日本人が敬いを持つことは社会を形成してきたあらわれである。豪族貴族社会に皇族を生み出して、そこには、まれ人の社会があった。稀人、客人であるが、それはまた迎えるものでもあった。うやむやに、恭しくする儀礼である。のちに、武力による権力が封建社会に引き継がれた尊敬は、そのままに庶民の社会にあらわれるようになる。敬語表現は尊敬と謙譲をもって言語に見るようになる。そこに丁寧を加えたの庶民から民衆へと遷る時代と社会の流れであった。敬いは日本人のもとにあった個性である。それはまた、個々人のたしなみとして近代社会に展開を遂げる。個を尊重し、遠慮することは、うやまいとして人々に備わるものとなる。まろうどの受け入れは、敬譲として、日本人の寛容にある。
日本国語大辞典
まれ‐びと 【客・賓】
(「まれひと」とも。稀(まれ)人の意)
「まろうど(客)」に同じ。
*あさぢが露〔13C後〕「たれぞととはすれば、これにまれ人のおはするといはすればあやしくて」
*徒然草〔1331頃〕二三一「まれ人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも」
*日葡辞書〔1603〜04〕「Marebito (マレビト)〈訳〉客人、つまり、外来者」
語誌
(1)「まれ」が他の語を下に伴って複合語を作るときの形「まら」に「ひと(人)」の付いた「まらひと」が古形。中古には音便化して「まらうと」(後に「まらうど」とも)の形で用いられたが、中世には語源が分かりにくくなったため「まれひと」が並用された。
(2)折口信夫によれば、古代、この世に幸福をもたらす霊物の住む海の彼方などの異郷から、時に応じて来臨するものが常世神をいう「まれびと(まれびと神)」で、これに対する信仰が日本の民族信仰の根幹をなすという。
日本人の個性 2016-10-20――再録
日本人を語るのにその性質は何か。ま本質を問うことがある。そのひとつに、個性をとらえる。個は集と対比される。あるいはほかの個との対比である。それを個として自覚するのはたやすいことではない。個は自らにあって、それを知ることは、たとえば鏡に移る姿を見てあれこれと思うほかはない。そこに写る自己はそのままである。個性を書くブログに自らを知ろうとして他をまね、近づこうとする努力に限界をもって、ふと気づきがあったことを述べている。その日本人の個性と思い至ることはなんであったか。
日本人ならだれでもすることと、それを、評価される。そう書いていた。
>自己主張が強い人が多いアメリカで、人の意見を静かに聴き実行する、言われた事、注意された事を、素直に直す事ができるというのは大変な長所として評価されるのです。
>ディレクターが『私はどうしてできなかったかの理由を聞く時間をこれ以上割くつもりはない。典子のように、注意された事にありがとうとひと言だけ言いすぐに直すという行動を皆もしてほしい』 https://sportsbull.jp/p/76421/
米国人が一目置く日本人の個性 このエピソードで対比すると、自己主張と言い訳の時間がそこに浮き上がる。率直であることがそうなると、素直であるかどうかを隠してしまう。日本人が個性的であることは、日本らしさとして、率直で素直であることだと思い知る。いうところの我を抑える、小我と大我であるが、この発想は仏教の教理であるとして、日本人には伝えられてきた。我さきではない、我がわれが、となるのではなく、お先にどうぞ、という気持ちである。
日本人が控えめであることを日本人の個性としてとらえると、その控えめは、かかわることに、自らの努力を習練することの表れとして見ることがある。控えめ の訳語を、
>控え目の英語 ひかえめ self-effacing、retiring、reticent、conservative、cautious、modest、diffident、restrained、moderate http://ejje.weblio.jp/content/控え目
とすると、日本語の語義、控えるという語は、翻訳した概念がとらえにくい。控えめな日本人はとらえがたいことになる。話題とするのは、コトバンクに、控え目 大辞泉、 控目 大辞林 と標出するが、いずれも、遠慮して振る舞うこと、言動を遠慮がちにすること と見えるにで、遠慮という語に関連することになる。日本人が控え目であることは、個性とするには、難しい議論となった。
遠慮はなぜするのか。遠くから慮る、おもんばかり は、おもいはかり 思いをはかること、思慮である。考えをめぐらすことは、遠慮となる。日本人の個性に遠慮を持つのは、思慮があるということである。遠い、遠くからの思慮とはなにか。遠き慮りなき者は必ず近き憂いあり、遠慮なければ近憂あり。論語のことばである。遠くから慮る、遠い思慮とは、近い憂いを招きかねないことを戒める言葉である。人にしてあることは、遠慮を知るということであると、論語は示す。遠慮する 遠慮をしない 遠慮がない 遠慮知らず いずれも日本語でどう受け止めたものであろう。まして、遠慮会釈もない 遠慮がち そして、遠慮深い と用いるのは、遠慮思慮のあるものか、どうか、である。遠慮の語義を、出典に求め、よく学んできた日本人にとって、その個性には、遠慮を得意とする、したのであるが、深いはかりごと、はるか先のことまで深く考えて計画を立てることという、深慮遠謀ともなっている。
敬語を考えると、言葉の特徴であるにかかわらず、日本人の個性に及ぶことになる。いわく、敬語は人間社会の上下を表す、年長者を大事に思う、目上の者を尊ぶ、地位や年齢、資格にかかわる言葉遣いである。封建時代の殿と配下は貴族が時代を作ったことによる武士の支配であった。それは政治力であった。それ以前は豪族が割拠していたとして、そこに外来の言語を入れて、敬語を意識したのである。それは誰であったか、日本人の祖先である、というのはたやすいが、そこでの敬語には神と人との関係で述べることがあったが、それはまた、漢字漢語との出会いである。日本人の個性に敬語があるのはわたしたちの神に対する素朴な思いがあるから、その敬語の解釈に、時代の変遷とともに日本人の自覚がある。
尊重する、隣人の個性を尊重しあう、という一文である。先人、隣人、友人に持つ。それを楽譜に見る、オーケストラの妙である。個性のかかわり方を実現することは、個性を重んじることの現れである。日本語のあいさつを交わす、その一言には、個性の関わり合いを実践する。お気をつけて なのである。
日本国語大辞典
まれ‐びと 【客・賓】
(「まれひと」とも。稀(まれ)人の意)
「まろうど(客)」に同じ。
*あさぢが露〔13C後〕「たれぞととはすれば、これにまれ人のおはするといはすればあやしくて」
*徒然草〔1331頃〕二三一「まれ人の饗応なども、ついでをかしきやうにとりなしたるも」
*日葡辞書〔1603〜04〕「Marebito (マレビト)〈訳〉客人、つまり、外来者」
語誌
(1)「まれ」が他の語を下に伴って複合語を作るときの形「まら」に「ひと(人)」の付いた「まらひと」が古形。中古には音便化して「まらうと」(後に「まらうど」とも)の形で用いられたが、中世には語源が分かりにくくなったため「まれひと」が並用された。
(2)折口信夫によれば、古代、この世に幸福をもたらす霊物の住む海の彼方などの異郷から、時に応じて来臨するものが常世神をいう「まれびと(まれびと神)」で、これに対する信仰が日本の民族信仰の根幹をなすという。
日本人の個性 2016-10-20――再録
日本人を語るのにその性質は何か。ま本質を問うことがある。そのひとつに、個性をとらえる。個は集と対比される。あるいはほかの個との対比である。それを個として自覚するのはたやすいことではない。個は自らにあって、それを知ることは、たとえば鏡に移る姿を見てあれこれと思うほかはない。そこに写る自己はそのままである。個性を書くブログに自らを知ろうとして他をまね、近づこうとする努力に限界をもって、ふと気づきがあったことを述べている。その日本人の個性と思い至ることはなんであったか。
日本人ならだれでもすることと、それを、評価される。そう書いていた。
>自己主張が強い人が多いアメリカで、人の意見を静かに聴き実行する、言われた事、注意された事を、素直に直す事ができるというのは大変な長所として評価されるのです。
>ディレクターが『私はどうしてできなかったかの理由を聞く時間をこれ以上割くつもりはない。典子のように、注意された事にありがとうとひと言だけ言いすぐに直すという行動を皆もしてほしい』 https://sportsbull.jp/p/76421/
米国人が一目置く日本人の個性 このエピソードで対比すると、自己主張と言い訳の時間がそこに浮き上がる。率直であることがそうなると、素直であるかどうかを隠してしまう。日本人が個性的であることは、日本らしさとして、率直で素直であることだと思い知る。いうところの我を抑える、小我と大我であるが、この発想は仏教の教理であるとして、日本人には伝えられてきた。我さきではない、我がわれが、となるのではなく、お先にどうぞ、という気持ちである。
日本人が控えめであることを日本人の個性としてとらえると、その控えめは、かかわることに、自らの努力を習練することの表れとして見ることがある。控えめ の訳語を、
>控え目の英語 ひかえめ self-effacing、retiring、reticent、conservative、cautious、modest、diffident、restrained、moderate http://ejje.weblio.jp/content/控え目
とすると、日本語の語義、控えるという語は、翻訳した概念がとらえにくい。控えめな日本人はとらえがたいことになる。話題とするのは、コトバンクに、控え目 大辞泉、 控目 大辞林 と標出するが、いずれも、遠慮して振る舞うこと、言動を遠慮がちにすること と見えるにで、遠慮という語に関連することになる。日本人が控え目であることは、個性とするには、難しい議論となった。
遠慮はなぜするのか。遠くから慮る、おもんばかり は、おもいはかり 思いをはかること、思慮である。考えをめぐらすことは、遠慮となる。日本人の個性に遠慮を持つのは、思慮があるということである。遠い、遠くからの思慮とはなにか。遠き慮りなき者は必ず近き憂いあり、遠慮なければ近憂あり。論語のことばである。遠くから慮る、遠い思慮とは、近い憂いを招きかねないことを戒める言葉である。人にしてあることは、遠慮を知るということであると、論語は示す。遠慮する 遠慮をしない 遠慮がない 遠慮知らず いずれも日本語でどう受け止めたものであろう。まして、遠慮会釈もない 遠慮がち そして、遠慮深い と用いるのは、遠慮思慮のあるものか、どうか、である。遠慮の語義を、出典に求め、よく学んできた日本人にとって、その個性には、遠慮を得意とする、したのであるが、深いはかりごと、はるか先のことまで深く考えて計画を立てることという、深慮遠謀ともなっている。
敬語を考えると、言葉の特徴であるにかかわらず、日本人の個性に及ぶことになる。いわく、敬語は人間社会の上下を表す、年長者を大事に思う、目上の者を尊ぶ、地位や年齢、資格にかかわる言葉遣いである。封建時代の殿と配下は貴族が時代を作ったことによる武士の支配であった。それは政治力であった。それ以前は豪族が割拠していたとして、そこに外来の言語を入れて、敬語を意識したのである。それは誰であったか、日本人の祖先である、というのはたやすいが、そこでの敬語には神と人との関係で述べることがあったが、それはまた、漢字漢語との出会いである。日本人の個性に敬語があるのはわたしたちの神に対する素朴な思いがあるから、その敬語の解釈に、時代の変遷とともに日本人の自覚がある。
尊重する、隣人の個性を尊重しあう、という一文である。先人、隣人、友人に持つ。それを楽譜に見る、オーケストラの妙である。個性のかかわり方を実現することは、個性を重んじることの現れである。日本語のあいさつを交わす、その一言には、個性の関わり合いを実践する。お気をつけて なのである。