空間批評―時評7
週間日本語教育批評43号―49号
日本語教師は職業か、このテーマ連載が空間批評Fで読者を巻き込んで論じられている。エッセイとしている向きがあり、このメルマガの言うエッセイはその姿勢があるようだから、主張とするところはどこにあるか。日本語教師を職業とする人がいるわけであるから、批評の筆者たちも自称、日本語教師であるはずだから、それを職業とするかどうかはその方々の認識にかかわる。それをとやかくはたから言う筋合いはまずない、と思うので、その場にいる人が自らの境遇を顧みずに職業云々をするのは職業とする人たちへの、その物言いによっては冒涜になる可能性がある。
日本語教師が生き方であって、まさか、死に方ではないだろうというまぜっかえしをしてもよいが、すくなくも逆説的な言を弄したとして、日本語教師は職業ではないと明言するひとがいるなれば、それは誤解を伴わないように、名言でない迷いごとであるにすぎないので、ことば遊びを控えなければならない。日本語教育が専門であると言い、日本語教育の実践を語って収入を得ているなら、それはなんの職業だろう。その言には気を付けなければならないことに詭弁がわなとされるので、そういう可能性があると考えた方がよいので、深く立ち入ることをしないのが賢明だろう。
>大学で日本語が教えられるということに喜びを感じていた。今となっては、浅はかだったと思うが、自分がステップアップしたような心持であった。
大学の日本語センターで6コマ、日本語学校で2~4コマ授業を担当した。それで、大体一カ月に13~14万円ぐらいの収入だった。休み中は、当然、無給になった。日本語教師で食っているとは、言い難い状況に変わりはなかった。
> 個人の中における知的財産は、現在の技術においては誰からも盗まれることがないものである一方、
それ自体には何ら価値を持たないことは事実だろう。しかし、それらを司ることで、また新たなものを構築できる無限の可能性を秘めたものだとも言える。またそれは、たとえ身の回りのものすべてを失ったとしても、決して自分の中から消え去るものでもない。それらのことを意識して語っていたかは分からないが、自分の経験から「人に盗まれないもの」を手に入れたと語る蔭山氏からは、無限の可能性を秘めているというオーラを、やはり感じずにはいられなかった。 43号
>私がなった常勤契約講師とは、この委託されたプログラムをコーディネートする役職であった。そのため、日本語センターに勤務し、日本語センターが提供するプログラムを運営していながら、大学ではなく、会社に所属しているという複雑な立場だった。 43号
>日本語センターが大学グループに属する株式会社に委託したプログラムをコーディネートする役職であった。ところが、この業務委託が同一労働同一賃金の観点から見て問題があるということが明らかになった。その結果、業務委託は、1年間で解消され、当該のプログラムは、再び日本語センターにより、管理・運営されることになった。業務委託の解消そのものは、適切な措置であったと思う。日本語センターが提供するプログラムは日本語センターによって管理・運営されるのが正常な状態であり、むしろ業務委託している状態が普通ではなかったのである。 44号
>しかし、時は過ぎ、任期は確実に訪れる。2012年3月、私は常勤インストラクターの任期を満了し、定収入のある職を失った。同時に進む方向性も見失った。そして、またしても、どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるのかという問いと向き合わざるを得なくなった。 45号
「俺、日本語の先生になりたかっただけなんやけどなあ。
大学院とか、研究とか、そういうの
どこの国の話やねんっていう感じやったんけどなあ」
>ところが、日本語教師の場合、必要な資格を取得し、いくら下積みを重ねたところでその技術によって生計が立てられるようになるという段階は訪れない。仮に、ある技術を提供することにより、対価を得、その対価により生計を立てられるような営みを職業であるとするならば、日本語教師は職業ではない。 46号
> もちろん、好きなことだけやって生計を立てている人は少ない。しかし、だからといって、好きなことをやっているのだから、貧しくても仕方がないと自虐的になる必要は全くない。まず、自分が何が嫌で、何ならあまりストレスをなくできるのかを考える必要がある。その上で、嫌ではない何かをやりつつ、生計が立てられたほうがいい。 47号
>職業としての日本語教師というテーマに関し、次の三つの観点で論じることで本連載のまとめとしたい。
1.日本語教師になるとはどういうことか
2.日本語教師はどうすれば苦しみから逃れられるか
3.職業としての日本語教師とは何か 48号
>今考えれば、私自身は、職業と仕事の区別があまりついていなかった。今回の連載は、そういう愚かな人間が自分にとって仕事/職業とは何かをいろいろと愚かな経験をしながら考え続けた記録としても読めるかもしれない。 49号
週間日本語教育批評43号―49号
日本語教師は職業か、このテーマ連載が空間批評Fで読者を巻き込んで論じられている。エッセイとしている向きがあり、このメルマガの言うエッセイはその姿勢があるようだから、主張とするところはどこにあるか。日本語教師を職業とする人がいるわけであるから、批評の筆者たちも自称、日本語教師であるはずだから、それを職業とするかどうかはその方々の認識にかかわる。それをとやかくはたから言う筋合いはまずない、と思うので、その場にいる人が自らの境遇を顧みずに職業云々をするのは職業とする人たちへの、その物言いによっては冒涜になる可能性がある。
日本語教師が生き方であって、まさか、死に方ではないだろうというまぜっかえしをしてもよいが、すくなくも逆説的な言を弄したとして、日本語教師は職業ではないと明言するひとがいるなれば、それは誤解を伴わないように、名言でない迷いごとであるにすぎないので、ことば遊びを控えなければならない。日本語教育が専門であると言い、日本語教育の実践を語って収入を得ているなら、それはなんの職業だろう。その言には気を付けなければならないことに詭弁がわなとされるので、そういう可能性があると考えた方がよいので、深く立ち入ることをしないのが賢明だろう。
>大学で日本語が教えられるということに喜びを感じていた。今となっては、浅はかだったと思うが、自分がステップアップしたような心持であった。
大学の日本語センターで6コマ、日本語学校で2~4コマ授業を担当した。それで、大体一カ月に13~14万円ぐらいの収入だった。休み中は、当然、無給になった。日本語教師で食っているとは、言い難い状況に変わりはなかった。
> 個人の中における知的財産は、現在の技術においては誰からも盗まれることがないものである一方、
それ自体には何ら価値を持たないことは事実だろう。しかし、それらを司ることで、また新たなものを構築できる無限の可能性を秘めたものだとも言える。またそれは、たとえ身の回りのものすべてを失ったとしても、決して自分の中から消え去るものでもない。それらのことを意識して語っていたかは分からないが、自分の経験から「人に盗まれないもの」を手に入れたと語る蔭山氏からは、無限の可能性を秘めているというオーラを、やはり感じずにはいられなかった。 43号
>私がなった常勤契約講師とは、この委託されたプログラムをコーディネートする役職であった。そのため、日本語センターに勤務し、日本語センターが提供するプログラムを運営していながら、大学ではなく、会社に所属しているという複雑な立場だった。 43号
>日本語センターが大学グループに属する株式会社に委託したプログラムをコーディネートする役職であった。ところが、この業務委託が同一労働同一賃金の観点から見て問題があるということが明らかになった。その結果、業務委託は、1年間で解消され、当該のプログラムは、再び日本語センターにより、管理・運営されることになった。業務委託の解消そのものは、適切な措置であったと思う。日本語センターが提供するプログラムは日本語センターによって管理・運営されるのが正常な状態であり、むしろ業務委託している状態が普通ではなかったのである。 44号
>しかし、時は過ぎ、任期は確実に訪れる。2012年3月、私は常勤インストラクターの任期を満了し、定収入のある職を失った。同時に進む方向性も見失った。そして、またしても、どうすれば日本語教師として生計が立てられるようになるのかという問いと向き合わざるを得なくなった。 45号
「俺、日本語の先生になりたかっただけなんやけどなあ。
大学院とか、研究とか、そういうの
どこの国の話やねんっていう感じやったんけどなあ」
>ところが、日本語教師の場合、必要な資格を取得し、いくら下積みを重ねたところでその技術によって生計が立てられるようになるという段階は訪れない。仮に、ある技術を提供することにより、対価を得、その対価により生計を立てられるような営みを職業であるとするならば、日本語教師は職業ではない。 46号
> もちろん、好きなことだけやって生計を立てている人は少ない。しかし、だからといって、好きなことをやっているのだから、貧しくても仕方がないと自虐的になる必要は全くない。まず、自分が何が嫌で、何ならあまりストレスをなくできるのかを考える必要がある。その上で、嫌ではない何かをやりつつ、生計が立てられたほうがいい。 47号
>職業としての日本語教師というテーマに関し、次の三つの観点で論じることで本連載のまとめとしたい。
1.日本語教師になるとはどういうことか
2.日本語教師はどうすれば苦しみから逃れられるか
3.職業としての日本語教師とは何か 48号
>今考えれば、私自身は、職業と仕事の区別があまりついていなかった。今回の連載は、そういう愚かな人間が自分にとって仕事/職業とは何かをいろいろと愚かな経験をしながら考え続けた記録としても読めるかもしれない。 49号