教育文法は文法の説明を単位文に分析する。そこで日本語教育文法の文は、書きことばである文章または話しことばである談話に、書き手また話し手の伝えようとする意味のまとまりによって表される。
その文は語の連なりに、語と語が関係して構成され、語と語とが連なり意味のまとまりをもつと、文の内にあっては句と呼ばれ、それが文の部分にある単位となる。文の外に独立した意味内容をまとって構成すると慣用句となり、文章の表現に用いることがある。
文の文法に語の語法と並び句の句法があってそれぞれ文法の構成を説明する。語と語との関係構成、語と句との関係構成、句と句との関係構成は文のうちにあって文を構成する。
いま文のうち、そとにある慣用句とするのは、文単位の成立にかかわる捉え方である。
例えば慣用の表現を挨拶のことばに見ると、次のようである。
こんにちは いい天気ですね
この挨拶は、こんにちは として、慣用句を構成する。こんにちは と呼びかけの語であるから、
こんにちは あるいは こんにちわ
とだけ、用いることがある。
文を構成する句があり、その句のうちからそとにとりだして、独立させた用法である。その句には慣用句のように用いると、次のようである。
こんにちは お元気ですか
―― はい こんにちは おかげさまで 元気にしています
こんにちは おでかけですか
―― はい こんにちは ええ ちょっと そこまで
こんにちは ごきげん いかが
―― はい こんにちは おたくも ごきげんよう
挨拶のことばは時間をとらえて、おはよう おはようございます こんばんは など、呼びかけの語に同様に慣用表現を用いるが、話し手となった主体、ことばを用いる主体が、句を文に用いようとするものである。
2017-05-26 20:50:16 | 日本語教育
>
日本語教育文法の議論は、ネット検索で年代を追って、その語を用いるタイトルで見ると、2005年が時期を画する。その時期を受けて2009年、そして2010年に一つの傾向を見せている。ここ10年にならないことである。教育文法の議論は文法教育とかかわると、学校の科目に経緯がある。
2017-05-24
22:50:25
>教育文法は便宜の規則であるという。学校文法は規範文法であるので、学校の教科文法は例外を認めるものとなる。教育文法はもとより実用文法とは異なるが、実践文法であるには変わりがない。日本語教育文法は学習文法であるが、それは学習者のためのものでもない。日本語教師が知るべく、説明また記述文法となる。文法教科書を教育文法として見て、際立つのは、文科省による国語文法であった。
国語文法はその実には古典文法であったのであるが、それを文語文法とするのに対して口語文法をもっぱらとする現代語文法を作り出してきた。国語に漢文が並列していたころの国語文法は漢文を対照とした古典文法の時期であったのであるが、それは文献解釈のための文法となっていたから、話しことばの文法と称する英語文法の引き写しとなるところ、橋本学説の文節文法が強く影響力を持ったので、それは現代文を分析するのに文法としてのわかりよい捉えかたであった。
日本語の文節は話しことばの単位として、part of speech 、(《複数形》 parts of speech) 文法 品詞 である。音列に単語の切れ目を見て、語列にスペースを空けることなく、分かち書きにも相当する結果となる、文節に切る日本語は、その自然な、国語話者にとってのことであるが、漢字と仮名交じりの文を切り分けることができる。それは文節として語単位に品詞を見ることになる。
教育文法に文節があり、その分け方を習得するのは自然なことであった、と、国語を身に付ける過程で行ってきたことだったことに思いをいたすべきである。言葉をならべ、それに関係構成したひとまとまりを句とするに、もともとは文章また文にあった句であるから、それをスぺースに分けて、分かち書きをする学習が、発音と、物言いに、その切り方を乳幼児のころから学び続ける国語話者である。
長じて文節を説明に聞くころにはそのときどきの学習した絵本なり、童話集なり、それを分かち書きそのもののように記憶することなく、文にして、日本語の内省によって音列を語列に直しているのである。そこに文節の概念をしっかりと作りながら育っていることになるのが教育文法であったのであるが、困ったことに、その概念を捉えようとする時期に、教師のさかしらな文節批判によって、文法は混乱するのである。
2017-05-23
12:03:43
>教育文法 pedagogic grammar は、教育 pedagogy のための文法である。pedagogyとは教育学、教授法、教職を意味内容とする。教育には学校、成人、生涯などその対象と期間、時期などによって、それぞれの実践がある。日本語教育についていえば、母語、外国語、第2言語などの捉えかたがある。論文、そのタイトルは、今、日本語の「教育文法」について考える - 甲南大学機関リポジトリ https://konan-u.repo.nii.ac.jp/ 森川結花 著 - 2005 - には、教育文法のルネサンスを目指す記述を目途する、論の方向性を述べている。教育文法とりわけ日本語教育文法のこれまでの議論を具体的に記述しようとするものであるが、果たしてどうか。この森川論文に述べる立場において教育文法を記述してみようと思う。もちろん、その論の目指す方向があって、それと軌を一つにするかどうかは日本語教育の実践があることなので、その記述を進めてみなくては、結果はわからないことである。
その文は語の連なりに、語と語が関係して構成され、語と語とが連なり意味のまとまりをもつと、文の内にあっては句と呼ばれ、それが文の部分にある単位となる。文の外に独立した意味内容をまとって構成すると慣用句となり、文章の表現に用いることがある。
文の文法に語の語法と並び句の句法があってそれぞれ文法の構成を説明する。語と語との関係構成、語と句との関係構成、句と句との関係構成は文のうちにあって文を構成する。
いま文のうち、そとにある慣用句とするのは、文単位の成立にかかわる捉え方である。
例えば慣用の表現を挨拶のことばに見ると、次のようである。
こんにちは いい天気ですね
この挨拶は、こんにちは として、慣用句を構成する。こんにちは と呼びかけの語であるから、
こんにちは あるいは こんにちわ
とだけ、用いることがある。
文を構成する句があり、その句のうちからそとにとりだして、独立させた用法である。その句には慣用句のように用いると、次のようである。
こんにちは お元気ですか
―― はい こんにちは おかげさまで 元気にしています
こんにちは おでかけですか
―― はい こんにちは ええ ちょっと そこまで
こんにちは ごきげん いかが
―― はい こんにちは おたくも ごきげんよう
挨拶のことばは時間をとらえて、おはよう おはようございます こんばんは など、呼びかけの語に同様に慣用表現を用いるが、話し手となった主体、ことばを用いる主体が、句を文に用いようとするものである。
2017-05-26 20:50:16 | 日本語教育
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日本語教育文法の議論は、ネット検索で年代を追って、その語を用いるタイトルで見ると、2005年が時期を画する。その時期を受けて2009年、そして2010年に一つの傾向を見せている。ここ10年にならないことである。教育文法の議論は文法教育とかかわると、学校の科目に経緯がある。
2017-05-24
22:50:25
>教育文法は便宜の規則であるという。学校文法は規範文法であるので、学校の教科文法は例外を認めるものとなる。教育文法はもとより実用文法とは異なるが、実践文法であるには変わりがない。日本語教育文法は学習文法であるが、それは学習者のためのものでもない。日本語教師が知るべく、説明また記述文法となる。文法教科書を教育文法として見て、際立つのは、文科省による国語文法であった。
国語文法はその実には古典文法であったのであるが、それを文語文法とするのに対して口語文法をもっぱらとする現代語文法を作り出してきた。国語に漢文が並列していたころの国語文法は漢文を対照とした古典文法の時期であったのであるが、それは文献解釈のための文法となっていたから、話しことばの文法と称する英語文法の引き写しとなるところ、橋本学説の文節文法が強く影響力を持ったので、それは現代文を分析するのに文法としてのわかりよい捉えかたであった。
日本語の文節は話しことばの単位として、part of speech 、(《複数形》 parts of speech) 文法 品詞 である。音列に単語の切れ目を見て、語列にスペースを空けることなく、分かち書きにも相当する結果となる、文節に切る日本語は、その自然な、国語話者にとってのことであるが、漢字と仮名交じりの文を切り分けることができる。それは文節として語単位に品詞を見ることになる。
教育文法に文節があり、その分け方を習得するのは自然なことであった、と、国語を身に付ける過程で行ってきたことだったことに思いをいたすべきである。言葉をならべ、それに関係構成したひとまとまりを句とするに、もともとは文章また文にあった句であるから、それをスぺースに分けて、分かち書きをする学習が、発音と、物言いに、その切り方を乳幼児のころから学び続ける国語話者である。
長じて文節を説明に聞くころにはそのときどきの学習した絵本なり、童話集なり、それを分かち書きそのもののように記憶することなく、文にして、日本語の内省によって音列を語列に直しているのである。そこに文節の概念をしっかりと作りながら育っていることになるのが教育文法であったのであるが、困ったことに、その概念を捉えようとする時期に、教師のさかしらな文節批判によって、文法は混乱するのである。
2017-05-23
12:03:43
>教育文法 pedagogic grammar は、教育 pedagogy のための文法である。pedagogyとは教育学、教授法、教職を意味内容とする。教育には学校、成人、生涯などその対象と期間、時期などによって、それぞれの実践がある。日本語教育についていえば、母語、外国語、第2言語などの捉えかたがある。論文、そのタイトルは、今、日本語の「教育文法」について考える - 甲南大学機関リポジトリ https://konan-u.repo.nii.ac.jp/ 森川結花 著 - 2005 - には、教育文法のルネサンスを目指す記述を目途する、論の方向性を述べている。教育文法とりわけ日本語教育文法のこれまでの議論を具体的に記述しようとするものであるが、果たしてどうか。この森川論文に述べる立場において教育文法を記述してみようと思う。もちろん、その論の目指す方向があって、それと軌を一つにするかどうかは日本語教育の実践があることなので、その記述を進めてみなくては、結果はわからないことである。