元明清の時代、その帝国の成立には部族または家による朝廷争いがあった。南宋に、金、西夏、そして蒙古が絡む。唐が滅亡した後、中国は分裂時代に入り、華北、黄河流域に主に開封を首都とした王朝、後梁、後唐、後晉、後漢、後周と、周辺には地方政権が成立。この時代が五代十国時代、これらの国々のほとんどは、節度使や藩鎮が王を自称した。なかで、後周の対遼作戦の司令官であった趙匡胤が即位し、太祖 位960~76年、宋、960~1279年を建国した。中国を統一し、後周を始め、滅ぼした国の皇帝を保護し、一族は宋の時代となる。
http://www.uraken.net/rekishi/reki-chu12.html
中国史(第12回 華北の金と江南の南宋
> 宋が党争に明け暮れているうちに、中国東北地方の沿海部で半農半猟の生活を送っていたツングース系の女真族が、族長の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の元で強勢になり、金(1115~1234年)という国が建国されます(完顔阿骨打は太祖 位1115~23年に即位)。そして、金は遼を滅ぼすことにし、宋と共同出兵を盟約します。
1125年、金の攻撃で遼は滅亡します。ところが、宋はその頃起こった方臘の乱の鎮圧に手間取り、共同出兵の盟を果たせませんでした。
方臘の乱とは、当時宋の皇帝であった趙佶(徽宗 位1100~25年)が、自らの庭造りのため、江南の地より珍しい石や木を綱につけて、人々に運ばせた「花石綱の労役」に対して起こった、方臘率いる反乱です。徽宗は、書や絵画に抜群の才能を示し、この時代の上流階級の描く絵、すなわち文人画の代表ともいえる人物ですが、政治に関してはまるっきりの無能で、それどころか国民に大変な負担をかけていました。
このような状態ですから、金が宋を滅ぼすのはたやすいことでした。金は宋に対して盟約違反を理由に侵攻を開始します。徽宗はあわてて「己を罪する詔」をだして、息子の欽宗に譲位しますが、1127年、都の開封が攻略され、徽宗・欽宗を始め、皇族・高官ら数千人が捕らえられ北方へ連れ去られました(靖康の変)。
この時、たまたま開封にいないで難を逃れた皇族がいました。欽宗の弟、趙構です。彼は同年、江南の地に移り、臨安(現在の杭州)を首都に定めて帝位に就き(高宗 位1127~1162年)、宋を復興させます。歴史家はこれを南宋、そしてそれまでを北宋と区別します。また、金は華北一帯を占領し、都を燕京(現在の北京の近く)に定めました。そして、南宋を狙い始めます。
南宋 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/南宋
南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも ...
江湖 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/江湖
江湖(ごうこ、こうこ)は、江西省と湖南省、あるいは大きな江(川)と湖(狭義ではその代表たる長江と洞庭湖)の併称で、転じて官に対する民間、世間一般を ... 南宋後期の江湖詩派と呼ばれる詩人たちは下級官吏であったり、山林の隠士であったためにその名が付けられている。 武俠小説においては、そうした江湖が持つ既成の概念を利用しつつ、 ...
世界大百科事典内の江湖派の言及
【宋詩】より
…陸游はもっとも戦闘的であり,愛国詩人として知られる一方,江南農村の生活と自己の内面とを題材として,おびただしい詩を残した。南宋後期は江湖派と称する無数の小詩人の時代で,詩は市民レベルで広く普及した。その中で,《三体詩》の編集に見られるように,唐詩ことに晩唐風の淡泊な詩が復活する傾向が見られる。…
【中国文学】より
…北方からの侵略者に対する徹底的抗戦の主張を終生もちつづけ,その熱情を詩に表現したが,官をやめて長く住んだ農村の景物の描写にもすぐれていたことを見のがすべきではない。陸游は〈江西派〉の圏外にいたと思われるが,彼の死後にできた詩人の集合である〈江湖派〉の中心となる青年詩人には彼の影響が強かったと言われる。この派には市民も加わっていて,詩を作る人の範囲が唐代中葉に比べていっそう広くなったことを示す。
ウイキペディア 武侠小説
>
起源と俠義小説
武俠小説の起源については諸説あり、『荘子』の「説剣篇」や『史記』の「刺客列伝」「游俠列伝」にまで遡るという説、『聶隠娘』や『崑崙奴』などの唐代の伝奇小説や宋代の話本に原型を見る説、あるいは元代から明代にかけて成立した『水滸伝』や『三国志演義』と通じるものがあるとの説など様々である。だが、現在の武俠小説に直接繋がっているのは、清代末期の「俠義小説」と呼ばれる、儒教的道徳観に基づいて書かれた勧善懲悪の物語とされる。『児女英雄伝』や『三俠五義』がその代表的作品である。
金庸
金庸は武俠小説最大の作家で、中華圏ではその名を知らぬ者がいないと言われるほど、国民的な人気を誇り、日本での最初の紹介では「中国の吉川英治」と呼称された。豊かな教養に基づいて書かれた魅力溢れる物語は、一般大衆のみならず知識人にまで支持され、それまで低俗とされていた武俠小説を文学の域にまで引き上げた。そればかりか、多くの作品が映画やドラマ、漫画、ゲームなどの各種媒体に進出し、大衆に愛され、広範な娯楽文化の一翼を担っている。
金庸の作品の多くは、歴史の転換期が舞台として設定され、混乱した社会の中で主人公たちが活躍するが、作中には実際の歴史上の人物も多数登場して虚実入り混じった世界を形作り、武俠小説の枠を超えた壮大な歴史叙事文学と呼ぶに相応しいものとなっている。
1972年に断筆するまでに15の作品を発表し、近年では金庸の武俠小説だけを研究対象とする「金学」まで登場している。金庸はまた香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者でもある。代表作には『天龍八部』『秘曲 笑傲江湖』『射鵰英雄伝』『鹿鼎記』などがある。
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中国史(第12回 華北の金と江南の南宋
> 宋が党争に明け暮れているうちに、中国東北地方の沿海部で半農半猟の生活を送っていたツングース系の女真族が、族長の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)の元で強勢になり、金(1115~1234年)という国が建国されます(完顔阿骨打は太祖 位1115~23年に即位)。そして、金は遼を滅ぼすことにし、宋と共同出兵を盟約します。
1125年、金の攻撃で遼は滅亡します。ところが、宋はその頃起こった方臘の乱の鎮圧に手間取り、共同出兵の盟を果たせませんでした。
方臘の乱とは、当時宋の皇帝であった趙佶(徽宗 位1100~25年)が、自らの庭造りのため、江南の地より珍しい石や木を綱につけて、人々に運ばせた「花石綱の労役」に対して起こった、方臘率いる反乱です。徽宗は、書や絵画に抜群の才能を示し、この時代の上流階級の描く絵、すなわち文人画の代表ともいえる人物ですが、政治に関してはまるっきりの無能で、それどころか国民に大変な負担をかけていました。
このような状態ですから、金が宋を滅ぼすのはたやすいことでした。金は宋に対して盟約違反を理由に侵攻を開始します。徽宗はあわてて「己を罪する詔」をだして、息子の欽宗に譲位しますが、1127年、都の開封が攻略され、徽宗・欽宗を始め、皇族・高官ら数千人が捕らえられ北方へ連れ去られました(靖康の変)。
この時、たまたま開封にいないで難を逃れた皇族がいました。欽宗の弟、趙構です。彼は同年、江南の地に移り、臨安(現在の杭州)を首都に定めて帝位に就き(高宗 位1127~1162年)、宋を復興させます。歴史家はこれを南宋、そしてそれまでを北宋と区別します。また、金は華北一帯を占領し、都を燕京(現在の北京の近く)に定めました。そして、南宋を狙い始めます。
南宋 - Wikipedia
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南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも ...
江湖 - Wikipedia
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江湖(ごうこ、こうこ)は、江西省と湖南省、あるいは大きな江(川)と湖(狭義ではその代表たる長江と洞庭湖)の併称で、転じて官に対する民間、世間一般を ... 南宋後期の江湖詩派と呼ばれる詩人たちは下級官吏であったり、山林の隠士であったためにその名が付けられている。 武俠小説においては、そうした江湖が持つ既成の概念を利用しつつ、 ...
世界大百科事典内の江湖派の言及
【宋詩】より
…陸游はもっとも戦闘的であり,愛国詩人として知られる一方,江南農村の生活と自己の内面とを題材として,おびただしい詩を残した。南宋後期は江湖派と称する無数の小詩人の時代で,詩は市民レベルで広く普及した。その中で,《三体詩》の編集に見られるように,唐詩ことに晩唐風の淡泊な詩が復活する傾向が見られる。…
【中国文学】より
…北方からの侵略者に対する徹底的抗戦の主張を終生もちつづけ,その熱情を詩に表現したが,官をやめて長く住んだ農村の景物の描写にもすぐれていたことを見のがすべきではない。陸游は〈江西派〉の圏外にいたと思われるが,彼の死後にできた詩人の集合である〈江湖派〉の中心となる青年詩人には彼の影響が強かったと言われる。この派には市民も加わっていて,詩を作る人の範囲が唐代中葉に比べていっそう広くなったことを示す。
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起源と俠義小説
武俠小説の起源については諸説あり、『荘子』の「説剣篇」や『史記』の「刺客列伝」「游俠列伝」にまで遡るという説、『聶隠娘』や『崑崙奴』などの唐代の伝奇小説や宋代の話本に原型を見る説、あるいは元代から明代にかけて成立した『水滸伝』や『三国志演義』と通じるものがあるとの説など様々である。だが、現在の武俠小説に直接繋がっているのは、清代末期の「俠義小説」と呼ばれる、儒教的道徳観に基づいて書かれた勧善懲悪の物語とされる。『児女英雄伝』や『三俠五義』がその代表的作品である。
金庸
金庸は武俠小説最大の作家で、中華圏ではその名を知らぬ者がいないと言われるほど、国民的な人気を誇り、日本での最初の紹介では「中国の吉川英治」と呼称された。豊かな教養に基づいて書かれた魅力溢れる物語は、一般大衆のみならず知識人にまで支持され、それまで低俗とされていた武俠小説を文学の域にまで引き上げた。そればかりか、多くの作品が映画やドラマ、漫画、ゲームなどの各種媒体に進出し、大衆に愛され、広範な娯楽文化の一翼を担っている。
金庸の作品の多くは、歴史の転換期が舞台として設定され、混乱した社会の中で主人公たちが活躍するが、作中には実際の歴史上の人物も多数登場して虚実入り混じった世界を形作り、武俠小説の枠を超えた壮大な歴史叙事文学と呼ぶに相応しいものとなっている。
1972年に断筆するまでに15の作品を発表し、近年では金庸の武俠小説だけを研究対象とする「金学」まで登場している。金庸はまた香港の『明報』とシンガポールの『新明日報』の創刊者でもある。代表作には『天龍八部』『秘曲 笑傲江湖』『射鵰英雄伝』『鹿鼎記』などがある。