鬼の話となると中国とでは大違いのおとぎ話の鬼であるが戦前の日本を東洋鬼と呼ぶのはいまでもかわらないところがあって妖鬼ならぬ洋鬼であった。東洋の鬼ではない、と思わせる話である。日本人を指す蔑称には日本鬼子と、これも東の洋鬼と同じ意味合いである。
さてしかし、同じ鬼っ子でもguǐziとはどんなものか。日本では、きしもじん、きしぼじん 鬼子母神なるサンスクリット語でハーリーティー Hārītīといわれる鬼女のこと、訶利帝母 かりていも の訳で、歓喜母,愛子母ともいうとなると、その訳語からなのか、ほかの子を、それで鬼子を食ったのだから、これまたすごい母神となる。仏教に帰依し,その守護神となると、日本での言葉の意味内容には仏教とともにあるか。
ウイキペディアには、
>「洋鬼子」や「西洋鬼子」といえば西洋人を指すが、「仮鬼子」は魯迅の短編小説『阿Q正伝』の中で使われた言葉である。最初は外国人を装う中国人を形容したものだったが、途中から外国人に媚びる中国人を形容する言葉となった。
というふうに、現代用法の説明があるものの、もとは妖怪か奇異譚にあって、
>「鬼子」とは、もともと『聊斎志異』の画皮で記されている道士の魔物に対して使う蔑称であった。端的には魔物(悪魔)の意味であるが、現代日本語の語感とはやや異なり、邪悪なものは忌むべきものであるという思想があることから、中国では『鬼』が嫌悪される存在である。当初は中国大陸を侵略する西洋人に対して「鬼子」を用いていた。
と見える。
この語の用法には見た目の違いが大きいし、そもそもの幽霊、魂魄などの意識は現代では思い浮かべない。そこでもっとも狭義の、これでしかイメージがわかない戦争における兵士のことととなると、鬼子来了、その映画をDVDにて観たりする
https://www.allcinema.net/cinema/237263
鬼が来た! 2000
DEVILS ON THE DOORSTEP
鬼子來了
>
第2次世界大戦末期の中国のとある小村を舞台に、ひょんなことから日本兵を匿うことになってしまった村人の困惑と、日本兵との奇妙な交流を、ときにユーモラスに、そして衝撃的に描いた問題作。監督は俳優としても活躍する一方、監督第1作目の「太陽の少年」で文革時代の少年たちの青春を瑞々しく描き世界的に高い評価を受けたチアン・ウェン。村人に囚われる日本兵役には「静かなるドン」「独立少年合唱団」の香川照之。2000年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。
第2次世界大戦の終結が迫りつつあった1945年の旧正月直前。中国・華北の寒村、掛甲台(コアチアタイ)村。深夜、青年マー・ターサンのもとに“私”と名乗る男が現れ、拳銃を突き付け2つの麻袋をマーに押しつける。中にはそれぞれ、日本兵と通訳の中国人が入れられていた。“私”はそれを晦日まで預かるよう脅して去っていった。マーは慌てて村の長老たちに相談する。もし日本軍に見つかれば村人の命はない。結局約束の日まで2人を匿うことになる。最初、日本兵の花屋は、囚われの身で生きるのは日本軍人の恥、早く殺せとわめくのだったが……。
>この「鬼子」という言葉は、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を受けて、中華人民共和国で発生した抗議デモにおいて「日本鬼子」のような形で頻繁に用いられ、多くの日本人が字句を目にした。
中国において「鬼」は幽霊など忌み嫌われ恐れられる存在であるが、日本人にとって「悪鬼」や「鬼畜」といった一種の強調を伴わない、日本語の「鬼」は、必ずしも否定的な意味でのみ用いられる字句ではない(例として「鬼に金棒」や「仕事の鬼」など)。
そのため、字面を読めはするものの、中国人の「鬼子」の語に込められた侮蔑の意図・感情は、日本人には直接伝わっておらず、実感されていないのが実情である。
上述のような経緯を背景に、インターネット上で、「鬼子」を日本人女性の名前とあえて曲解した上で、萌えキャラとして扱うという動きが広まり、「日本鬼子(ひのもと おにこ)」というキャラクターが作られた。その容姿は二本角、黒髪長髪、紅葉柄の着物、薙刀を携える姿で描かれることが多い。
注 東洋鬼の方がやや古い言い回しである。しばしば誤解されるが、東洋の鬼の意味ではなく、東の「洋鬼」の意味である。
ただし、大和言葉の「鬼子(おにご)」は、意味合いは異なるものの、否定的な意味を有する語である。
「鬼(グァイ)」というのは大陸では「幽霊」「亡霊」の意味であり、日本では「鬼(おに。「陰(おん)」の転だという説があります)」だと言われているようです。「堤中納言物語」の「虫愛づる姫君」で、「鬼と女とは」云々の話もありましたし。
現代のネット社会でも、「神」と「鬼」は対極にあるものとして使い分けられているようで、「神」は「機能の違い」で「鬼」は「性能の違い」のようです。「神強い」とは言いませんが、「鬼強い」は一般的です。
漢語の「鬼」と、和語の「おに」の間には、なにかしらの距離があるように考えています。
マンボウの仔魚はハリセンボンのような姿をしているので、木村重さんが『魚紳士録』のなかで「鬼っ子」と評していました。
「自分の子供とは思いづらい」と思っていたら、成長してみたら親にそっくり(まぁ、自分の幼児期は憶えていませんので)だったというのは「育児あるある」ではありますので、「鬼っ子」もそれなりに好ましく思います。
ちなみに鬼は桃の実を厭(きら)うそうなので、長女に「桃」と命名しましたが、なんかしら成長したら親そっくり(笑)。