孔子の生涯の物語、中国ドラマをみる。演出の違いか、ところどころの味わいが異なる。展開は少正卯を描く。孔子は年表で28歳となる。役人の仕事ぶりを引き続き見せる。乗田、委官となり、公たちの、襄公に貸し借りがどうなっているかを調べることになる。まじめぶりとして見ると、社会に受け入れられない。孔子は自ら仕事の報告を魯の襄公にも訴えたことにより、証拠隠滅に動いた季公たちの、火付けの濡れ衣を着せられたために、周へと旅立つ。小正卯は辻に立ち民衆を扇動している。国王が説くのは人道ばかりで民を豊かにするものがないだけでなく、その唱えを言うだけで民衆をしたがわせようとする、と訴える。ここで季孫に呼び入れられた小正卯は対面して、季氏が足を使った湯を浴びせられるシーンがある。権力を誇示するものであるし、それをまた、やり返す言葉なくて、従う少正卯であった。孔丘が周へ旅立つのは、逃れるようにしてであったが。
http://www.wowow.co.jp/pg_info/detail/105008/index.php#content?target=scene010&m=01
帰ってきた少正卯
> 乗田の職を与えられた孔丘は、真面目に勤め過ぎて周囲の反発を買う。季孫意如は次に彼を委吏に任命し、襄公が三桓氏からどれだけ借金しているのか調べるよう命じる。だが孔丘は、逆に三桓氏こそ税を払わず襄公に借金しているという結果を報告する。あわてた季孫意如は、証拠隠滅のために陽虎を呼び……。曲阜の町には、大きく変貌した少正卯が戻ってくる。彼は人々に経済を説き、魯の国情を批判し、扇動しようとする。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/nenpyou2.htm
孔子年表
525年 昭公17年 28歳 魯に仕官し 委吏(倉庫係)や司職吏(家畜の管理係)の職につく。
現代の感覚でいえば、臨時雇いかアルバイトのようなものだったが、
しっかりと責任を果たし、成績をあげた。
孔子は読み書きが出来たので、重宝されたと思うが、その分、妬まれて
苛められたと考えられる。普通の人間ならここでキレてしまうが、孔子はここで
人間観察を行い、君子と小人の違いを学んでいった。
史記に記された孔子(25)
404. 史記に記された孔子(25) - アメーバブログ
ameblo.jp/miyatake-yagikensetsu/entry-11712293944.html
>
孔子世家④ 魯国の政治舞台に出る時代
史記を読んでみましょう。
定公十四年、孔子、年五十六、大司寇(だいしこう)より摂相(せつしょう)の事(こと)を行う。喜色(きしょく)有り。門人(もんじん)曰わく、「聞く、君子は禍(わざわい)至れども懼(おそ)れず、福(さいわい)至れども喜(よろこ)ばず」と。
孔子曰わく、「是(こ)の言(こと)有り。其の『貴(たっと)きを以(もっ)て人に下(くだ)るを楽しむ』と曰(い)はずや」と。
是(ここ)に於いて、魯の大夫の政(まつりごと)を乱(みだ)せる者小正卯(しょうせいぼう)を誅(ちゅう)し、国政を與(あずか)り聞(き)く。三月(さんげつ)にして、恙豚(こうとん)を粥(ひさ)ぐ者、賈(あたい)を飾(かざ)らず。男女行く者、塗(みち)を別(こと)にし、塗(みち)、遺(お)ちたるを拾(ひろ)わず、四方(しほう)の客(かく)、邑(ゆう)に至(いた)る者、有司に求めざれども、皆、之に予(あた)え以て帰らしむ。
史記「孔子世家」
解 釈〈世家〉論語講師用副読本 論語普及会
定公の十四年、孔子は年五十七歳の時、大司寇の職から、宰相を補佐する事を行うようになって、喜んでいるようにみえた。門人が言った。「君子というものは、禍いがいたっても怖れず、福が来ても喜ばないと聞いていますが、いかがでしょうか」と。
孔子が言った。「まことに、そういう言葉もあるが、『貴をもって人にへり下ることを楽しむ』とも、いうではないか」と。
かくて、魯の大夫で、政治を乱した少正卯を誅罰し、魯の国政に参与した。三ヶ月もたつと、小羊や豚を売る者が掛け値を言わないようになり、男女の路を行く者が別々の道を歩くようになり、路に落し物があっても黙って拾ってしまうことをしなくなった。四方の国から魯の邑に来た旅客が、役人に頼まなくても、みな必要なものを与えて帰らせるようになった。
魯は外交上の勝利を勝ち取った上、三桓の勢力を弱体化することにも成功したのです。
その頃の孔子は、いかにも嬉しそうでした。弟子の一人がそれを見て不満そうに孔子に尋ねました。「君子たるもの、喜怒哀楽を表に表さないといわれますが、先生ともあろうお方が・・・・」孔子は答えました。「そうは言っても、上の地位について大いに腕をふるい、下の意見にも充分に耳をかす、これも悪くはないものだ・・・」
このようなことを記した司馬遷の本意は何だったのでしょうか。私にはよく分かりません。そして、「是に於いて」と続けて、孔子が少正卯を殺したことを記しています。孔子が少正卯を殺したことは、「論語」には出てきません。「荀子」の宥坐篇(ゆうざへん)や「呂氏春秋(ろししゅんじゅう)」・「説苑(ぜいえん)」に記されています。私には酒見賢一の小説「陋巷に在り」で描かれた少正卯が衝撃的で印象に残っています。
孔子が目指した徳治主義は政治批評者の理想ですが、政治を乱した少正卯を殺したことは、つまり法治を行ったことは、政治に参与する者の現実の実践です。「小正卯を誅し、国政を与り聞く」に続けて、「三月にして・・・」と、その厳しい法治に人民が畏怖したことを記しているのです。
そして、その当座は国内の秩序も安定しました。豚や羊を売る商人は暴利をむさぼらなくなり、街では治安が保たれたので、落し物を着服するものすらいなくなりました。よそから来た旅人は、善悪のけじめがはっきりしているので、役人の手をわずらわす必要がなく、家に居る時と同じように、くつろいだ気分で過ごすことができたようです。
このような政治的業績は、当然のことながら、隣国とくに斉の警戒心をつのらせることになっていきます。
少正卯- 维基百科,自由的百科全书
zh.wikipedia.org/wiki/少正卯
>
少正卯(?-前500年),春秋时代鲁国大夫,少正是姓,卯是名,「少正」是周朝所设官职,属于当时的“以官为姓”的情况[1]。據說孔子三千弟子亦多次被其全部吸引走,致孔门“三盈三虚”,唯有七十二贤中的颜渊不为所动。孔子摄鲁相,七日而誅少正卯。事件最早出於《荀子》,之後《尹文子》、《說苑》、《孔子家語》、《史記》等書也有記載,其中除史記外均有「五惡」之說,至於爭奪弟子的說法首見東漢王充《論衡》,而早期的《左傳》、《國語》、《論語》、《孟子》等書則無記載和提及。少正卯未載於春秋戰國時期史冊,首次載入正史係從《史記》開始,然除身為大夫而「亂政」,以致被孔子所誅外,全無其他有關少正卯具體言行記載,亦未被其他同時期人物所提及,故有關孔子誅殺動機、少正卯的身分,乃至於本事件的真實性及少正卯本人的存在,都深受後世質疑與討論。
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帰ってきた少正卯
> 乗田の職を与えられた孔丘は、真面目に勤め過ぎて周囲の反発を買う。季孫意如は次に彼を委吏に任命し、襄公が三桓氏からどれだけ借金しているのか調べるよう命じる。だが孔丘は、逆に三桓氏こそ税を払わず襄公に借金しているという結果を報告する。あわてた季孫意如は、証拠隠滅のために陽虎を呼び……。曲阜の町には、大きく変貌した少正卯が戻ってくる。彼は人々に経済を説き、魯の国情を批判し、扇動しようとする。
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/nenpyou2.htm
孔子年表
525年 昭公17年 28歳 魯に仕官し 委吏(倉庫係)や司職吏(家畜の管理係)の職につく。
現代の感覚でいえば、臨時雇いかアルバイトのようなものだったが、
しっかりと責任を果たし、成績をあげた。
孔子は読み書きが出来たので、重宝されたと思うが、その分、妬まれて
苛められたと考えられる。普通の人間ならここでキレてしまうが、孔子はここで
人間観察を行い、君子と小人の違いを学んでいった。
史記に記された孔子(25)
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孔子世家④ 魯国の政治舞台に出る時代
史記を読んでみましょう。
定公十四年、孔子、年五十六、大司寇(だいしこう)より摂相(せつしょう)の事(こと)を行う。喜色(きしょく)有り。門人(もんじん)曰わく、「聞く、君子は禍(わざわい)至れども懼(おそ)れず、福(さいわい)至れども喜(よろこ)ばず」と。
孔子曰わく、「是(こ)の言(こと)有り。其の『貴(たっと)きを以(もっ)て人に下(くだ)るを楽しむ』と曰(い)はずや」と。
是(ここ)に於いて、魯の大夫の政(まつりごと)を乱(みだ)せる者小正卯(しょうせいぼう)を誅(ちゅう)し、国政を與(あずか)り聞(き)く。三月(さんげつ)にして、恙豚(こうとん)を粥(ひさ)ぐ者、賈(あたい)を飾(かざ)らず。男女行く者、塗(みち)を別(こと)にし、塗(みち)、遺(お)ちたるを拾(ひろ)わず、四方(しほう)の客(かく)、邑(ゆう)に至(いた)る者、有司に求めざれども、皆、之に予(あた)え以て帰らしむ。
史記「孔子世家」
解 釈〈世家〉論語講師用副読本 論語普及会
定公の十四年、孔子は年五十七歳の時、大司寇の職から、宰相を補佐する事を行うようになって、喜んでいるようにみえた。門人が言った。「君子というものは、禍いがいたっても怖れず、福が来ても喜ばないと聞いていますが、いかがでしょうか」と。
孔子が言った。「まことに、そういう言葉もあるが、『貴をもって人にへり下ることを楽しむ』とも、いうではないか」と。
かくて、魯の大夫で、政治を乱した少正卯を誅罰し、魯の国政に参与した。三ヶ月もたつと、小羊や豚を売る者が掛け値を言わないようになり、男女の路を行く者が別々の道を歩くようになり、路に落し物があっても黙って拾ってしまうことをしなくなった。四方の国から魯の邑に来た旅客が、役人に頼まなくても、みな必要なものを与えて帰らせるようになった。
魯は外交上の勝利を勝ち取った上、三桓の勢力を弱体化することにも成功したのです。
その頃の孔子は、いかにも嬉しそうでした。弟子の一人がそれを見て不満そうに孔子に尋ねました。「君子たるもの、喜怒哀楽を表に表さないといわれますが、先生ともあろうお方が・・・・」孔子は答えました。「そうは言っても、上の地位について大いに腕をふるい、下の意見にも充分に耳をかす、これも悪くはないものだ・・・」
このようなことを記した司馬遷の本意は何だったのでしょうか。私にはよく分かりません。そして、「是に於いて」と続けて、孔子が少正卯を殺したことを記しています。孔子が少正卯を殺したことは、「論語」には出てきません。「荀子」の宥坐篇(ゆうざへん)や「呂氏春秋(ろししゅんじゅう)」・「説苑(ぜいえん)」に記されています。私には酒見賢一の小説「陋巷に在り」で描かれた少正卯が衝撃的で印象に残っています。
孔子が目指した徳治主義は政治批評者の理想ですが、政治を乱した少正卯を殺したことは、つまり法治を行ったことは、政治に参与する者の現実の実践です。「小正卯を誅し、国政を与り聞く」に続けて、「三月にして・・・」と、その厳しい法治に人民が畏怖したことを記しているのです。
そして、その当座は国内の秩序も安定しました。豚や羊を売る商人は暴利をむさぼらなくなり、街では治安が保たれたので、落し物を着服するものすらいなくなりました。よそから来た旅人は、善悪のけじめがはっきりしているので、役人の手をわずらわす必要がなく、家に居る時と同じように、くつろいだ気分で過ごすことができたようです。
このような政治的業績は、当然のことながら、隣国とくに斉の警戒心をつのらせることになっていきます。
少正卯- 维基百科,自由的百科全书
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少正卯(?-前500年),春秋时代鲁国大夫,少正是姓,卯是名,「少正」是周朝所设官职,属于当时的“以官为姓”的情况[1]。據說孔子三千弟子亦多次被其全部吸引走,致孔门“三盈三虚”,唯有七十二贤中的颜渊不为所动。孔子摄鲁相,七日而誅少正卯。事件最早出於《荀子》,之後《尹文子》、《說苑》、《孔子家語》、《史記》等書也有記載,其中除史記外均有「五惡」之說,至於爭奪弟子的說法首見東漢王充《論衡》,而早期的《左傳》、《國語》、《論語》、《孟子》等書則無記載和提及。少正卯未載於春秋戰國時期史冊,首次載入正史係從《史記》開始,然除身為大夫而「亂政」,以致被孔子所誅外,全無其他有關少正卯具體言行記載,亦未被其他同時期人物所提及,故有關孔子誅殺動機、少正卯的身分,乃至於本事件的真實性及少正卯本人的存在,都深受後世質疑與討論。