1984年の国慶節のときに、中国北京にわたしはいた。35周年記念の盛大な式典で、人民広場に面した左翼の立ち見席に専門家たち、日本人と外国人たちといた。わたしは日本語専家としての招待であった。パレードがあって、引き続く、晩会にも同じ場所にいて、花火を見上げた。壮大な風景であったとの思い出がある。
日本語教師として北京語言学院に、その夏に赴任した。8月夏休みの観光と、上海旅行はあっと過ぎて、交換教員で9月から1985年の2月まで滞在し、日本語を教えた。友誼賓館のホテル住まいであった。10月1日の祝日には招待があると聞いて物見遊山の気分であったのを覚えている。
専家の待遇は中国での賓客として、招待と言われれば、その時間に集まって差し回しバスでお任せである。故宮の一角がバスの駐車場になって、どこをどう通ったか、道ならぬ壁と囲まれた中を広いことと意識し東の端にあるひな壇に上がった。あとで思えば天安門城壁とすこしのところ、人民大会堂を遠く眺め、出てくるパレードを目の当たりにしていたのである。
昼は宮殿の建物が何かは定かでなくとも、なんとなく古色の広場をいくつも見て、地面敷き詰めた石畳がめくれてでこぼこしていたのであるが、夜はもうまったくの真暗闇で夕刻から鳥が鳴き騒ぎ飛び交っていたのは時ならぬバスの列に脅かされたのだろう。
人民大会堂での食事会が行われた。あとにも先にも大会堂での会議ならぬ中華食の宴会は驚くことばかり、これでその大広間の人々の集まりを思えばいかが、それはテーブルナンバーが490番台であったこと、円卓には10人が座り、わたしのところまですでに5000人近くとなる。この時の思いは、あとにもないようなことと思っていたのだが、このあと2度も同じような思いを味わった。
つまり大会堂で3度も宴会に列席したのであるから、よほど変わったことを北京滞在を通してしていたことである。
万里長城は8回ほどいうのも、珍しくはないのは、それぞれに思い出がある。それも八達嶺からだけでない、そこからは数回、あとは慕田峪長城、居庸関長城、東には山海関があり、老竜頭からの眺めがあった。
わたしの日本語教師の経験は、赴日培訓班の日本語教育として集中教育であった。
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1984年の国慶節閲兵式では、中央軍事委員会のトウ小平主席が部隊の閲兵を行った。
閲兵を受ける部隊は1万370人から構成される46の方(梯)隊からなり、そのうち空中梯隊は4隊、地上方隊は42隊。閲兵を受ける各種飛行機は117機、ミサイルは189発、戦車や装甲車は205台、火砲126門、 ロケット地雷散布システム車18台。軽火器は6429丁、自動車2216台。閲兵を受ける武器は合計28種類で全て中国が独自に研究開発したもので、そのうち19種類が新装備となり、中国の国防現代化の新たな水準を表している。
今回の国慶節閲兵式は新中国成立以来最大規模で、装備が最も充実したものとなり、国内外から大きな反響を呼んだ。中国の国防力と人民解放軍の士気を十分に示し、国の威力、軍の威力を表すものとなった。(編集YH)
「人民網日本語版」2009年9月8日
80年代北京:トウ小平氏を間近に見た日
【コラム】 2008/02/22(金) 15:07
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0222&f=column_0222_004.shtml
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遥かなり80年代の北京(17)-真鍋忠夫
1984年10月1日、建国35周年を華々しく祝う国慶節パレードが北京で盛大に行われた。私にとって、トウ小平を実物で見た最初で最後の日だった。
特別なご招待
その年のある日、取引先の中国技術進口総公司から「あなたは我が公司にこれまで多大な貢献をしてくれたので、国慶節のパレードを天安門の特別席に招待する」といわれ、名誉なことでもあり、家内と二人で見に行った。外国人では各国の大使級外交官をはじめ、各貿易公司から推薦された民間人やメデイア関係者などが招待された。中国人では、党や政府の幹部や優秀労働者、模範学生など、ごく一部の選ばれた人たちが招待されていた。
天安門広場を大勢の学生たちがそれぞれ白いシャツやブラウスを着て赤い小旗を振り、北京秋天の青空の下を埋め尽くしていた。これほど大勢の人を眼下に見たのは、もちろん生まれて初めてだった。しばらくすると軍事パレードが始まった。次から次に兵士たちが、戦闘機や戦車、最新鋭の武器とともに天安門前を規律正しく整然と行進していったのは壮観であった。
トウ小平登場
どのくらいパレードが続いたであろうか。かない長いパレードが途切れたところで、それまで天安門の一番高いところにいたトウ小平が突然オープンカーに乗って天安門前に現れたかと思うと、周囲の解放軍兵士たちに手を振って「トンチーメン、辛苦了!(同志の皆さん、ご苦労様!)」と呼びかけるのが聞こえた。その瞬間、周囲の兵士たちの間から「ウオーッ」と地鳴りのような歓声が沸き起こった。
オープンカー上のトウ小平はさらに兵士たちの間を巡回しながら、何度も何度も「トンチーメン、辛苦了!」と呼びかけた。最高指導者から直接声をかけられた兵士たちの間から、その度に歓喜の声が挙がったのはいうまでもない。私にとっては、かの最高実力者がいかに尊敬されているかを目の当たりにしたひとときだった。
――中国が長期にわたって停滞と立ち遅れの状況に置かれた原因は、閉鎖的であったことによる。対外的に開放し、外国の資金と技術を導入し、我々の発展を手伝ってもらう必要がある。
これはその年のトウ小平の発言のひとつだ。現在の中国の発展がこの言葉を証明しているのではないだろうか。この時期から中国は対外開放政策を一気に推進していくわけだが、89年に天安門事件が勃発、その後数年間は諸外国との交流が停滞を余儀なくされ、これを打開するためにトウ小平は92年に自ら武漢、深セン、珠海、上海等の南方を視察し、各地で改革・開放を加速させることを訴える「南巡講話」を発表した。これが90年代からの高度成長の始まりだった。現在の中国の経済発展は、まさにこの80年代からの動きがベースになっているのである。
その日の夜は、天安門広場のあちこちから一斉に花火が挙げられた。北京は祝賀ムード一色に染まった。私たちも同じアパートの仲間たちとバスを借り切って市内のレストラン「居」で食事をし、そのあと隣人の部屋でカラオケを楽しんだ。お祭り好きにかけては、我々日本人は中国の人たちに負けるわけにはいかないのである。余談だが、当時の中国の休日は、元旦1日、春節3日、労働節1日、国慶節1日の合計6日しかなく、土曜はもちろん出勤日だった。(執筆者:真鍋忠夫)
日本・中国青年交流84
copen.daa.jp/tabi.nikki/kenbunroku-003.html
朝からの建国35周年パレ-ドのあと、昼食を天安門広場の側の民族記念宮で食べたあと中南海へ向かいました。 .... この青年交流が中国の35周年の建国記念日『国慶節』の祝賀に企画されたため、参加者全員が北京で勢揃いするように日程の調整がなされ ...
http://copen.daa.jp/tabi.nikki/kenbunroku-003.html
中国政府派遣赴日学部留学生政策を通して - 留学政策 - 中国へ ...
www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view152966.html
2011/09/15 - 日本への学部留学生派遣は5年間で終了し、1980年~1984年の間に実施された派遣数は合計379人にのぼった。 こうした日本に向けた学部留学生派遣政策 ... 天安門広場に国慶節の大型立体花壇を設置開始. - 中国の派遣留学生政策.
http://www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view152966.html
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中国政府派遣赴日学部留学生政策を通して
2011/9/15 00:54 中国留学
中国政府は中華人民共和国の建国以来、人材「培養」制度を重視してきた。「培養」とは、国家建設にとって必要な人材を試験や推薦により選抜し、政府が小学校から大学卒業までの教育課程にかかる学費を全額負担して人材を養成することである。教育修了後には、国家が需要に応じて必要な「単位」[i]に「分配」[ii]してきたのである。
中国政府は、留学生派遣を人材「培養」政策の一部として位置づけ、中国国内で「培養」できない人材を育成する一環として重視してきたのである。建国直後から1980年代まで、留学先から留学先での専攻分野にいたるまで、政府が決定していたのである。
留学生の派遣先は、五十年間以上の留学生派遣政策史のなかで変化してきた。1966年に勃発したプロレタリア文化大革命(以下、文革)直前までは、ソ連と東欧諸国が派遣先の中心であった。派遣は文革のために中断したが、72年には再開された。再開後の主な派遣先はイギリスやフランスなど西側諸国であった。日本への留学生派遣も73年から開始され、大量の派遣政策がはじまったのは79年であった。
日本への派遣でとくに注目されるのは、一つに日本以外の西側諸国への派遣とは異なり、多数の学部留学生を派遣するなど、学部留学生に重点をおいた点である。他の西側諸国へ派遣は、ほとんどが「訪問学者」(客員研究員)や「研究生」(大学院生)であった。たとえば、1980年から81年までの2年の間に、中国政府が派遣した総数384人の学部留学生のなかで、日本への派遣が199人で、全体の51.8%にのぼった[1]。もう一つの特徴は、学部留学生派遣政策が83年には原則的に中止する急激な政策変更がおこなわれたにもかかわらず、日本にたいする派遣政策は派遣留学生数を段階的に減らすなど、緩やかな変更であった点である。たとえば、当初中国政府はドイツにたいして日本と同様に毎年100人前後を派遣していたが、派遣実施の4年目の83年に派遣を完全に中止した。しかし日本への派遣は、人数こそ減らされたものの、少なくとも84年まで延長実施されたのである。日本への学部留学生派遣は5年間で終了し、1980年~1984年の間に実施された派遣数は合計379人にのぼった。
こうした日本に向けた学部留学生派遣政策について、中国側の評価は必ずしも肯定的ではなかった。理由の一つは、派遣後に学士や修士あるいは博士号を取得した後に帰国した学生が派遣した総数の半分にも及ばなかったことである。一部には明確に「失敗であった」という声もあがった。しかし、この政策は本当に失敗したといえるのだろうか。留学政策の評価は単なる帰国率で判断できるのだろうか。本研究は、派遣して20年間を経て、留学生らにたいして実施した実態調査の成果を踏まえて、日本に送られた学部留学生派遣政策を評価することを目的とする。
なお、本研究の意義は対日学部留学生派遣政策の評価をすることだけにあるわけではない。1972年の国交正常化後、日中関係は経済摩擦、歴史問題や台湾問題など様々な問題を抱えながらも、相対的には発展してきたといってよい。しかし、国民レベルの相互不信が深まり、とくに90年代以降にそれが顕著になったことも確かである。2003年のチチハルの毒ガス事件、珠海の集団買収事件、西安の西北大学の日本人留学生の寸劇に対する大規模なデモなどの事件がまさに相互認識の悪化を代表している[2]。相互不信感の解消あるいは縮小には、相互理解の促進が重要である。相互理解への一つの前提が、両国間の人的交流の増進である。
人的交流には政府間と民間とに大別される。政府間交流はもちろん重要であるが、両国政府も重視してきたように民間交流、とくに留学生の交流が重要である。留学生の派遣と受入れが活発化したきっかけは、1978年8月に締結された平和友好条約と79年12月に調印された「文化交流促進にかんする政府間協定」であった79年には、中国政府による日本派遣の留学生数は前年の1人から151人に急増した。とくに80年代以後、中国政府の出国留学制度の改革と日本の10万人留学生計画の実施によって、日本への中国人留学生が急増した。2003年5月1日時点で、日本に在籍している10万9508人の外国人留学生のうち、中国国籍が7万814人で、70%近くを占めているのである[3]。とくに、近年急増している中国人留学生は高校卒業してすぐ来日する学部からの留学が多く、本研究の研究対象と近い年齢層である。本研究の研究対象は日本の留学生活を体験して、20年間の間に変化されている対中対日認識を研究することによって、日中関係における相互認識の問題点を解決する糸口を探ることができるだろう。本研究はこうした日中関係を視野に入れながら、中国の対日学部留学生派遣政策の研究を進めたい。
本稿は中国政府の派遣留学生政策を研究する上で、1980年に日本に派遣した97名の第一期学部留学生に対して追跡調査を行い、中国政府は当初決定した彼らの留学先での専攻を分析し、政府の派遣意図を確認した。
本稿では、筆者は一年の調査を経て、第一期の97名の留学生の中に67名の現住所及び勤務先などの情報を把握することができた。その中の35名の学生と面会し、更に28名の学生対してインタビュー調査を実施した。本稿はこれらの調査の結果について分析し、政府派遣の目的に対して達成の状況を確認した。また、帰国しない或いは帰国してもう一度海外に出た留学生の帰国できない原因及びもう一度出国した原因を探った。
http://www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view142950.html
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中国の派遣留学生政策
2011/9/14 01:54 中国留学
中国政府の日本へ学部留学生派遣の目的:自動車技術造船工学などの工学を中心とした先進技術取得である。また派遣先の国民と交流し、社会状況を精通する知日派を育てるのも目的の一つである。
勉強の成果、帰国率から見れば、派遣した学生はとても優秀で、決められた勉強を完成するほかに、自力でも勉強し続け、勉強の成果を大きく上げた。帰国率は他の種類の留学生の帰国率より高いことが分かった。仕事は両国との関係から見ても留学という行為は単なる技術取得ではなく、両国を精通する人材を育て、両国の交流に貢献したに違いない。
学部留学生派遣政策の問題として帰国後の再出国の問題が残されている。しかし、海外にいても国に貢献しようという意欲があることが確認でき、帰国できない原因として子供の教育問題や仕事の条件などの具体的問題を挙げられた。より多くの留学生を帰国してもらうために、これらの具体的な問題を対処できる政策作りが必要である
日本語教師として北京語言学院に、その夏に赴任した。8月夏休みの観光と、上海旅行はあっと過ぎて、交換教員で9月から1985年の2月まで滞在し、日本語を教えた。友誼賓館のホテル住まいであった。10月1日の祝日には招待があると聞いて物見遊山の気分であったのを覚えている。
専家の待遇は中国での賓客として、招待と言われれば、その時間に集まって差し回しバスでお任せである。故宮の一角がバスの駐車場になって、どこをどう通ったか、道ならぬ壁と囲まれた中を広いことと意識し東の端にあるひな壇に上がった。あとで思えば天安門城壁とすこしのところ、人民大会堂を遠く眺め、出てくるパレードを目の当たりにしていたのである。
昼は宮殿の建物が何かは定かでなくとも、なんとなく古色の広場をいくつも見て、地面敷き詰めた石畳がめくれてでこぼこしていたのであるが、夜はもうまったくの真暗闇で夕刻から鳥が鳴き騒ぎ飛び交っていたのは時ならぬバスの列に脅かされたのだろう。
人民大会堂での食事会が行われた。あとにも先にも大会堂での会議ならぬ中華食の宴会は驚くことばかり、これでその大広間の人々の集まりを思えばいかが、それはテーブルナンバーが490番台であったこと、円卓には10人が座り、わたしのところまですでに5000人近くとなる。この時の思いは、あとにもないようなことと思っていたのだが、このあと2度も同じような思いを味わった。
つまり大会堂で3度も宴会に列席したのであるから、よほど変わったことを北京滞在を通してしていたことである。
万里長城は8回ほどいうのも、珍しくはないのは、それぞれに思い出がある。それも八達嶺からだけでない、そこからは数回、あとは慕田峪長城、居庸関長城、東には山海関があり、老竜頭からの眺めがあった。
わたしの日本語教師の経験は、赴日培訓班の日本語教育として集中教育であった。
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1984年の国慶節閲兵式では、中央軍事委員会のトウ小平主席が部隊の閲兵を行った。
閲兵を受ける部隊は1万370人から構成される46の方(梯)隊からなり、そのうち空中梯隊は4隊、地上方隊は42隊。閲兵を受ける各種飛行機は117機、ミサイルは189発、戦車や装甲車は205台、火砲126門、 ロケット地雷散布システム車18台。軽火器は6429丁、自動車2216台。閲兵を受ける武器は合計28種類で全て中国が独自に研究開発したもので、そのうち19種類が新装備となり、中国の国防現代化の新たな水準を表している。
今回の国慶節閲兵式は新中国成立以来最大規模で、装備が最も充実したものとなり、国内外から大きな反響を呼んだ。中国の国防力と人民解放軍の士気を十分に示し、国の威力、軍の威力を表すものとなった。(編集YH)
「人民網日本語版」2009年9月8日
80年代北京:トウ小平氏を間近に見た日
【コラム】 2008/02/22(金) 15:07
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=0222&f=column_0222_004.shtml
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遥かなり80年代の北京(17)-真鍋忠夫
1984年10月1日、建国35周年を華々しく祝う国慶節パレードが北京で盛大に行われた。私にとって、トウ小平を実物で見た最初で最後の日だった。
特別なご招待
その年のある日、取引先の中国技術進口総公司から「あなたは我が公司にこれまで多大な貢献をしてくれたので、国慶節のパレードを天安門の特別席に招待する」といわれ、名誉なことでもあり、家内と二人で見に行った。外国人では各国の大使級外交官をはじめ、各貿易公司から推薦された民間人やメデイア関係者などが招待された。中国人では、党や政府の幹部や優秀労働者、模範学生など、ごく一部の選ばれた人たちが招待されていた。
天安門広場を大勢の学生たちがそれぞれ白いシャツやブラウスを着て赤い小旗を振り、北京秋天の青空の下を埋め尽くしていた。これほど大勢の人を眼下に見たのは、もちろん生まれて初めてだった。しばらくすると軍事パレードが始まった。次から次に兵士たちが、戦闘機や戦車、最新鋭の武器とともに天安門前を規律正しく整然と行進していったのは壮観であった。
トウ小平登場
どのくらいパレードが続いたであろうか。かない長いパレードが途切れたところで、それまで天安門の一番高いところにいたトウ小平が突然オープンカーに乗って天安門前に現れたかと思うと、周囲の解放軍兵士たちに手を振って「トンチーメン、辛苦了!(同志の皆さん、ご苦労様!)」と呼びかけるのが聞こえた。その瞬間、周囲の兵士たちの間から「ウオーッ」と地鳴りのような歓声が沸き起こった。
オープンカー上のトウ小平はさらに兵士たちの間を巡回しながら、何度も何度も「トンチーメン、辛苦了!」と呼びかけた。最高指導者から直接声をかけられた兵士たちの間から、その度に歓喜の声が挙がったのはいうまでもない。私にとっては、かの最高実力者がいかに尊敬されているかを目の当たりにしたひとときだった。
――中国が長期にわたって停滞と立ち遅れの状況に置かれた原因は、閉鎖的であったことによる。対外的に開放し、外国の資金と技術を導入し、我々の発展を手伝ってもらう必要がある。
これはその年のトウ小平の発言のひとつだ。現在の中国の発展がこの言葉を証明しているのではないだろうか。この時期から中国は対外開放政策を一気に推進していくわけだが、89年に天安門事件が勃発、その後数年間は諸外国との交流が停滞を余儀なくされ、これを打開するためにトウ小平は92年に自ら武漢、深セン、珠海、上海等の南方を視察し、各地で改革・開放を加速させることを訴える「南巡講話」を発表した。これが90年代からの高度成長の始まりだった。現在の中国の経済発展は、まさにこの80年代からの動きがベースになっているのである。
その日の夜は、天安門広場のあちこちから一斉に花火が挙げられた。北京は祝賀ムード一色に染まった。私たちも同じアパートの仲間たちとバスを借り切って市内のレストラン「居」で食事をし、そのあと隣人の部屋でカラオケを楽しんだ。お祭り好きにかけては、我々日本人は中国の人たちに負けるわけにはいかないのである。余談だが、当時の中国の休日は、元旦1日、春節3日、労働節1日、国慶節1日の合計6日しかなく、土曜はもちろん出勤日だった。(執筆者:真鍋忠夫)
日本・中国青年交流84
copen.daa.jp/tabi.nikki/kenbunroku-003.html
朝からの建国35周年パレ-ドのあと、昼食を天安門広場の側の民族記念宮で食べたあと中南海へ向かいました。 .... この青年交流が中国の35周年の建国記念日『国慶節』の祝賀に企画されたため、参加者全員が北京で勢揃いするように日程の調整がなされ ...
http://copen.daa.jp/tabi.nikki/kenbunroku-003.html
中国政府派遣赴日学部留学生政策を通して - 留学政策 - 中国へ ...
www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view152966.html
2011/09/15 - 日本への学部留学生派遣は5年間で終了し、1980年~1984年の間に実施された派遣数は合計379人にのぼった。 こうした日本に向けた学部留学生派遣政策 ... 天安門広場に国慶節の大型立体花壇を設置開始. - 中国の派遣留学生政策.
http://www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view152966.html
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中国政府派遣赴日学部留学生政策を通して
2011/9/15 00:54 中国留学
中国政府は中華人民共和国の建国以来、人材「培養」制度を重視してきた。「培養」とは、国家建設にとって必要な人材を試験や推薦により選抜し、政府が小学校から大学卒業までの教育課程にかかる学費を全額負担して人材を養成することである。教育修了後には、国家が需要に応じて必要な「単位」[i]に「分配」[ii]してきたのである。
中国政府は、留学生派遣を人材「培養」政策の一部として位置づけ、中国国内で「培養」できない人材を育成する一環として重視してきたのである。建国直後から1980年代まで、留学先から留学先での専攻分野にいたるまで、政府が決定していたのである。
留学生の派遣先は、五十年間以上の留学生派遣政策史のなかで変化してきた。1966年に勃発したプロレタリア文化大革命(以下、文革)直前までは、ソ連と東欧諸国が派遣先の中心であった。派遣は文革のために中断したが、72年には再開された。再開後の主な派遣先はイギリスやフランスなど西側諸国であった。日本への留学生派遣も73年から開始され、大量の派遣政策がはじまったのは79年であった。
日本への派遣でとくに注目されるのは、一つに日本以外の西側諸国への派遣とは異なり、多数の学部留学生を派遣するなど、学部留学生に重点をおいた点である。他の西側諸国へ派遣は、ほとんどが「訪問学者」(客員研究員)や「研究生」(大学院生)であった。たとえば、1980年から81年までの2年の間に、中国政府が派遣した総数384人の学部留学生のなかで、日本への派遣が199人で、全体の51.8%にのぼった[1]。もう一つの特徴は、学部留学生派遣政策が83年には原則的に中止する急激な政策変更がおこなわれたにもかかわらず、日本にたいする派遣政策は派遣留学生数を段階的に減らすなど、緩やかな変更であった点である。たとえば、当初中国政府はドイツにたいして日本と同様に毎年100人前後を派遣していたが、派遣実施の4年目の83年に派遣を完全に中止した。しかし日本への派遣は、人数こそ減らされたものの、少なくとも84年まで延長実施されたのである。日本への学部留学生派遣は5年間で終了し、1980年~1984年の間に実施された派遣数は合計379人にのぼった。
こうした日本に向けた学部留学生派遣政策について、中国側の評価は必ずしも肯定的ではなかった。理由の一つは、派遣後に学士や修士あるいは博士号を取得した後に帰国した学生が派遣した総数の半分にも及ばなかったことである。一部には明確に「失敗であった」という声もあがった。しかし、この政策は本当に失敗したといえるのだろうか。留学政策の評価は単なる帰国率で判断できるのだろうか。本研究は、派遣して20年間を経て、留学生らにたいして実施した実態調査の成果を踏まえて、日本に送られた学部留学生派遣政策を評価することを目的とする。
なお、本研究の意義は対日学部留学生派遣政策の評価をすることだけにあるわけではない。1972年の国交正常化後、日中関係は経済摩擦、歴史問題や台湾問題など様々な問題を抱えながらも、相対的には発展してきたといってよい。しかし、国民レベルの相互不信が深まり、とくに90年代以降にそれが顕著になったことも確かである。2003年のチチハルの毒ガス事件、珠海の集団買収事件、西安の西北大学の日本人留学生の寸劇に対する大規模なデモなどの事件がまさに相互認識の悪化を代表している[2]。相互不信感の解消あるいは縮小には、相互理解の促進が重要である。相互理解への一つの前提が、両国間の人的交流の増進である。
人的交流には政府間と民間とに大別される。政府間交流はもちろん重要であるが、両国政府も重視してきたように民間交流、とくに留学生の交流が重要である。留学生の派遣と受入れが活発化したきっかけは、1978年8月に締結された平和友好条約と79年12月に調印された「文化交流促進にかんする政府間協定」であった79年には、中国政府による日本派遣の留学生数は前年の1人から151人に急増した。とくに80年代以後、中国政府の出国留学制度の改革と日本の10万人留学生計画の実施によって、日本への中国人留学生が急増した。2003年5月1日時点で、日本に在籍している10万9508人の外国人留学生のうち、中国国籍が7万814人で、70%近くを占めているのである[3]。とくに、近年急増している中国人留学生は高校卒業してすぐ来日する学部からの留学が多く、本研究の研究対象と近い年齢層である。本研究の研究対象は日本の留学生活を体験して、20年間の間に変化されている対中対日認識を研究することによって、日中関係における相互認識の問題点を解決する糸口を探ることができるだろう。本研究はこうした日中関係を視野に入れながら、中国の対日学部留学生派遣政策の研究を進めたい。
本稿は中国政府の派遣留学生政策を研究する上で、1980年に日本に派遣した97名の第一期学部留学生に対して追跡調査を行い、中国政府は当初決定した彼らの留学先での専攻を分析し、政府の派遣意図を確認した。
本稿では、筆者は一年の調査を経て、第一期の97名の留学生の中に67名の現住所及び勤務先などの情報を把握することができた。その中の35名の学生と面会し、更に28名の学生対してインタビュー調査を実施した。本稿はこれらの調査の結果について分析し、政府派遣の目的に対して達成の状況を確認した。また、帰国しない或いは帰国してもう一度海外に出た留学生の帰国できない原因及びもう一度出国した原因を探った。
http://www.studyinchina.jp/Policy/2011-9/view142950.html
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中国の派遣留学生政策
2011/9/14 01:54 中国留学
中国政府の日本へ学部留学生派遣の目的:自動車技術造船工学などの工学を中心とした先進技術取得である。また派遣先の国民と交流し、社会状況を精通する知日派を育てるのも目的の一つである。
勉強の成果、帰国率から見れば、派遣した学生はとても優秀で、決められた勉強を完成するほかに、自力でも勉強し続け、勉強の成果を大きく上げた。帰国率は他の種類の留学生の帰国率より高いことが分かった。仕事は両国との関係から見ても留学という行為は単なる技術取得ではなく、両国を精通する人材を育て、両国の交流に貢献したに違いない。
学部留学生派遣政策の問題として帰国後の再出国の問題が残されている。しかし、海外にいても国に貢献しようという意欲があることが確認でき、帰国できない原因として子供の教育問題や仕事の条件などの具体的問題を挙げられた。より多くの留学生を帰国してもらうために、これらの具体的な問題を対処できる政策作りが必要である