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空間批評―時評6

2013-08-16 | 日本語教育私史
空間批評―時評6

週間日本語教育批評38号―42号

ぶっちゃけ、日本語教師は食えているのか、って。食っているから、メルマガを発行し続けているのだろう。メルマガ発行の疑問は批評に批判が行われないからである。ここまで発行し続けてきて、その目的を見失っているのは自分を見失いかけているからである。批評が何であるかを見据えなければ、これは立ち消えになる。

批評は定めるだけの議論である。辞書によれば、日本国語大辞典、批評とは、事物の善悪・是非・美醜などを評価し論じることとあり、次いで、長所短所などを指摘して価値を決めることのようである。批判、とも書き添える。百科大全書によって批評を辿ってみると、批評の基本と位置は、次のようである。

>批評ひひょう criticism 英語  Kritik ドイツ語  critique フランス語
事物の美点や欠点をあげて、その価値を検討、評価すること。狭義に芸術批評、ことに文芸批評をさすことも多いが、広義には政治、経済、科学、スポーツから日常生活に至るまで、人間営為のすべてを対象とする。その文章化されたものを評論という。真の批評の根底にあるものは批評意識ないしは批評精神であり、この意味での批評は批評家の専有物ではない。

>批評の基本は判断であり、判断は事実判断から価値判断へ、換言すれば真偽・黒白の判断から優劣・長短の判断へと向かう。前者に傾くと「客観批評」となり、後者に傾くと「主観批評」となるが、主観批評は傾きすぎれば独断となる。客観批評と似て非なるものに「裁断批評」があり、これは外的な基準を設け、それに照らして判断する批評方法である。

そして、批評の位置は、次のようである。項目執筆は、小林路易でる。
>いずれにせよ価値の判断は究極において個人的・相対的であり、よりよきものへの努力が払われているか、よりよきものと比較してどこが足りないか、そしてそのよりよきものとは何かを不断に模索するという高度の精神的葛藤(かっとう)を通して行われる

あわせて、日本大百科全書、ニッポニカによって、批判ひはん  criticism 英語  critique フランス語  Kritik ドイツ語 について見ておく。
>通常の用法においては、「批評」と同じく、人間の行為あるいは作品の価値を判定することをいう。西欧語では、「批判」も「批評」も、等しくギリシア語の「分割する」を意味する語クリネインkrineinに由来する語によって表されるが、日本語の場合には、「批判」は哲学ないし文献学上の、「批評」は主として文学・芸術上の用語として使い分けられるのが一般的である。

さてこれは、辞書にある語義の説明、デジタル大辞泉である。注目するのは用法の解説である。この誤った、批判の捉え方が常識としてこのような辞書にあることが如何わしい。
>ひ‐ひょう 〔‐ヒヤウ〕 【批評】[名](スル)物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。「論文を―する」「印象―」

>[用法]批評・批判――「映画の批評(批判)をする」のように、事物の価値を判断し論じることでは、両語とも用いられる。◇「批評」は良い点も悪い点も同じように指摘し、客観的に論じること。「習作を友人に批評してもらう」「文芸批評」「批評眼」◇「批判」は本来、検討してよしあしを判定することで「識者の批判を仰ぎたい」のように用いるが、現在では、よくないと思う点をとりあげて否定的な評価をする際に使われることが多い。「徹底的に批判し、追及する」「批判の的となる」「自己批判」

批判することがらに正邪、善悪、是非があるなら、それを正すのが筋となろう。正善また是を言わずして、邪悪また非をのみ言うならばそれはあげつらいとなる。判定しなお、その良しあしにおいて、根本に立ち返り原理原則に照らした真実、本質を極めるべきである。論理における否定は肯定を前提にする、その肯定さるべき内容を考えるべきである。





>今回は、「日本語教師は職業か」に関し、論じてみたい。・・・という予告だけしておいて   38号

>このように、これまでの既存のイメージでは語ることができない大学における留学生の多様化を目の当たりにし、確実に世界が動いていることを実感している。   38号

>また、同化教育を受けたセデック族出身の警察官同士が対峙するシーンで、セデック族の者なのか、日本人なのか、自分の存在が今でも分からないという同僚に対し、
「そんな観念は切り裂いてしまえ。そのどちらでもない自由な魂を解き放つんだ」と、
もう一人が語っていたのが印象的であった。   39号

>いろいろ考えた結果、データに基づいて、客観的な事実を述べるのではなく、あくまで私がこれまでの日本語教師として経験したこと、そして、経験から考えたことを主観的に書いていくことにした。   39号

>日本語教師として生計が立てられるような未来が訪れるのだろうか。
どう考えてもそうではないような気がした。
どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるかはよくわからなかった。   40号

>インタビューという行為は、他者を通して現在の自分が過去を語り、その過去から現在の自分に立ち返るという、言葉を介した自己回帰的な行為でも、あるのかもしれないと思うのである。   40号

>人間教育であるはずのことばの教育が,「わかりません」≒「そのうちわかるようにしてあげます」という呪文と引き換えにしてコミュニケーションを打ち消していくことを認めている。一方で,コミュニケーション能力育成を声高に叫んで,日本語教育はいったいどこへ向かおうとしているのだろうか。巧みなおためごかしを決め込むことで,「可能」の意味合いを含んだ「わかる」ということばの,否,あなたとわたしの対話や表現の可能性を
掻き消してしまっているような気がする。   40号

>また、よく「『学習者』のために」ということを口にする教師がいるが、それは実体のない「学習者」を規定し、仕立て上げなければ、教師として存在することもできない「『あなた』のために」自らが言っていることなのではないだろうか。   41号

>大学の専任になれば、確かに生計は立てられるであろう。しかし、その給料は、大学教員としての研究・教育成果や様々な事務仕事、あるいは、営業活動等に対し、支払われるのである。日本語教師としての能力なり、成果なりに対し、対価が払われるわけではない。
   41号

>しかし、大学で日本語を教えれば、何か道が開けるのではないかと考え、とにかくインターンシッププログラムを受け、契約講師になった。   42号

>ここでいう質とは、私自身による達成感や満足度に繋がるものであって、一般的な文章の質の高低を表しているものではないが、そう考えると、書くことはいつの間にか、身勝手で自慰的な行為になっているのかもしれないと、はたと思ってしまったのが、疑問の始まりである。   42号

>佐藤さんがメルマガで書くことに疑問を感じ始めているようです。これは編集会議が必要かもしれません。果たして、週刊「日本語教育」批評 は、このまま続けられるのか。
若干緊張しつつ、次号を待て。   42号







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