より日本を瞻、雲裏より雲端を望む。遠遊して遠国に労し、長恨して長安に苦しむ

(現代語訳)太陽ののぼるあたりに故郷日本を見 広がる雲の果てに思いをよせて仰ぐ

遠く異国に留学し異国で苦労を重ね 尽きぬ長い恨みを長安で抱いている

弁正は、李隆基(後の玄宗皇帝)の賞遇をうけ、唐で還俗して子供をもうけている。朝慶と朝元の二人で、弁正と朝慶は唐で亡くなるが、朝元は来日し、忌寸姓をうけ父方の氏名「秦朝元」をなのる。天平5年(733)、多治比広成を大使とする遣唐使の入唐判官任じられ入唐。翌年帰国し、外従五位下に昇叙している。なお、長岡京造営使の藤原種継は、朝元の孫になる。

この五言詩は、長安での遣唐使の送別宴で詠んだ、憶良の「在大唐時憶本郷作歌」を覚えており、朝元が来日するさいに、母国・日本を偲びながら作詩して託したのであろう。

彼は、子供らの唐姓を「朝」としているが、東方の日出る国・日本を、その字に含めたものと思われる。また、この姓は、同じく唐で生涯を終えた安倍仲麻呂の唐名、「朝衡」(晁衡とも)にもみられる。

冒頭の歌(01/0063)で、新国名が承認されたことを喜び歌った山上憶良の「ヤマト=日本」は、この後、神亀5年(728)の05/0794(「日本挽歌」)の題詞に出る1首のみで、天平5年(733)、遣唐大使・多治比広成に献上した好去好来歌05/0894(長文のため略)では、「虚見通 倭國者(そらみつ 大和の国は)」となっている。

吉田孝は、冒頭歌の「日本」を、『日本古典文学大系』版などで、「大和」と訓読されているのを「それでは憶良がかわいそうだ」と嘆いているが、晩年の好去好来歌では「倭國」と原文表記になっているのをみて、「憶良の気持ちは日本から故郷のヤマトへ、外から内へと向かっていたのだろうか」と、心情の変化を推測している。(『日本の誕生』岩波新書)

しかしこれは、かつて憶良らが乗った遣唐使船が出航するさいに、

13/3254 志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具

(訓読)磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ

と、見送ってくれた柿本人麻呂に倣って、旅路の無事を祈る「言霊の幸」を「ヤマト=倭國」に願い込めたものと解釈しておきたい。

なお、憶良の「在大唐時憶本郷作歌」の第4、5句は、天平8年(736)の遣新羅使が、帰途、播磨國家島(姫路沖の家島群島)付近で詠んだ歌に使われている。

15/3721 奴婆多麻能 欲安可之母布<祢>波 許藝由可奈 美都能波麻末都 麻知故非奴良武

(訓読)ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな 御津の浜松待ち恋ひぬらむ

この遣新羅使一行は、新羅の無礼を咎めるため派遣されたのだが、途中壱岐にて雪連宅満が病死し、新羅では国書の受け取りを拒否されるなど、散々な旅であった。「やっとの思いでここまで帰ってきたのだ、闇夜ではあるがこのままこぎ続けて行こうではないか、浜ではさぞかし皆が待ち焦がれているだろうから」と、憶良の歌に思いを重ねたのであろうか。

他に、『万葉集』では、03/0319「詠不盡山歌」(高橋虫麻呂歌集:作歌年不詳)の1首のみではあるが、「日本之 山跡國乃(ヒノモトの 大和の国の)」と訓読みされ、「山跡國=ヤマト」の枕詞的用法になっている例がある。

これを承けてか、鎌倉初期の『新古今和歌集』巻十 羈旅では、憶良の「在大唐時憶本郷作歌」が、次のように変化している。

00898 いさことも はやひのもとへ おほともの みつのはままつ まちこひぬらむ



>ひのもと

2007年12月04日05:56

日の本としたかったのだろう、日の本の国、ひのもとのくに
表記が何に由来するかは明確ではないが、かなたから見れば
こちらを臨み東方海上に浮かぶ日が出る国となる位置にある
それを自ら、ひのもとにあるくに、としたのは、ごく普通になる

ことばを用いれば、もと、すえの関係を捉えたものであって
語の意義において、日本と文字を連ねてそれをどう読んだか
あるいは音読みをすることがなくてヤマトの訓で読んでいた
と、することは可能、万葉集の詩歌の漢字表記にあらわれた

それはたしかに歌の言葉としてのヤマトであり歌人の気持ちに
かの地からの思いを表わす国の名前として書かれたものである
その文字使い、表記が行われたのは紛れもなく日の本であった
それを求めていけば日本と書いてヤマトと読む例が少ないのは

そのひのもとにすむわたしたちこそがひのもとをながめるのは
日の出になるのは東海上に上るお日さまであるから自らを見る
ということはかの地へ出かけ位置関係をとるしかないのである
それはまさにそういうことだとして音読みの国名を探してみる

また一方で、日本と書き表したのだからそれは、ひのもと、と
それをみずからのこととして、ひのもとを、もとめさがすこと
そこにあるのはアイデンティティーを確かめようとすることで
時代を経て次のような文章に表れるのを見ることになる

>「このひのもとにありとある、いそのかみふるきかんみやしろををがみめぐり、ぬさたいまつらばやと、あめの光あきらけき御世の、おほんめぐみあまねくみつといふとし(天明三年)長閑き春もきさらぎの末つかた、たびごろもおもひたち父母にわかれて…」
 これは、菅江真澄が《伊那の中道(本文)》の冒頭

>すがえますみ 1754~1829 江戸後期の紀行家・随筆家。本名は白井秀雄。 1810年(文化7)以降、菅江真澄と称した。三河国(愛知県豊橋市付近)に生まれる。国学・本草学をまなんだのち、1783年(天明3)から旅にでて、名所旧跡をたずね各地の村々をまわった。信濃・越後・出羽・津軽から蝦夷地の松前にもわたり、1811年から秋田の久保田城下(秋田市)にすんだ。

日の本を探すたびが後世の旅人にあらわれたのは、いわば、アイデンティティーを求めてのことである
日の本の国にいるのだからその源流を探求すると言うのは日の本の地名を確かめることになる
それはそれでまた彼の地で日の本を臨んだ証明でもあるが、この地で日の本を眺めればそれは東方海上に浮かぶ日の出を見ることにもなるので
日出づる国の日の本にいるわたしたち自身には、ここのすべてが日の本である

日の本を、ひのもと、とするのは、文字による表意のことであった
それを日本として書き表した、読みは、やまと、であったから、やって来るところを指して、日本として日出る方向を指し示したであろう
それは和、いやむしろ、倭であるよりは、大倭であるよりは、日本が示しやすかったであろう
日本を、大和である、としながら、自らを日本国王とする、それがまたかの地に伝えられて、やまとのくにのおおきみ、ではない日本の呼称は、どう呼ばれたか、それは時代を経てのことになる




30カ国中7位
2007年12月03日22:22

日本の、豊かさ、7位
環境は高評価、財政は最悪
2007年12月3日 19時42分
社会経済生産性本部が3日発表した

2007年版「国民の豊かさの国際比較」
日本は経済協力開発機構(OECD)加盟30カ国の中で7位
前年より1つ順位を下げた
環境、健康分野は上位、政府部門の財政悪化

調査は今回が4回目
財政状況や自然の豊富さ、医療・教育の充実度などを総合的に判断
日本は環境分野が4位、森林面積の広さやごみ処理の少なさが評価
病院のベッド数など健康分野は5位

マクロ経済は22位と低迷
経済成長率や、国民1人当たりの政府累積債務は最悪の評価

総合1位はルクセンブルク、2位はノルウェーで欧州勢が上位を独占
米国は12位
(共同)
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