忠恕は自分の良心に忠実であることと、他人に対する思いやりが深いこと、辞書にある。
2001年から10数年の歳月が流れて、中国の盧溝橋、抗日戦争記念館にて、この文字を揮毫した、かつての宰相の軌跡は残されていないそうだ。
その写真を見ると、そばには現首相の姿が写っている。
清の乾隆帝がこの地の風景を愛で、盧溝暁月と記した碑を、わたしが訪ね見たのは、1994年だったから、もう20年も前になる。
欄干の石像、銃痕が思い出される。
マルコポーロブリッジとも呼ばれたその見事な石橋に行きつ戻りつしていた。
昭和12年7月7日、日本軍の兵営付近で一発の銃声が響き、それを機に日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事件を思った。
1937年から77年のときが流れて、日中戦争の全面展開を記す。
訪ねたときは、いまのような抗日戦争記念館はなかった。
いま、かつてのそこで刻まれるのは戦争への憎しみだけである。
小泉内閣メールマガジン 第17号 =========================== 2001/10/11
> 小泉純一郎です。
8日、中国を訪問した。わずか6時間の滞在ではあったが、江沢民国家主
席、朱鎔基首相と会談を行い、以前から行こうと思っていた盧溝橋も訪問し
た。
来年、国交正常化30周年を迎える日中関係は、最も重要な二国間関係の
ひとつ。中国首脳との初の日中首脳会談は、実におおらかで、穏やかな中に
未来志向を目指すものであった。
テロ対策や歴史的な問題まで、幅広く率直に話し合うことができた。
首脳会談に先立ち、私は、盧溝橋の記念館で「忠恕(ちゅうじょ)」と揮
毫(きごう)した。「忠恕」とは、論語の言葉。弟子の曾子(そうし)が、
「先生(孔子)は、終始一貫して変わらぬ道を歩いてきた。その道とは忠恕
である」と語る一節がある。「忠」とはまごころ、「恕」とは思いやり。
「まごころ」と「思いやり」のこころで、日中友好発展に全力を尽くして
いきたい。
中国から帰国直後に緊急テロ対策本部を開催した。米国などの行動を支持
するとともに、緊急対応措置を決定。テロの根絶と防止に向けて国際社会と
協力し、全力で取り組んでいく。
※ 「忠恕」と揮毫する小泉総理の写真
http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2001/1011p.html
子曰わく、参や、吾が道は一以って之を貫く。 曽子曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。 曽子曰わく、夫子の道は忠恕のみ。
>忠恕とは、孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳。「忠」は人間が自然に持っている真心。「恕」は人間が自然に持っている思いやりの心忠恕をひとつの漢字「仁」で表す。
>三世紀の王弼は「忠は、情の尽なり。恕は情に反(かえ)りて以って物を同じうするものなり」と注釈し、「忠」は自分の気持ち(情)を尽くすことであり、「恕」は自分の気持ちを振り返り、他者―ここでいう「物」とは主として自分以外の他者を指す―の気持ちを自分の気持ちと同一視すること、と説明しています。
>十二世紀に朱子(朱熹)が著わした『論語集注』では「己を尽くすをこれ忠と謂(い)い、己を推すをこれ恕と謂う」とあります。また『中庸』の注釈書でも「己の心を尽くすを忠となす。己を推して人に及ぶを恕となす」と解説しています。
連載:風
(風 北京から)盧溝橋の抗日記念館 「忠恕」の気持ちはどこに 古谷浩一
2014年7月27日05時00分
>
北京の夏の日差しは、目がくらむほどに強い。
北京郊外の盧溝橋にある抗日戦争記念館。ここに、小泉純一郎首相が訪れたのは、2001年10月のことだ。
小泉氏は日中戦争の被害者に対し、日本の首相として初めて「心からのおわび」という言葉に踏み込み、当時の江沢民国家主席ら中国指導部を喜ばせた。この年の8月に小泉氏が靖国神社に参拝したことに対し、中国は強く反発していた。
このとき、記念館のホールで、小泉氏は筆を持ち、一気に「忠恕(ちゅうじょ)」と書いた。
「まごころと思いやり」を意味する論語の言葉である。その場にいた私を含めた両国の記者はすぐに意味が分からず、首をかしげてしまったが、隣にいた中国人記者が一呼吸置いて、つぶやいていたのを思い出す。「日本は誠意を、中国は寛容を、という意味かしら」と。
小泉氏の真意がどこにあったのかは分からない。結局、小泉氏は翌年春に再び靖国神社に参拝し、日中関係はさらに悪化した。後に中国政府関係者から聞いたところでは、江氏はメンツをつぶされたと激怒したという。
ただ、私の頭には、この「忠恕」という言葉がもやっと残った。悲惨な歴史を経た隣人同士が仲良くしていこうとするときの基本的な態度を示す言葉として……。
あれから13年。この記念館で7月7日、日中の全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件の77周年式典が開かれ、習近平(シーチンピン)国家主席が出席した。
最高指導者の参加は初めてである。習氏は全国にテレビ中継された演説のなかで、「日寇侵略」への「全民族抗戦」といった厳しい言葉を使い、安倍政権の歴史認識も暗に批判した。
中国当局が来年の戦後70周年に向け、対日歴史批判のプロパガンダを強めているのは明らかである。
今年から9月3日を「抗日戦争勝利記念日」、12月13日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」という国家レベルの記念日にすることも、決まっている。どちらも日本を批判する大々的な式典が行われるとみられる。
式典だけではない。中国中央テレビのニュースチャンネルでは、まるで日本専門のように連日、日本の侵略の歴史を伝える報道が続く。
残念なことに、安倍晋三首相の靖国参拝や、侵略を否定するかのような発言が、「日本は侵略の歴史を美化しようとしている」との中国当局の宣伝に一定の説得力を与えていることも事実である。
記念館に来た若者たちに意見を聞いた。
「日本人が戦争で行った行為は本当に残酷だ。彼らが歴史を直視しないならば、それは間違っている」。重慶から来た高校1年、高イク瑞さん(16)は言った。
北京の高校1年、孫行之くん(15)は「中国は国力が弱かったから、侵略された。抗日戦争の宣伝はまだまだ不足していると思う」。
若いときに「日本は悪」といったイメージが植えつけられれば、それは簡単にはぬぐえまい。彼らの今後の対日観を思うと、暗い気持ちにならざるをえない。
記念館で小泉氏が訪れたことに触れる展示を探したが、見つからなかった。歴史をめぐる「思いやり」の言葉はいま、日中のどちらの政府からも聞こえてこない。
(中国総局長)
中国・習主席、盧溝橋事件式典に出席 強める対日圧力
2014年7月7日12時57分
>
日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件から77年を迎えた7日、北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館で開かれた式典で習近平(シーチンピン)国家主席が演説した。最高指導者の参加は極めて異例。歴史問題を巡り、安倍晋三政権に対する圧力を本格的に高めていく姿勢だ。
習氏は演説で「日本の侵略者の野蛮な侵略に対し、全国の人々が命を省みず、偉大な闘争に身を投じた。今も少数の者が歴史の事実を無視しようとしているが、歴史をねじ曲げようとする者を中国と各国の人民は決して認めない」などと強調。中国の抗日戦争を「世界反ファシズム戦争の東の主戦場」と位置づけた。
中国の最高指導者が50周年などの節目の年の終戦記念日前後に同記念館を訪れた例はあるが、7月7日に同記念館を訪れるのは初めて。昨年末の安倍首相による靖国神社参拝を受け、習指導部は旧日本軍による侵略の歴史を改めて内外に強調し、日本側に圧力をかけていく狙いとみられる。
一方、李克強(リーコーチアン)首相は6日、訪中したドイツのメルケル首相と会談。「歴史を鏡とすることは未来に目を向け、平和を重んじる助けになる。中国はドイツを含む各国と、平和な世界をつくる努力をしたい」と発言。名指しは避けつつも、日本を牽制(けんせい)した。メルケル首相は7日夕、習主席とも会談する予定。
メディアなども対日歴史キャンペーンを強めている。党機関紙の人民日報は7日、1面に「歴史の悲劇を繰り返させない」との社説を掲載し「日本軍国主義復活の危険がある」などと批判した。歴史資料を保管する中央檔案(とうあん)館も戦後、中国で軍事裁判にかけられた旧日本軍人45人の供述書などをサイトで連日公開し、国営メディアが大々的に報道している。
習指導部は来年の終戦70周年を「反ファシズム戦争勝利70周年」と位置づけ、国内外で世論戦を展開していく構え。今月25日を日清戦争の開戦120年の節目とし、対日圧力をさらに強めていく姿勢だ。(北京=林望)
(風 北京から)天安門事件25年 遠い再評価、強まる抑圧 古谷浩一
2014年5月18日05時00分
「この歴史的な動きを自分の手で記録したいんだ」
1989年6月3日深夜、北京の高校2年生、王楠さん(当時19歳)はそう言って、自転車で自宅を出たまま、二度と帰ってこなかった。
新聞記者志望だったという王さんが、小さなカメラを首にかけて向かった先は、学生らが民主化を求めて座り込みを続けていた天安門広場。母親の張先玲さん(76)が後に集めた目撃証言によると、王さんは4日未明、広場近くで制圧部隊の銃弾を頭に受け、死亡した。
あの夜、いったいどれだけの若者の血が無残にも流れたのか。天安門事件の真相は今も、明らかになっていない。
「息子は何の間違いも犯していない。国を思って集まった学生らを戦車でつぶすことのどこが正しいのか。(当局は)罪を認めるべきだ」
赤いマフラーを巻いた張さんは北京の自宅近くで、静かに、でも、強い口調で私に言った。
今年の6月4日で事件から25年が経つが、共産党は学生らの訴えは「動乱」だったとの立場を変えないままだ。軍による学生らへの武力行使は正当化され続けている。
ある中国政府当局者は言う。「若者は関心ありませんよ。事件のことも知らない。あなたたち外国メディアだけだ。繰り返し言うのは」
確かに、若者が事件を知らないのはその通り。でも、知りたくても、知るすべがないという方が正しい。
中国のネットで、事件に関する言葉は検索できない。メディアも一切触れない。関係書籍は出版できず、税関で没収される。党は事件を歴史から抹消しようとしている。
しかし、私はこの国に住み、感じている。少なくない人々が、公に口にはしないものの、あの事件を忘れていないことを。党が学生らに発砲した事実を決して許していないことを。
ある女性医師は、私と雑談している時に、急に真剣な表情になって言った。「あの夜、血を流した多くの人が病院に運ばれて来たのを確かに見ました。でも、政府はそのことを認めない。ウソをついているんです」
張さんら遺族は、習近平(シーチンピン)国家主席こそ、事件の再評価に動くのではと期待する。遺族組織「天安門の母」は3月、全国人民代表大会に対する公開文書で、こう訴えた。
「あなた方が事件について何も言わないことで、執政党としての道義と良心は失われました。経済発展は世界第2といいます。でも、あなたはひきょうで愚かです」
習指導部はこうした声にどう答えていくのか。
今のところ、目立つのは、事件の再評価に向けた動きよりも、むしろ、言論抑圧の動きである。当局は今月初め、著名な人権派弁護士、浦志強氏らを次々と拘束した。
党に批判的な言論で知られる70歳の女性記者、高瑜氏も逮捕された。習指導部の言論統制方針を定めた「9号文件」と呼ばれる文書を、海外メディアに流出させたとの容疑。この文書には、多党制、普通選挙、司法の独立とともに、天安門事件の再評価を求める動きに対し、「決して警戒を緩めてはならない」と書かれている。
事件で息子を失った母親の悲痛な思いはいつか、癒やされるのか。展望はまだ、見えないけれど、その日が来ることを信じたい。
(中国総局長)
2001年から10数年の歳月が流れて、中国の盧溝橋、抗日戦争記念館にて、この文字を揮毫した、かつての宰相の軌跡は残されていないそうだ。
その写真を見ると、そばには現首相の姿が写っている。
清の乾隆帝がこの地の風景を愛で、盧溝暁月と記した碑を、わたしが訪ね見たのは、1994年だったから、もう20年も前になる。
欄干の石像、銃痕が思い出される。
マルコポーロブリッジとも呼ばれたその見事な石橋に行きつ戻りつしていた。
昭和12年7月7日、日本軍の兵営付近で一発の銃声が響き、それを機に日本軍と中国軍が衝突した盧溝橋事件を思った。
1937年から77年のときが流れて、日中戦争の全面展開を記す。
訪ねたときは、いまのような抗日戦争記念館はなかった。
いま、かつてのそこで刻まれるのは戦争への憎しみだけである。
小泉内閣メールマガジン 第17号 =========================== 2001/10/11
> 小泉純一郎です。
8日、中国を訪問した。わずか6時間の滞在ではあったが、江沢民国家主
席、朱鎔基首相と会談を行い、以前から行こうと思っていた盧溝橋も訪問し
た。
来年、国交正常化30周年を迎える日中関係は、最も重要な二国間関係の
ひとつ。中国首脳との初の日中首脳会談は、実におおらかで、穏やかな中に
未来志向を目指すものであった。
テロ対策や歴史的な問題まで、幅広く率直に話し合うことができた。
首脳会談に先立ち、私は、盧溝橋の記念館で「忠恕(ちゅうじょ)」と揮
毫(きごう)した。「忠恕」とは、論語の言葉。弟子の曾子(そうし)が、
「先生(孔子)は、終始一貫して変わらぬ道を歩いてきた。その道とは忠恕
である」と語る一節がある。「忠」とはまごころ、「恕」とは思いやり。
「まごころ」と「思いやり」のこころで、日中友好発展に全力を尽くして
いきたい。
中国から帰国直後に緊急テロ対策本部を開催した。米国などの行動を支持
するとともに、緊急対応措置を決定。テロの根絶と防止に向けて国際社会と
協力し、全力で取り組んでいく。
※ 「忠恕」と揮毫する小泉総理の写真
http://www.kantei.go.jp/jp/m-magazine/backnumber/2001/1011p.html
子曰わく、参や、吾が道は一以って之を貫く。 曽子曰わく、唯。子出ず。門人問うて曰わく、何の謂いぞや。 曽子曰わく、夫子の道は忠恕のみ。
>忠恕とは、孔子の唱えた人間の最も本能的で基本的な徳。「忠」は人間が自然に持っている真心。「恕」は人間が自然に持っている思いやりの心忠恕をひとつの漢字「仁」で表す。
>三世紀の王弼は「忠は、情の尽なり。恕は情に反(かえ)りて以って物を同じうするものなり」と注釈し、「忠」は自分の気持ち(情)を尽くすことであり、「恕」は自分の気持ちを振り返り、他者―ここでいう「物」とは主として自分以外の他者を指す―の気持ちを自分の気持ちと同一視すること、と説明しています。
>十二世紀に朱子(朱熹)が著わした『論語集注』では「己を尽くすをこれ忠と謂(い)い、己を推すをこれ恕と謂う」とあります。また『中庸』の注釈書でも「己の心を尽くすを忠となす。己を推して人に及ぶを恕となす」と解説しています。
連載:風
(風 北京から)盧溝橋の抗日記念館 「忠恕」の気持ちはどこに 古谷浩一
2014年7月27日05時00分
>
北京の夏の日差しは、目がくらむほどに強い。
北京郊外の盧溝橋にある抗日戦争記念館。ここに、小泉純一郎首相が訪れたのは、2001年10月のことだ。
小泉氏は日中戦争の被害者に対し、日本の首相として初めて「心からのおわび」という言葉に踏み込み、当時の江沢民国家主席ら中国指導部を喜ばせた。この年の8月に小泉氏が靖国神社に参拝したことに対し、中国は強く反発していた。
このとき、記念館のホールで、小泉氏は筆を持ち、一気に「忠恕(ちゅうじょ)」と書いた。
「まごころと思いやり」を意味する論語の言葉である。その場にいた私を含めた両国の記者はすぐに意味が分からず、首をかしげてしまったが、隣にいた中国人記者が一呼吸置いて、つぶやいていたのを思い出す。「日本は誠意を、中国は寛容を、という意味かしら」と。
小泉氏の真意がどこにあったのかは分からない。結局、小泉氏は翌年春に再び靖国神社に参拝し、日中関係はさらに悪化した。後に中国政府関係者から聞いたところでは、江氏はメンツをつぶされたと激怒したという。
ただ、私の頭には、この「忠恕」という言葉がもやっと残った。悲惨な歴史を経た隣人同士が仲良くしていこうとするときの基本的な態度を示す言葉として……。
あれから13年。この記念館で7月7日、日中の全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件の77周年式典が開かれ、習近平(シーチンピン)国家主席が出席した。
最高指導者の参加は初めてである。習氏は全国にテレビ中継された演説のなかで、「日寇侵略」への「全民族抗戦」といった厳しい言葉を使い、安倍政権の歴史認識も暗に批判した。
中国当局が来年の戦後70周年に向け、対日歴史批判のプロパガンダを強めているのは明らかである。
今年から9月3日を「抗日戦争勝利記念日」、12月13日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」という国家レベルの記念日にすることも、決まっている。どちらも日本を批判する大々的な式典が行われるとみられる。
式典だけではない。中国中央テレビのニュースチャンネルでは、まるで日本専門のように連日、日本の侵略の歴史を伝える報道が続く。
残念なことに、安倍晋三首相の靖国参拝や、侵略を否定するかのような発言が、「日本は侵略の歴史を美化しようとしている」との中国当局の宣伝に一定の説得力を与えていることも事実である。
記念館に来た若者たちに意見を聞いた。
「日本人が戦争で行った行為は本当に残酷だ。彼らが歴史を直視しないならば、それは間違っている」。重慶から来た高校1年、高イク瑞さん(16)は言った。
北京の高校1年、孫行之くん(15)は「中国は国力が弱かったから、侵略された。抗日戦争の宣伝はまだまだ不足していると思う」。
若いときに「日本は悪」といったイメージが植えつけられれば、それは簡単にはぬぐえまい。彼らの今後の対日観を思うと、暗い気持ちにならざるをえない。
記念館で小泉氏が訪れたことに触れる展示を探したが、見つからなかった。歴史をめぐる「思いやり」の言葉はいま、日中のどちらの政府からも聞こえてこない。
(中国総局長)
中国・習主席、盧溝橋事件式典に出席 強める対日圧力
2014年7月7日12時57分
>
日中全面戦争のきっかけとなった盧溝橋事件から77年を迎えた7日、北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争記念館で開かれた式典で習近平(シーチンピン)国家主席が演説した。最高指導者の参加は極めて異例。歴史問題を巡り、安倍晋三政権に対する圧力を本格的に高めていく姿勢だ。
習氏は演説で「日本の侵略者の野蛮な侵略に対し、全国の人々が命を省みず、偉大な闘争に身を投じた。今も少数の者が歴史の事実を無視しようとしているが、歴史をねじ曲げようとする者を中国と各国の人民は決して認めない」などと強調。中国の抗日戦争を「世界反ファシズム戦争の東の主戦場」と位置づけた。
中国の最高指導者が50周年などの節目の年の終戦記念日前後に同記念館を訪れた例はあるが、7月7日に同記念館を訪れるのは初めて。昨年末の安倍首相による靖国神社参拝を受け、習指導部は旧日本軍による侵略の歴史を改めて内外に強調し、日本側に圧力をかけていく狙いとみられる。
一方、李克強(リーコーチアン)首相は6日、訪中したドイツのメルケル首相と会談。「歴史を鏡とすることは未来に目を向け、平和を重んじる助けになる。中国はドイツを含む各国と、平和な世界をつくる努力をしたい」と発言。名指しは避けつつも、日本を牽制(けんせい)した。メルケル首相は7日夕、習主席とも会談する予定。
メディアなども対日歴史キャンペーンを強めている。党機関紙の人民日報は7日、1面に「歴史の悲劇を繰り返させない」との社説を掲載し「日本軍国主義復活の危険がある」などと批判した。歴史資料を保管する中央檔案(とうあん)館も戦後、中国で軍事裁判にかけられた旧日本軍人45人の供述書などをサイトで連日公開し、国営メディアが大々的に報道している。
習指導部は来年の終戦70周年を「反ファシズム戦争勝利70周年」と位置づけ、国内外で世論戦を展開していく構え。今月25日を日清戦争の開戦120年の節目とし、対日圧力をさらに強めていく姿勢だ。(北京=林望)
(風 北京から)天安門事件25年 遠い再評価、強まる抑圧 古谷浩一
2014年5月18日05時00分
「この歴史的な動きを自分の手で記録したいんだ」
1989年6月3日深夜、北京の高校2年生、王楠さん(当時19歳)はそう言って、自転車で自宅を出たまま、二度と帰ってこなかった。
新聞記者志望だったという王さんが、小さなカメラを首にかけて向かった先は、学生らが民主化を求めて座り込みを続けていた天安門広場。母親の張先玲さん(76)が後に集めた目撃証言によると、王さんは4日未明、広場近くで制圧部隊の銃弾を頭に受け、死亡した。
あの夜、いったいどれだけの若者の血が無残にも流れたのか。天安門事件の真相は今も、明らかになっていない。
「息子は何の間違いも犯していない。国を思って集まった学生らを戦車でつぶすことのどこが正しいのか。(当局は)罪を認めるべきだ」
赤いマフラーを巻いた張さんは北京の自宅近くで、静かに、でも、強い口調で私に言った。
今年の6月4日で事件から25年が経つが、共産党は学生らの訴えは「動乱」だったとの立場を変えないままだ。軍による学生らへの武力行使は正当化され続けている。
ある中国政府当局者は言う。「若者は関心ありませんよ。事件のことも知らない。あなたたち外国メディアだけだ。繰り返し言うのは」
確かに、若者が事件を知らないのはその通り。でも、知りたくても、知るすべがないという方が正しい。
中国のネットで、事件に関する言葉は検索できない。メディアも一切触れない。関係書籍は出版できず、税関で没収される。党は事件を歴史から抹消しようとしている。
しかし、私はこの国に住み、感じている。少なくない人々が、公に口にはしないものの、あの事件を忘れていないことを。党が学生らに発砲した事実を決して許していないことを。
ある女性医師は、私と雑談している時に、急に真剣な表情になって言った。「あの夜、血を流した多くの人が病院に運ばれて来たのを確かに見ました。でも、政府はそのことを認めない。ウソをついているんです」
張さんら遺族は、習近平(シーチンピン)国家主席こそ、事件の再評価に動くのではと期待する。遺族組織「天安門の母」は3月、全国人民代表大会に対する公開文書で、こう訴えた。
「あなた方が事件について何も言わないことで、執政党としての道義と良心は失われました。経済発展は世界第2といいます。でも、あなたはひきょうで愚かです」
習指導部はこうした声にどう答えていくのか。
今のところ、目立つのは、事件の再評価に向けた動きよりも、むしろ、言論抑圧の動きである。当局は今月初め、著名な人権派弁護士、浦志強氏らを次々と拘束した。
党に批判的な言論で知られる70歳の女性記者、高瑜氏も逮捕された。習指導部の言論統制方針を定めた「9号文件」と呼ばれる文書を、海外メディアに流出させたとの容疑。この文書には、多党制、普通選挙、司法の独立とともに、天安門事件の再評価を求める動きに対し、「決して警戒を緩めてはならない」と書かれている。
事件で息子を失った母親の悲痛な思いはいつか、癒やされるのか。展望はまだ、見えないけれど、その日が来ることを信じたい。
(中国総局長)