鈴鹿の白子から出港して江戸へ向かった廻船問屋の船が遭難して沖へ流されカムチャッカからイルクーツク、ペテルブルグまで渡った廻船問屋の船頭、大黒屋光大夫、その記念館があるので特別展を訪ねた。
特別展は井上靖の小説、オロシャ酔夢譚と、その映画化をしたものを資料としていた。
24日が初日で、25日の朝、ドライブをして出かけた。
次は、ウイキペディアより。
大黒屋光太夫記念館
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記念館のエントランス。右に光太夫像が建つ。
2005年(平成17年)11月13日、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市の生家跡近くに大黒屋光太夫記念館が開設された。設置者は鈴鹿市(文化振興部)。
光太夫の肖像や直筆の墨書、光太夫がペテルブルクで書いた手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されている。また、年3回の企画展(春:帰郷文書公開、夏:光太夫の生涯、冬:光太夫のロシア文字墨書公開)や、特別展を随時行っている。
光大夫は数奇な運命をたどった。
アリューシャン列島まで流されて、そこで、4年を過ごす。
>るアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。
>宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。
特別展は井上靖の小説、オロシャ酔夢譚と、その映画化をしたものを資料としていた。
24日が初日で、25日の朝、ドライブをして出かけた。
次は、ウイキペディアより。
大黒屋光太夫記念館
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記念館のエントランス。右に光太夫像が建つ。
2005年(平成17年)11月13日、光太夫の出身地である三重県鈴鹿市の生家跡近くに大黒屋光太夫記念館が開設された。設置者は鈴鹿市(文化振興部)。
光太夫の肖像や直筆の墨書、光太夫がペテルブルクで書いた手紙の複製、漂流記、ロシアから持ち帰った器物などが展示されている。また、年3回の企画展(春:帰郷文書公開、夏:光太夫の生涯、冬:光太夫のロシア文字墨書公開)や、特別展を随時行っている。
光大夫は数奇な運命をたどった。
アリューシャン列島まで流されて、そこで、4年を過ごす。
>るアムチトカ島へ漂着。先住民のアレウト人や、毛皮収穫のために滞在していたロシア人に遭遇した。彼らとともに暮らす中で光太夫らはロシア語を習得。4年後(1787年)、ありあわせの材料で造った船によりロシア人らとともに島を脱出する。
>宝暦元年(1751年) - 文政11年4月15日(1828年5月28日))は、江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした回船(運輸船)の船頭。天明2年(1782年)、嵐のため江戸へ向かう回船が漂流し、アリューシャン列島(当時はロシア領アラスカの一部)のアムチトカ島に漂着。ロシア帝国の帝都サンクトペテルブルクで女帝エカチェリーナ2世に謁見して帰国を願い出、漂流から約9年半後の寛政4年(1792年)に根室港入りして帰国した。