日本語が日本「誤」であるというコラムは、文字の遊びであるが、コラムの連載を読み通していくと日本語が日本誤であると思わされてしまう。説明の論理が、コラムの日本誤という間違いであることを言うためにつくられるので、それに従えばすべて間違っているというわけである。わたしたちがおこなう操作で気を付けなければならないことで、誤りの論理を現象に当てはめれば、その現象で見えてくることはすべて誤りとなる。それは自らが立てた理屈に自らが縛られていることになる。
しかしまた、その正しさを言うためには、その論理で証明できる例を挙げることになる。誤用例が誤用であることの証明である。その語が用いられた文脈で正しいか、誤りかを検証することである。人々が使う言葉遣いにはその使い手の用法がある。それはまた多くの人々が使う用法でもあるので、おのずと間違った、間違っている使い方は淘汰される。したがって用例の採集は重要なことである。作例に頼らずに言語の現象をありのままに見つめることである。
しかしまた、その正しさを言うためには、その論理で証明できる例を挙げることになる。誤用例が誤用であることの証明である。その語が用いられた文脈で正しいか、誤りかを検証することである。人々が使う言葉遣いにはその使い手の用法がある。それはまた多くの人々が使う用法でもあるので、おのずと間違った、間違っている使い方は淘汰される。したがって用例の採集は重要なことである。作例に頼らずに言語の現象をありのままに見つめることである。