ふたたび文字の書き分けについて、字音のことではあるけれど、発音が違うならば文字も異なるといういまふうの観念でいえば上代仮名遣いというのはその逆なので扱いにくいことになるが、つまり発音は同じで文字が違うなどとありえないような、実際に一つの音をいくつもの漢字で書いていた万葉仮名は文字の書き分けがどこにあったかという議論になるとそれは議論するほうが不毛であろうか。
それを特殊と名付けたのは特殊でないものがあるからだろうけれどその命名は正しかったかどうか、特殊でない普通はもっと特殊であったように見えるからだし、まして漢字の発音をいくつもの違う文字で書き表しながら、同じ発音だという方がどう考えてもおかしいわけである。こんなことを言い出すと祖先の遊びを冷やかすようなもので、何を言っているかというと、万葉集という歌集がすべて漢字で書かれているなどと言って、それを教養ある人々にどれほどの真意が伝わるか、怪しいものだ。
まして上代特殊となる仮名遣いのことはそれを書き記した人たちにはごく普通のことであってたぶんずいぶんと工夫をして見せたのであるけれどそれがなにを表していたかということは言語上の現象であることを通り一遍に理解することも困難だろう。万葉集には漢文書きがあって、日本漢文のようなところもまま見えて、和歌というのはすべて漢字で書いているけれどその書き方に何種類もあって一見してこれは漢字の書物となるような楷書書きでとらえる現代の古典文学だからいたしかたなく、それに見られた特殊とはなんであったのか。
特殊を聞けば日本語の語感で何か普通と違って特別に感じるのならいいのだけれど特殊の殊字に異なるという意味を与えてしまったものだからそれが素晴らしく良いものと捉えられなくなっていて困ったことに気を付けなければいけないことがたくさんある。特殊仮名遣いは素晴らしい祖先の工夫であったのであるから最高に評価したい。仮名遣い奥の山路はそういう気持ちでまず命名したと思うのだけれどうがちすぎだろうか。後世、これを仮名遣い研究史上一発見としたのは、非常に珍しい、非常に価値があるということであったようだから、この言及について素晴らしいことなのである。
いまいちど古代国語の音韻について http://www.wattpad.com/59669--?p=11#!p=13 にあるところを読み返して、この事情を知るものは#31を読み通してみればいい。
それを特殊と名付けたのは特殊でないものがあるからだろうけれどその命名は正しかったかどうか、特殊でない普通はもっと特殊であったように見えるからだし、まして漢字の発音をいくつもの違う文字で書き表しながら、同じ発音だという方がどう考えてもおかしいわけである。こんなことを言い出すと祖先の遊びを冷やかすようなもので、何を言っているかというと、万葉集という歌集がすべて漢字で書かれているなどと言って、それを教養ある人々にどれほどの真意が伝わるか、怪しいものだ。
まして上代特殊となる仮名遣いのことはそれを書き記した人たちにはごく普通のことであってたぶんずいぶんと工夫をして見せたのであるけれどそれがなにを表していたかということは言語上の現象であることを通り一遍に理解することも困難だろう。万葉集には漢文書きがあって、日本漢文のようなところもまま見えて、和歌というのはすべて漢字で書いているけれどその書き方に何種類もあって一見してこれは漢字の書物となるような楷書書きでとらえる現代の古典文学だからいたしかたなく、それに見られた特殊とはなんであったのか。
特殊を聞けば日本語の語感で何か普通と違って特別に感じるのならいいのだけれど特殊の殊字に異なるという意味を与えてしまったものだからそれが素晴らしく良いものと捉えられなくなっていて困ったことに気を付けなければいけないことがたくさんある。特殊仮名遣いは素晴らしい祖先の工夫であったのであるから最高に評価したい。仮名遣い奥の山路はそういう気持ちでまず命名したと思うのだけれどうがちすぎだろうか。後世、これを仮名遣い研究史上一発見としたのは、非常に珍しい、非常に価値があるということであったようだから、この言及について素晴らしいことなのである。
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