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万葉語り17

2014-02-19 | 万葉語り
万葉集の歌人には詞華集にふさわしく幅広い。

古代の詩集には、よくあるように、豪族貴族の詩人が名を連ねる。

万葉集には王族が主たる歌人としている様相が見える。

それは雑歌などの儀礼歌に相当するのであるが、部類立てがある歌にもみられるところである。

そこには、御言持ち歌人としての巫女と推測される額田王、さらには柿本人麻呂のように専従する歌人に加えて、王族たちと歌人は次に及ぶ。

歌人層として、ウイキペディアは、   

>歌の作者層を見てみると、皇族や貴族から中・下級官人などに波及していき、作者不明の歌は畿内の下級官人や庶民の歌と見られ、また東歌や防人歌などに見られるように庶民にまで広がっていったことが分かる。さらに、地域的には、宮廷周辺から京や畿内、東国というふうに範囲が時代と共に拡大されていったと考えられる。   

と見える。


万葉歌人の一覧によると、次のようである。

万葉歌人の一覧 - 固有名詞の種類 - Weblio 辞書 人名によるリンクがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/11/27 03:42 UTC 版)
   三省堂 大辞林


倭姫王 やまとひめのおおきみ、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の娘。母は未詳。天智天皇の皇后。子女は無し。生没年不詳。

高市黒人 持統・文武天皇期の宮廷歌人。旅に取材した歌一八首が万葉集に残る。平明で印象的な叙景歌は、自然歌人山部赤人の先駆をなすものといわれる。生没年未詳。

笠郎女 かさのいらつめ 奈良時代中期の歌人。生没年未詳。一説には笠金村の娘。大伴家持とかかわりのあった十余人の女性のひとりで、同時代では大伴坂上郎女とならび称される女性歌人。
   『万葉集』巻三、巻四、巻八に計29首の歌が収載されている。内訳は、譬喩歌3首、相聞歌24首、春および秋の相聞各1首。いずれも家持に贈った歌である。

天智天皇 てんじてんのう てんぢてんわう 626-671 「日本書紀」で第三八代天皇の漢風諡号(しごう) 在位 668-671。名は葛城(かづらきの)皇子。一名開別(ひらかすわけの)皇子とも。中大兄(なかのおおえの)皇子は他の「大兄」と区別するための呼び名。和風諡号は天命開別(あめみことひらかすわけ)。舒明天皇第二皇子。645年(大化1)中臣鎌足と図って蘇我(そが)氏を滅ぼし、皇太子として改新政治を主導。即位後、都を大津に移し、近江令を制定。また庚午年籍(こうごねんじやく)を作り、律令体制の基礎を築いた。万葉集に歌を収める。

草壁皇子 くさかべのおうじ ―わうじ  662-689  天武天皇の皇子。母はのちの持統天皇。文武天皇・元正天皇の父。壬申(じんしん)の乱で父に従い、皇太子となったが早世。

田辺福麻呂
車持千年
紀皇女
橘諸兄
水主皇女

持統天皇
藤原麻呂
雄略天皇
久米広縄
山上憶良

弓削皇子
巨勢奈弖麻呂
石川内命婦
大神女郎
山部赤人

高橋虫麻呂
宇遅部黒女
占部小龍
厚見王
八代女王

舎人親王
粟田女王
藤原真楯
藤原鎌足
志貴皇子

背奈行文
賀茂女王
但馬皇女
県犬養三千代
長皇子

丸子大歳
土師道良
有間皇子
御名部皇女
山前王

大伴家持
円方女王
玉作部広目
丈部真麻呂
安宿王

田口益人
藤原訓儒麻呂
大津皇子
額田王
高宮王

坂門人足
大伴坂上郎女
石上乙麻呂
藤原房前
石川年足

三原王
舎人吉年
笠金村
商長麻呂
大伴旅人

津守小黒栖
大伴宿奈麻呂
小鯛王
鏡王女
柿本人麻呂

馬国人
丈部黒当
大原大刀自
天武天皇
舎人娘子

大来皇女
穂積親王
舒明天皇じょめいてんのう ―てんわう (593-641) 日本書紀で第三四代天皇(在位 629-641)の漢風諡号(しごう)。名は田村皇子。和風諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)。押坂彦人大兄皇子の子。蘇我氏によって擁立、在位中同氏の勢力が増大した。


次は、歴代天皇事典より。

舒明天皇は名を田村皇子といい、父は敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子。
母は糠手姫皇女(田村皇女ともいう)。
推古天皇の崩御後、皇嗣を定めていなかったことから皇位をめぐり争いが起きた。
大臣の蘇我蝦夷は田村皇子を推し、一方、聖徳太子の子の山背大兄王も皇位を望み許勢臣大麻呂らに推挙された。
結果は蘇我蝦夷が山背大兄王方の一人で蝦夷の叔父である境部摩理勢を殺害することによって決着がついた。
田村皇子は即位して舒明天皇となり、飛鳥岡本に宮を移した(630年)。
舒明は姪にあたる宝皇女(後の皇極天皇・斉明天皇)を皇后として、葛城皇子(後の天智天皇)、間人皇女(孝徳天皇皇后)、大海人皇子(後の天武天皇)をもうけ、さらに蘇我馬子の娘法提郎媛との間に古人大兄皇子をもうけた。
舒明の時代の事績としては630年の第一回遣唐使の派遣があげられる。
舒明が没する前年640年に聖徳太子によって遣隋使として派遣されていた南淵請安、高向玄理が唐(隋から唐に変わった)から帰国する。
30年余学んだ大陸の文化等を日本国に伝えた。


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