峡谷の会
小康を得た魯国に斉から同盟が申し込まれる。定公は斉に目にもの見せてやると意気込むが、孔丘は斉の景公は魯への野望を捨てていないといさめる。一方、景公は同盟の条件として魯の町4つの譲渡を求めようと考えていた。晏嬰は必死にそれを止めるが……。少正卯から、会盟の場所が斉の領内である夾谷の北の山に決まったと聞いた孔丘は、悪い予感を覚える。いよいよ会盟が始まるが、斉は一方的な条件を突きつけてくる。・・・あらすじ wowオンラインより
「文事ある者は必ず武備あり」(十八史略)
http://blog.livedoor.jp/toshioru/archives/4517405.html
その昔、孔子の生きていた時代に、「斎」の国と「魯」の国がありました。
国王同志(今でいう首脳外交)で「親善を深めよう」となり「峡谷の会」なるものを開きました。
「斎の景公」の策略を見破った孔子は、主君である「魯国の定公」に
「文を事となすには、必ず武を身につけよ。精鋭の近衛兵を引き連れていかれよ」と進言し、「斎が定公を殺す機会を与えませんでした」
(「文事ある者は、必ず武備あり。左右の司馬を備えて以て従わん」ということです)
401. 史記に記された孔子(22) 孔子世家④ 魯国の政治舞台に出る時代
2013-11-21 06:24:14
>
左右の司馬(しば)を具(そな)え、斉候(せいこう)に夾谷に会す。壇位(だんい)を為(つく)り、土階三等(どかいさんとう)、会遇(かいぐう)の礼を以て相見(あいまみ)え、揖譲(ゆうじょう)して登り、献酬(けんしゅう)の礼畢(おわ)る。
斉の有司(ゆうし)趨(はし)りて進みて曰わく、「請う四方の楽を奏(そう)せん」と。景公曰わく、「諾(だく)」と。是(ここ)に於(お)いてせい旄(ぼう)羽祓(ふふつ)、矛戟(ぼうげき)剣撥(けんばつ)、鼓噪(こそう)して至る。
孔子趨(はし)りて進み、歴階(れきかい)して登り、一等を尽くさず。袂(たもと)を挙(あ)げて言いて曰わく、「吾が両君(りょうくん)、好会(こうかい)を為す。夷狄(いてき)の楽、何(なに)為(す)れぞ此(ここ)に於(お)いてせん。請う有司に命ぜん」と。有司之を却(しりぞ)くれども、去らず。即ち左右に晏子と景公とを視る。景公心に炸(は)じ、麾(さしまね)きて之を去らしむ。
頃(しばら)く有りて、斉の有司趨(はし)りて進みて曰わく、「請う宮中の楽を奏(そう)せん」と。景公曰わく、「諾(だく)」と。優倡(ゆうしょう)侏儒(しゅじゅ)、戯(ぎ)を為(な)して前(すす)む。
孔子趨(はし)りて進み、歴階(れきかい)して登り、一等を尽くさず、曰わく、「匹夫(ひっぷ)にして諸侯をけい惑(わく)する者は、罪当(まさ)に誅(ちゅう)すべし。請う有司に命ぜん」と。有司、法を加え、手足(しゅそく)処(ところ)を異(こと)にす。景公懼(おそ)れて動き、義の若(し)かざるを知る。
帰りて大いに恐れ、其(そ)の群臣(ぐんしん)に告げて曰わく、「魯は君子の道を以てその君を輔(たす)く。而(しか)るに子(し)は独(ひと)り夷狄(いてき)の道を以て寡人(かじん)に教え、罪を魯君に得しむ。之を為すこと奈何(いかん)せん」と。
有司進みて対(こた)えて曰わく、「君子は過(あやま)ち有れば、即ち謝(しゃ)するに実を以てせよ」と。是(ここ)に於いて斉候(せいこう)、乃(すなわ)ち侵(おか)しし所の魯の鄆(うん)・汶陽(ぶんよう)・亀陰(きいん)の田を帰し、以て過(あやま)ちを謝(しゃ)す。
史記「孔子世家」
解 釈〈世家〉論語講師用副読本 論語普及会
定公は左右の司馬を備えて峡谷にいたり、斉公と会見した。会場には壇位が設けられ、土階が三段であった。両君主は簡略な礼式で会見し、揖譲(ゆうじょう)して壇上に登り、献酬の礼が終わった。
斉人の役人が小走りに進み出て言った。「四方の楽を奏したいと存じます」と。景公が「よろしい」と肯くと、長い羽毛で飾ったせい旄という大旗・雉の羽で飾ったお祓い用の羽祓・長い矛・枝刃のついた戟・両刃の刀・長大な盾をおし立て、太鼓をたたきながらさわがしく進んで来た。
孔子は小走りに進み出で両足を揃えずに階段の一段は昇り尽くさずに、袂を挙げて言った。「わが両君が親睦の会をなさるのに、夷狄の楽などを、どうしてここで奏することをさせ得ましょうや。どうぞ役人に命じて処置されますように」と。斉の役人が孔子を斥けようとしたが、去ろうとせず、孔子は左右に晏子と景公をじっと見つめた。景公は心に恥を感じて、指さしまねいて楽人を退去させた。
しばらくして、斉の役人が小走りに進み出て言った。「宮中の音楽を奏したいと存じます」と。景公が、「よろしい」と言うと、俳優や短小な人たちが戯れながら出て来た。
孔子は小走りに進み出て、片足ずつで階段をいそぎ昇り、最後の段を昇り尽くさないで言った。「鄙賤(ひせん)の身で諸侯をまどわす者は、その罪が誅罰(ちゅうばつ)に該当します。役人に命じて処置させていただきたいのでございます」と。役人は法による刑罰を俳優短小人に加え、手足をばらばらに斬った。景公は恐懼動揺(きょうくどうよう)し、義において魯に及ばないことを知った。
そして帰国してから大いに恐れその群臣に告げて言った。「魯では君子の道をもってその君主を輔けているのに、そちたちはただ夷狄の道をもってわしを教え、魯君に対して非礼の罪を犯させるようにした。これはどうしたらよいだろう?」と。役人が進み出てこたえて言った。「君子は過失があった場合は、実質をもって謝罪します。小人は過失が有ると、文飾をもって謝罪します。わが君がもし、そのことをご心痛なさいますなら、どうぞ飾らずに実質的に謝せられますように」と。そこで、斉侯は前に侵略していた魯の汶水の北方の鄆(うん)・讙(かん)・亀陰の田地を返して、過失の罪を詫びた。
孔子は外交の上で勝利を収めたのです。この時、孔子は五十二歳でした。
宮武清寛
小康を得た魯国に斉から同盟が申し込まれる。定公は斉に目にもの見せてやると意気込むが、孔丘は斉の景公は魯への野望を捨てていないといさめる。一方、景公は同盟の条件として魯の町4つの譲渡を求めようと考えていた。晏嬰は必死にそれを止めるが……。少正卯から、会盟の場所が斉の領内である夾谷の北の山に決まったと聞いた孔丘は、悪い予感を覚える。いよいよ会盟が始まるが、斉は一方的な条件を突きつけてくる。・・・あらすじ wowオンラインより
「文事ある者は必ず武備あり」(十八史略)
http://blog.livedoor.jp/toshioru/archives/4517405.html
その昔、孔子の生きていた時代に、「斎」の国と「魯」の国がありました。
国王同志(今でいう首脳外交)で「親善を深めよう」となり「峡谷の会」なるものを開きました。
「斎の景公」の策略を見破った孔子は、主君である「魯国の定公」に
「文を事となすには、必ず武を身につけよ。精鋭の近衛兵を引き連れていかれよ」と進言し、「斎が定公を殺す機会を与えませんでした」
(「文事ある者は、必ず武備あり。左右の司馬を備えて以て従わん」ということです)
401. 史記に記された孔子(22) 孔子世家④ 魯国の政治舞台に出る時代
2013-11-21 06:24:14
>
左右の司馬(しば)を具(そな)え、斉候(せいこう)に夾谷に会す。壇位(だんい)を為(つく)り、土階三等(どかいさんとう)、会遇(かいぐう)の礼を以て相見(あいまみ)え、揖譲(ゆうじょう)して登り、献酬(けんしゅう)の礼畢(おわ)る。
斉の有司(ゆうし)趨(はし)りて進みて曰わく、「請う四方の楽を奏(そう)せん」と。景公曰わく、「諾(だく)」と。是(ここ)に於(お)いてせい旄(ぼう)羽祓(ふふつ)、矛戟(ぼうげき)剣撥(けんばつ)、鼓噪(こそう)して至る。
孔子趨(はし)りて進み、歴階(れきかい)して登り、一等を尽くさず。袂(たもと)を挙(あ)げて言いて曰わく、「吾が両君(りょうくん)、好会(こうかい)を為す。夷狄(いてき)の楽、何(なに)為(す)れぞ此(ここ)に於(お)いてせん。請う有司に命ぜん」と。有司之を却(しりぞ)くれども、去らず。即ち左右に晏子と景公とを視る。景公心に炸(は)じ、麾(さしまね)きて之を去らしむ。
頃(しばら)く有りて、斉の有司趨(はし)りて進みて曰わく、「請う宮中の楽を奏(そう)せん」と。景公曰わく、「諾(だく)」と。優倡(ゆうしょう)侏儒(しゅじゅ)、戯(ぎ)を為(な)して前(すす)む。
孔子趨(はし)りて進み、歴階(れきかい)して登り、一等を尽くさず、曰わく、「匹夫(ひっぷ)にして諸侯をけい惑(わく)する者は、罪当(まさ)に誅(ちゅう)すべし。請う有司に命ぜん」と。有司、法を加え、手足(しゅそく)処(ところ)を異(こと)にす。景公懼(おそ)れて動き、義の若(し)かざるを知る。
帰りて大いに恐れ、其(そ)の群臣(ぐんしん)に告げて曰わく、「魯は君子の道を以てその君を輔(たす)く。而(しか)るに子(し)は独(ひと)り夷狄(いてき)の道を以て寡人(かじん)に教え、罪を魯君に得しむ。之を為すこと奈何(いかん)せん」と。
有司進みて対(こた)えて曰わく、「君子は過(あやま)ち有れば、即ち謝(しゃ)するに実を以てせよ」と。是(ここ)に於いて斉候(せいこう)、乃(すなわ)ち侵(おか)しし所の魯の鄆(うん)・汶陽(ぶんよう)・亀陰(きいん)の田を帰し、以て過(あやま)ちを謝(しゃ)す。
史記「孔子世家」
解 釈〈世家〉論語講師用副読本 論語普及会
定公は左右の司馬を備えて峡谷にいたり、斉公と会見した。会場には壇位が設けられ、土階が三段であった。両君主は簡略な礼式で会見し、揖譲(ゆうじょう)して壇上に登り、献酬の礼が終わった。
斉人の役人が小走りに進み出て言った。「四方の楽を奏したいと存じます」と。景公が「よろしい」と肯くと、長い羽毛で飾ったせい旄という大旗・雉の羽で飾ったお祓い用の羽祓・長い矛・枝刃のついた戟・両刃の刀・長大な盾をおし立て、太鼓をたたきながらさわがしく進んで来た。
孔子は小走りに進み出で両足を揃えずに階段の一段は昇り尽くさずに、袂を挙げて言った。「わが両君が親睦の会をなさるのに、夷狄の楽などを、どうしてここで奏することをさせ得ましょうや。どうぞ役人に命じて処置されますように」と。斉の役人が孔子を斥けようとしたが、去ろうとせず、孔子は左右に晏子と景公をじっと見つめた。景公は心に恥を感じて、指さしまねいて楽人を退去させた。
しばらくして、斉の役人が小走りに進み出て言った。「宮中の音楽を奏したいと存じます」と。景公が、「よろしい」と言うと、俳優や短小な人たちが戯れながら出て来た。
孔子は小走りに進み出て、片足ずつで階段をいそぎ昇り、最後の段を昇り尽くさないで言った。「鄙賤(ひせん)の身で諸侯をまどわす者は、その罪が誅罰(ちゅうばつ)に該当します。役人に命じて処置させていただきたいのでございます」と。役人は法による刑罰を俳優短小人に加え、手足をばらばらに斬った。景公は恐懼動揺(きょうくどうよう)し、義において魯に及ばないことを知った。
そして帰国してから大いに恐れその群臣に告げて言った。「魯では君子の道をもってその君主を輔けているのに、そちたちはただ夷狄の道をもってわしを教え、魯君に対して非礼の罪を犯させるようにした。これはどうしたらよいだろう?」と。役人が進み出てこたえて言った。「君子は過失があった場合は、実質をもって謝罪します。小人は過失が有ると、文飾をもって謝罪します。わが君がもし、そのことをご心痛なさいますなら、どうぞ飾らずに実質的に謝せられますように」と。そこで、斉侯は前に侵略していた魯の汶水の北方の鄆(うん)・讙(かん)・亀陰の田地を返して、過失の罪を詫びた。
孔子は外交の上で勝利を収めたのです。この時、孔子は五十二歳でした。
宮武清寛