国語と日本語はその来歴をたどれば明確なことがある。国語も日本語の同一の言語現象をさしているから、来歴に異なることがあるようなわけではない。しかし多くは国語から日本語へと変わる契機をとらえて、国語とは何か、日本語とは何かを言おうとする。そのとらえ方は国語のイデオロギーから日本語の論理へと転化している。転化はこの世紀になって激しい。すなわち国語は教科目名のままに日本語は対象とする言語の発想にとらえられる。
国語がいつからそう呼ばれるものであるか。教科目名とすればそれは特定することができる。ことば、言語という呼称の普及は国語を明確にするところから始まっている。近代以降の教育になるまえには読み書きであった一般を明らかにしたもので時代が下がれば読み書き聞き話すと見えるようになる。現代は表現と理解、これは言語に拠るようであるから、そこに考えるというのを加えるのは国語でなく日本語でとなって、どういうことなのか。
国語と呼ぶのは明治、大正、昭和世代までの教育にあるからわかりよい。日本語はそうすると平成時代かというとそうでもないし、さきに述べたように教科目名の令和の時代になると、日本語と対照する、比較するというような、そういう世代は緩やかに現れていると思える。それでも日本語をいつからと知るのは困難な作業である。その呼称は日本国内に1980年代になってようやく議論の対象となる。
国語教育と国語研究、そこにあった国語学はいま休止状態に置かれている。国語はもとよりそうであったように文献実証に研究がある。日本語教育と日本語研究、そこにある日本語学は古い皮衣を着て新しい酒を入れているかのようである。新しい酒は新しい皮袋に盛れという教えにはいたらないのは日本語研究が方法を持たないからである。いまひとたび漢語対照をもって日本語と英語対照に据えなければならない。