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民族の祭典、五輪のマーク

2018-02-25 | 思い遥かに
年齢相応なのだろう、民族の行く末を、その岐路に思い悩む。民族のことをわかるのはどういうときか、わかるとは、それをとらえて、民族主義者になることか、どうかは、わからない。年齢であれば、民族に目覚めるきっかけがあれば、10代でも、20代でも、そういうことがあろうかと思うし、世に役立てんとする命を実感するときに民族があるかどうかである。家族があって、家系による民族への思いは、血縁社会が基本であるから、家族制国家としての思いがあれば、民族国家へのつながりを見ることにもなる。しかし、その民族が見えない、見えなかったのは、日本民族があって大和族ではないというような、その教育による刷り込みである。そういえば、教育においても、その日本民族も教えにあったわけではないから、世代として特有の民族意識を持たなかったと思うことになる。


日本オリンピック委員会
https://www.joc.or.jp/olympism/qa/
https://www.joc.or.jp/olympism/charter/


ウイキペディアより
オリンピックシンボル Olympic symbols

オリンピックマーク、いわゆる五輪マークは、単色または五色(左から青・黄・黒・緑・赤)の輪を重ねて連結した形で、ヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、アジア、オセアニアの五大陸と、その相互の結合、連帯を意味しているが、どの色も特定の大陸を意味したものではない。ピエール・ド・クーベルタンが古代オリンピックの開催地の一つであるデルフォイの祭壇にあった休戦協定を中に刻んだ五輪の紋章に着想を得て製作し、1914年にIOC設立20周年記念式典で発表された。


「日本民族」の形成
古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。

「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」、「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

大和盆地の大王を中心とした連合政権であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州、四国、九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や南九州の熊襲と呼ばれた諸部族は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族は隼人の反乱の失敗や坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は長年支配した朝鮮半島から手を引いたが、代わりに東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。

国民国家の認識

朝鮮や台湾を領有した戦前の日本の領土
近代に入り、日本がネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された併合地の先住民族を含む国籍的概念であった。しかしこれらの地域には日本本土と異なる法令が施行され、法令の連絡統一を図るために制定された共通法で日本本土は内地と規定され、それ以外の地域は外地と呼ばれていた。そのため本土の国民は内地人、併合地の先住民族は外地人と呼ばれて区別されることがあった。ただし、当該の先住民族の間では「日本人」が内地人と同義として使われることが多かった。

南樺太に住んでいたロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。

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