首相参拝 米が「失望」 「靖国 中韓と緊張悪化」 異例の声明 懸念示す 20141227中日新聞トップ記事、見出しである。リードには、安倍晋三首相は二十六日、東京・九段北の靖国神社を参拝した、とある。記者団とのやり取りを載せる中見出しには、首相「戦犯崇拝は誤解」 と見える。囲み記事解説には、失うもの大きすぎる として編集員が執筆する。新聞の論調は一斉に書きたてる。2、3面に横付きの大見出しは、安倍色 外交より靖国 「戦犯合祀」批判を黙殺 とある。22、23面の見出しにはそれぞれ社会面から反応として、中部の観光戦略に水 企業、反日デモ懸念 「外国客減るかも」と見える。さらには、「当然」「歴史を無視」 首相泰邦参拝戦争体験者ら賛否 と見える。中日新聞社説は、真の慰霊になったのか とタイトルにする。なかに段落見出しは、独り善がりの説明 米国が慰霊の批判 悪循環を断ち切れ とする。現職の首相が参拝するのは7年ぶりである。
中日ウエブ
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013122702000091.html
>真の慰霊になったのか 安倍首相靖国参拝
2013年12月27日
安倍晋三首相が靖国神社を参拝した。国の指導者が戦死者を追悼するのは当然の責務としても、近隣諸国の激しい反発を招いては真の慰霊にはなるまい。
第一次内閣のとき、靖国神社に参拝しなかったことを「痛恨の極み」としていた安倍首相である。
昨年暮れ、首相に再び就いてからも、春と秋の例大祭、八月十五日の終戦記念日という節目での参拝を見送った。第二次内閣発足一年に当たるきのうが、積年の思いを遂げる日と考えたのだろう。
首相は記者団に「この一年の安倍政権の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのない時代をつくるとの誓いを伝えるためにこの日を選んだ」と述べた。
独り善がりの説明
国の戦争に駆り出され、戦場に散ることを余儀なくされた戦死者に、その国の指導者が哀悼の誠をささげるのは当然ではある。それが誤った政策判断で突入した戦争だとしたら、なおさらだろう。
その一方、首相の靖国参拝が、極東国際軍事裁判(東京裁判)によるA級戦犯の合祀(ごうし)発覚後、高度な政治・外交問題と化している現実もある。そのことは、安倍首相も認識しているはずではないか。
中国は旧日本軍による侵略の、韓国は植民地支配の「被害者」という歴史上の事実は消せない。
首相が「いわゆる戦犯を崇拝する行為だと、誤解に基づく批判がある」といくら強弁しても、靖国参拝がほかの戦死者と同様、戦争指導者をもたたえる行為だと受け取られても仕方があるまい。
首相は、すべての戦死者を慰霊する「鎮霊社」にも参拝することで、今回の靖国参拝に「不戦の誓い」を込めたのだろうが、結果として中韓両国の反発を招いた事実は重く受け止めるべきだ。それを誤解に基づくと言い張るのは、あまりにも独り善がりがすぎる。
米国が異例の批判
今回の靖国参拝がより深刻なのは、首相が同盟関係の強化を目指してきたはずの米国が「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに、米国政府は失望している」(在日大使館声明)と、異例の強い調子で首相を批判していることだ。
アジア・太平洋地域では、中国の軍事的な台頭、北朝鮮の核・ミサイル開発など、安全保障環境が悪化している。日米安全保障体制の信頼性が揺らげば、中国に軍事的冒険の誘因を与えかねない。
安倍内閣が「対中包囲網」の一環として関係強化に努める東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が頼りにするのも「アジア・太平洋地域安定の礎石」としての日米安保体制だ。米国との関係を損ねた日本と組んでまで中国と向き合おうとする国があるだろうか。
中韓両国に加え、米国との関係悪化の先にあるのは、日本の外交的な孤立にほかならない。
日本がそんな「いつか来た道」を再び歩みだすことを、靖国の杜(もり)に眠る人々が望むはずがない。
首相は昨年十二月の衆院選に続き、今年七月の参院選でも圧勝して政権基盤を固めた。悲願だった国家安全保障会議(NSC)を設置し、中長期の外交・防衛政策の指針となる国家安全保障戦略を策定するなど、安全保障政策の見直しを着々と進めている。
経済面では株価が六年ぶりに終値一万六〇〇〇円台を回復。今月の月例経済報告では四年二カ月ぶりにデフレの表現がなくなった。
特定秘密保護法成立で低下はしたが、安倍内閣の支持率は高止まりしている。就任一年の集大成として靖国参拝に踏み切っても乗り切れるとの「慢心」があるのなら、見過ごせない。
戦死者、戦没者をどう追悼するかは国内問題であり、外国から干渉されるべきものではないが、靖国神社がその場として今も適切かどうかは、議論が残る。
首相の靖国参拝や合祀をめぐる訴訟が起きたり、首相や閣僚の参拝に対する中国、韓国などの激しい反発がそれを表している。
悪循環を断ち切れ
首相は高支持率という政治的資産を、靖国参拝という中央突破ではなく、参拝が引き起こす悪循環を断ち切ることにこそ、振り向けるべきではなかったのか。
首相は、内外の誰もがわだかまりなく戦死者、戦没者を追悼できるような施設、環境づくりにこそ、指導力を発揮すべきである。
これまでにも、A級戦犯分祀論や千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充、新たな国立追悼施設造営など、さまざまなアイデアが浮上している。
議論を集約し、実現するには困難を極めるとしても、ドイツの宰相、ビスマルクが言うように「政治は可能性の芸術」であるのなら、不可能はないはずだ。
首相には勇気を持って、一歩踏み出してほしい。「不戦の誓い」に、魂を込めるためにも。
中日ウエブ
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013122702000091.html
>真の慰霊になったのか 安倍首相靖国参拝
2013年12月27日
安倍晋三首相が靖国神社を参拝した。国の指導者が戦死者を追悼するのは当然の責務としても、近隣諸国の激しい反発を招いては真の慰霊にはなるまい。
第一次内閣のとき、靖国神社に参拝しなかったことを「痛恨の極み」としていた安倍首相である。
昨年暮れ、首相に再び就いてからも、春と秋の例大祭、八月十五日の終戦記念日という節目での参拝を見送った。第二次内閣発足一年に当たるきのうが、積年の思いを遂げる日と考えたのだろう。
首相は記者団に「この一年の安倍政権の歩みを報告し、再び戦争の惨禍で人々が苦しむことのない時代をつくるとの誓いを伝えるためにこの日を選んだ」と述べた。
独り善がりの説明
国の戦争に駆り出され、戦場に散ることを余儀なくされた戦死者に、その国の指導者が哀悼の誠をささげるのは当然ではある。それが誤った政策判断で突入した戦争だとしたら、なおさらだろう。
その一方、首相の靖国参拝が、極東国際軍事裁判(東京裁判)によるA級戦犯の合祀(ごうし)発覚後、高度な政治・外交問題と化している現実もある。そのことは、安倍首相も認識しているはずではないか。
中国は旧日本軍による侵略の、韓国は植民地支配の「被害者」という歴史上の事実は消せない。
首相が「いわゆる戦犯を崇拝する行為だと、誤解に基づく批判がある」といくら強弁しても、靖国参拝がほかの戦死者と同様、戦争指導者をもたたえる行為だと受け取られても仕方があるまい。
首相は、すべての戦死者を慰霊する「鎮霊社」にも参拝することで、今回の靖国参拝に「不戦の誓い」を込めたのだろうが、結果として中韓両国の反発を招いた事実は重く受け止めるべきだ。それを誤解に基づくと言い張るのは、あまりにも独り善がりがすぎる。
米国が異例の批判
今回の靖国参拝がより深刻なのは、首相が同盟関係の強化を目指してきたはずの米国が「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに、米国政府は失望している」(在日大使館声明)と、異例の強い調子で首相を批判していることだ。
アジア・太平洋地域では、中国の軍事的な台頭、北朝鮮の核・ミサイル開発など、安全保障環境が悪化している。日米安全保障体制の信頼性が揺らげば、中国に軍事的冒険の誘因を与えかねない。
安倍内閣が「対中包囲網」の一環として関係強化に努める東南アジア諸国連合(ASEAN)諸国が頼りにするのも「アジア・太平洋地域安定の礎石」としての日米安保体制だ。米国との関係を損ねた日本と組んでまで中国と向き合おうとする国があるだろうか。
中韓両国に加え、米国との関係悪化の先にあるのは、日本の外交的な孤立にほかならない。
日本がそんな「いつか来た道」を再び歩みだすことを、靖国の杜(もり)に眠る人々が望むはずがない。
首相は昨年十二月の衆院選に続き、今年七月の参院選でも圧勝して政権基盤を固めた。悲願だった国家安全保障会議(NSC)を設置し、中長期の外交・防衛政策の指針となる国家安全保障戦略を策定するなど、安全保障政策の見直しを着々と進めている。
経済面では株価が六年ぶりに終値一万六〇〇〇円台を回復。今月の月例経済報告では四年二カ月ぶりにデフレの表現がなくなった。
特定秘密保護法成立で低下はしたが、安倍内閣の支持率は高止まりしている。就任一年の集大成として靖国参拝に踏み切っても乗り切れるとの「慢心」があるのなら、見過ごせない。
戦死者、戦没者をどう追悼するかは国内問題であり、外国から干渉されるべきものではないが、靖国神社がその場として今も適切かどうかは、議論が残る。
首相の靖国参拝や合祀をめぐる訴訟が起きたり、首相や閣僚の参拝に対する中国、韓国などの激しい反発がそれを表している。
悪循環を断ち切れ
首相は高支持率という政治的資産を、靖国参拝という中央突破ではなく、参拝が引き起こす悪循環を断ち切ることにこそ、振り向けるべきではなかったのか。
首相は、内外の誰もがわだかまりなく戦死者、戦没者を追悼できるような施設、環境づくりにこそ、指導力を発揮すべきである。
これまでにも、A級戦犯分祀論や千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充、新たな国立追悼施設造営など、さまざまなアイデアが浮上している。
議論を集約し、実現するには困難を極めるとしても、ドイツの宰相、ビスマルクが言うように「政治は可能性の芸術」であるのなら、不可能はないはずだ。
首相には勇気を持って、一歩踏み出してほしい。「不戦の誓い」に、魂を込めるためにも。