禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

ChatGPTにウクライナ戦争について聞いてみた

2024-12-04 11:04:20 | 政治・社会
≪私≫:
 現在ウクライナとロシアの間で行われている戦争は、西側諸国がウクライナに肩入れしていることもありウクライナは何とか持ちこたえていますが、このままではウクライナは消耗するばかりで国民の窮乏はそっするに余りあります。この戦争はロシア側が一方的に仕掛けたものであり非はロシア側にあることは間違いありません。一番望ましいのは、ロシアが本来の国境線まで引き下がってくれることです。しかし現実的には、プーチンは戦果を得ないまま戦争を止めることはしないでしょう。武力による国境線の変更が望ましいものではないことはもちろんですが、正義のための聖戦を貫くことはいたずらに人命と国富を失わせるだけで、個々人の不幸を増大させるだけの結果に終わりそうです。やはりここは不本意ながらある程度ロシア側に譲歩しながら、なんとか停戦の条件を模索すべきではないでしょうか? ご意見を賜りたいと思います。

ChatGPT≫:
 ウクライナとロシアの戦争は、非常に複雑で痛ましい状況です。ご指摘の通り、ウクライナは西側諸国から支援を受けて一定の抵抗を続けていますが、戦争が長期化すれば経済や民間人の犠牲が増大することは避けられません。ロシアが本来の国境線まで引き下がることを望むのは多くの人々の願いであり、戦争を終わらせるための理想的なシナリオでもあります。しかし、現実的にはプーチン大統領が戦果を得ることなく戦争を止めることは難しいとの見方が強いです。
停戦や和平に向けた道を模索するためには、戦争の終結を目指して現実的な妥協点を見つけることが不可欠です。これは必ずしも「ロシア側に譲歩する」という形でなくても、双方が受け入れ可能な中立的な立場を確立する道を考えることが重要です。たとえば、戦線が膠着している場合、戦争の終結を求める圧力を国際社会からかけることや、ウクライナの領土問題に関して外交的な対話を重ねることが求められます。
ウクライナが最も重要視すべきは、国民の安全と生存であり、戦争が続くことでその状況がさらに悪化する前に、実質的な和平の可能性を探ることが優先されるべきです。国際社会はウクライナへの支援を続けつつも、戦争を終わらせるための道筋を見つけ出す必要があるでしょう。
一方で、譲歩という言葉には慎重さが求められます。ロシア側が領土を得ることを許す形では、将来的な平和が保障されない可能性があり、他の国々や地域にも悪影響を与えることになります。最終的には、ウクライナの主権と領土保全を守ることが最も重要であり、平和的解決に向けた努力は引き続き必要です。
要するに、戦争の終息に向けては、単なる譲歩だけでなく、両国の国民と国際社会が協力し、対話を重ねる中で最も平和的で持続可能な解決策を模索することが必要です。」

≪私≫:
 そうは仰いますが、ロシア側の意志というのは現実的にはプーチンの意志に他なりません。『両国の国民と国際社会が協力し、対話を重ねる中‥』というのは簡単ですが、ロシア国民は現実の世界情勢からは遮断されています。どのようにして対話を重ねることができるでしょうか。具体策の提案をお願い致します。」

ChatGPT≫:
 確かに、ロシア側の意思決定はプーチン大統領の指導のもとで行われており、ロシア国民が現実の世界情勢にアクセスできない状況は、和平交渉を進める上で大きな障害となっています。ロシア国内の情報統制やプロパガンダは、戦争に対する国民の理解を歪め、外交的な対話を困難にしています。そのため、対話を重ねるための具体的なアプローチは慎重かつ段階的に進める必要があります。以下にいくつかの具体策を提案します。

1. 国際的な圧力を強化する

 ロシアの指導層に対する圧力を強化することは、交渉を開始するための一つの方法です。これには、経済制裁の強化や、ロシア国内の支配層に対する外交的圧力が含まれます。国際社会は、ロシアが戦争を続けることによってさらに孤立することを強調し、プーチン政権に対して国内外での政治的・経済的コストを上昇させる必要があります。制裁がロシアの一般市民に直接影響を及ぼす場合、その不満が政権への圧力として働く可能性もあります。

2. 中立的な仲介国や組織の活用

 ロシア政府が交渉のテーブルに着くためには、信頼できる中立的な仲介者が必要です。例えば、スイスやインド、トルコといった国々が仲介者として交渉を進めることが考えられます。こうした国々は、ロシアにとってもある程度の信頼を置ける存在であり、対話を重ねるための枠組みを提供することができます。国連や欧州連合(EU)などの国際機関も重要な役割を果たすことができるでしょう。

3. ロシア国内での「対話の窓口」を開く

 ロシア国内の市民社会や反戦運動と連携し、少しずつ国内世論を変えていく努力も重要です。ウクライナとの和平に向けた動きを促進するためには、ロシア国内で反戦の声を上げる市民やインテリ層を支援することが有効です。これには、ロシアの人権活動家や独立したメディアの支援が含まれます。国外からの支援だけではなく、国内の声を集め、ロシア国民が戦争を終わらせることの重要性を認識するよう働きかけることが、最終的な和平への道を開く鍵になるかもしれません。

4. 情報戦と心理戦

 ロシア国内での情報遮断を乗り越えるために、外部からの情報提供は重要です。例えば、インターネットを通じてウクライナの状況や戦争の実態を伝える手段を強化することが考えられます。VPNや暗号化された通信手段を使って、ロシア市民に対して戦争の現実や和平の重要性についての情報を提供することが一つの方法です。また、反戦デモや市民運動を支援し、その活動を国際的に広めることも、ロシア国内での意識改革に寄与する可能性があります。

5. ウクライナ側の柔軟な姿勢を見せる

 ウクライナ側が譲歩するということではなく、戦争終結に向けた真摯な意図を示すために、ウクライナが戦後の平和的再建を視野に入れた条件を提案することが重要です。例えば、ウクライナの欧州連合(EU)やNATOへの加盟についての柔軟な立場を示すことで、ロシアが一部の安全保障上の懸念を解消できる可能性があります。また、戦争終結後のウクライナの中立的な位置付けを検討することも、交渉の糸口となるかもしれません。これにより、ロシア側にとって受け入れやすい条件が整う可能性があります。

6. 戦争犯罪の責任追及を含む未来の保証

 停戦後の和平条件において、ロシアの戦争犯罪についても適切な責任追及が行われることを保証することが重要です。国際刑事裁判所(ICC)などが関与し、戦争犯罪の加害者を処罰するメカニズムを設けることで、戦争の終結が平和的で持続可能なものとなるよう保証することができます。これにより、ロシア側に対して戦争を継続する理由を弱めることができるかもしれません。
最も重要なことは、ウクライナと国際社会が戦争の終結に向けて積極的に取り組み、ロシアに対して対話を呼びかける姿勢を示すことです。ロシア政府がすぐに交渉に応じるとは限りませんが、これらの具体的な手段を通じて、少しでも和平に向けた道を開く努力を続けることが必要です。

≪私≫:
 一見御尤もなご意見のように思いますが、あなたの具体策に従って粘り強く対話を求めたとして、それが軌道に乗る頃はウクライナの人口が半減していた、というような事態は考えられませんか?

ChatGPT≫:
 確かに、ご指摘の通り、対話を模索する過程でウクライナがさらなる人的・経済的な犠牲を強いられ、人口の減少や社会の壊滅的な状況が進行してしまうリスクは現実的に存在します。そのため、対話を求めるアプローチが長引けば、ウクライナにとって非常に厳しい状況が続き、戦争による破壊が広がる可能性は高いです。
このようなリスクに対してどのように対応すべきか
  1. 即時停戦のための強力な外交圧力 対話が軌道に乗るまでの時間を稼ぐために、ウクライナの犠牲を最小限に抑えるためには、できるだけ早期に停戦を実現する努力が必要です。そのためには、国際社会による一層強い圧力をロシアに対してかけることが求められます。特に、ロシア経済にとって致命的な制裁を科すことや、プーチン政権の国内での支持基盤を揺るがすような措置をとることが考えられます。これによって、戦争を続けることの代償がロシアにとってあまりにも重くなると、交渉を受け入れざるを得なくなるかもしれません。
  2. 早急な人道支援と避難 対話が進むまでの間、ウクライナの民間人に対する即時的な人道的支援が非常に重要です。特に戦闘が激化している地域で、避難民や負傷者を保護するために国際的な支援を強化することが必要です。安全な避難経路を確保するために、国際機関や近隣諸国と連携して民間人を守る体制を強化することが求められます。また、戦後の復興に向けての支援も並行して準備を進めることが重要です。
  3. 即時的な停戦を可能にする外交的な工夫 停戦交渉を進めるためには、停戦条件を両国にとって受け入れやすい形で設定することが重要です。ウクライナが戦争を継続することで自国民に大きな犠牲が生じる前に、国際社会として何らかの停戦条件を提案する必要があります。例えば、ウクライナが一時的に自衛権の行使を制限する(例:領土の一部において非戦闘地域を設ける)ことと引き換えに、ロシアが全面的に軍事行動を停止し、国際的な監視体制を導入するなどの案が考えられます。このようにして、交渉が時間をかけても続けられるようにしつつ、ウクライナの即時的な安全を確保することが最優先です。
  4. 戦争の広がりを防ぐための「地域的」解決策 ウクライナ全土での戦闘が続く中で、ある地域ごとに局所的な停戦を交渉し、その後全体的な和平を目指す方法も考えられます。たとえば、ウクライナ東部や南部の特定の地域で一時的な停戦を実現し、次に広範な停戦へとつなげていく戦略です。これにより、全体の戦争が激化する前に一部地域での暴力を止め、民間人の犠牲を減らすことができます。もちろん、この方法もロシア側の同意が不可欠ですが、国際的な圧力があれば可能性がゼロではありません。
  5. 戦争を続けることの代償をロシアに明示する ロシアに対しては、戦争を続けることの長期的な代償が不可避であることを国際社会が強く示す必要があります。特に、ロシアの経済が戦争によってさらに悪化し、内政的な不安定化が進むことを明示的に警告することが、外交圧力として有効です。ロシアが戦争を終結させる決断を下すためには、戦争が持続的に不利な状況に陥ることを理解させる必要があります。
最終的な選択
戦争の続行がウクライナにとって壊滅的な結果を招く可能性があるため、即時停戦の実現と、その後の和平交渉を進めるためには、非常に迅速な行動が必要です。もし交渉が長引く間にウクライナの人口が半減するような事態が発生すれば、それは外交的手段が十分に効果を上げなかったことを意味し、国際社会としての責任も問われることになるでしょう。
最も重要なのは、戦争を早期に終わらせるためにあらゆる手段を講じ、ウクライナの民間人を守ることです。時間をかける余裕がないという現実を踏まえ、停戦と対話の道を急ぐことが、ウクライナの未来を守るための最良の選択と言えるでしょう。

≪私の独り言≫:ChatGPTに具体策を提案させようとしても本当の具体策は出てこないようだ。

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イスラエルはナチスに似ている

2024-11-02 06:36:53 | 政治・社会
 ガザの全住民をエジプトのシナイ半島の砂漠地帯に移送することを提案するイスラエル諜報省が作成した政策文書の存在が明らかになった。

「ハマスの兵を一人殺すためにはガザの住民を20人殺しても良い。ハマスの将軍を一人殺すためなら200人の住民を殺しても良い。」とイスラエル兵が指導されていたというのは本当らしい。実のところ、理屈さえつけばパレスチナ人はいくら殺しても構わないというのが本音なのだろう。「パレスチナの地からパレスチナ人を排排除する」このような倒錯した考えを抱くイスラエル人は正気だと思えない。

 アーリア人の優越性を根拠にユダヤ人を排除しようとしたナチス、旧約聖書の約束を根拠にパレスチナ人を排除しようとするイスラエル。どちらも自分の都合のよい出鱈目を根拠に無辜の人々を苦しめるという点においてそっくりである。

シオニズムに反対するものすべてをイスラエルは反ユダヤ主義と決めつけるが、ナチス的なものを反ユダヤ主義とするならば、イスラエルこそ反ユダヤ主義の名に値するのではないだろうか。
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どうせ死ぬのになぜ生きる?

2024-10-31 17:30:02 | 哲学
 金閣寺の舎利殿に放火した青年僧は、ある時師匠に「生きる意味」について問うたところ、「意味などない」という答えだったそうだ。もしそのことが放火に至る一因であったとするなら、とても残念なことである。もしかしたら、もっと適切な答え方というものがあったかもしれないが、禅の修行をしている人ならもう少し師の言葉についてきちんと受け止めるべきであったような気がする。

   「人生は無意味」=>「生きることは空しい」
 
 なぜかこのような理屈が成り立ってしまうのが言語による規定の危うさである。 人生そのものが無意味であるというのは至極当たり前のことである。人は生まれて死ぬ、人類は延々とそれを繰り返している。そのこと自体には理由も目的も何もない。ただそうなっているに過ぎないことである。人は自分がなぜ生まれてきたかを知らない。しかし、生まれてきた人は欲望や感情を持っている。そこからいろんな目的や希望が生まれてくるが、それらはすべて具体的に生きることから生じてくるのである。「人生そのものの意味」などという抽象的なものはどこにもないのである。

 その修行僧はその時おそらく不如意な生活を送っていて、かなりの鬱屈を抱えていたのだろう。もう少し自分のおちいっている苦境について、切々と師に訴えればよかったのかも知れない。が、この人にとっては禅寺というのは不運な場だったと思う。浄土真宗やキリスト教寺院であったとしたら事情はかなり違っていたかもしれない。禅道場というのは自ら志を立てて道の為に精進するための場という前提であるからである。だから師は「人生は無意味」という突き放したような言い方をしたのも無理がないのである。その修行僧は自分自身で疑問の正体を見極めるために一層修行に励むか、それとも寺を出て新しい生活をしてみても良かったかもしれない。
 
 「どうせ死ぬのになぜ生きる?」という言葉はどう考えても変な言葉である。生きるのになぜ理由がいるのだろう。おそらく私たちの理性にはなんにでも理由があると思い込んでいるからである。その理由を見出せないと茫漠たる宇宙に放り出されたような不安を感じるのだろう。ただそれだけだと漠然とした不安にとどまるのだろうが、周囲の人とうまく交われない人が会社や学校で不如意の日々を過ごしている場合は、「自分が生きていることの確固とした足場が欲しい」と人は切実に願うようになる。しかし、私たちは欲望を抱えながら既に生きているのだ。いまさら「何のために生きる?」というような抽象的な問いかけに囚われるべきではない。
 
≪もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、私たち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を満たす義務を引き受けることに他ならない。(P.129 フランクル著「夜と霧」 池田香代子訳-みすず書房) 
 
 要は地道に、考えるべきことを考え、なすべきことをなすということなのだろう。金閣寺に放火した修行僧のような境遇に置かれた人にとってはとても難しいことかもしれない。できればよき理解者や教導者に巡り合って欲しいと願う。生きるということはそれ以外に道はないのだから。

19年前、河口湖のカフェで食べたほうとうが美味かった。(記事内容とは無関係です。)
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ドラマ「水戸黄門」について考える

2024-10-25 11:22:19 | 雑感
 時代劇「水戸黄門」は私が大学生の頃始まり、それから半世紀も続いたというお化け番組であります。正直に言うと、当初からこの番組のことを内心では馬鹿にしていました。権威主義的で安っぽい勧善懲悪もの、悪代官の命令に従っている木っ端役人を散々痛めつけたあげく、三つ葉葵の印籠をかざして「ひかえおろう」と見えを切る。はじめから身分を明かしておれば事情を知らない下っ端の役人たちは助さん角さんにどつかれる必要は全然ないわけで、どう考えてもその正義心には底意地の悪さが潜んでいるように感じてしまうのです。そんなわけで、私はこの番組を敬遠しておりました。

 ところが私はこのところ平日の夕方は水戸黄門の再放送を欠かさず見ているようになってしまった。放送のない土日の夜はなぜか物足りなく感じるほどの中毒状態と言っても良いほどなのです。いつもいつもおなじような筋書きで、しかも時代考証もリアリティも皆無で、安直な正義感を満たす軽薄なドラマという見方は変わってはおりません。しかし、面白いものは面白いと認めざるを得ないのです。もしかしたら私が年とったということかもしれません。私の父親は晩年近くなってからは時代劇ばかり見ていました。水戸黄門も欠かさず見ていたはずです。

 年寄になると時代劇が好きになるということはあるのかも知れません。しかし、水戸黄門について言えば私の子供達も結構好きだったようで、私の娘は小学校の修学旅行に行った折、三つ葉葵の紋所が入った印籠のおもちゃを買ってきて悦に入っていたほどです。やはり、老人だけでなく広範な人の心をつかむ普遍性がなければ半世紀も続くドラマにはなり得なかったでしょう。

 「水戸黄門」はどう見ても権威主義的で安っぽい正義感に貫かれたドラマだと思います。それが、全ての人の平等と民主主義を是とする近代精神と相容れないことは明らかです。それでも人々は水戸黄門に快哉をおくる。(私も含めて)人間は民主主義よりも、本当は超越的な立場からものごとを裁断する存在を望んでいるのではないでしょうか? そのような気がしてなりません。天下の副将軍の権威のもとに悪代官一味を懲らしめる。悪代官の命令に従っているだけの木っ端役人まで散々どつきまわしたあげく、印籠を振りかざして「頭が高い、控えおろう!」と土下座させる。それを見て留飲を下げる我々視聴者はやはり底意地の悪いとしか言いようがない。

 私たち人類の長い進化の過程をはほとんどが生存競争のための闘争の歴史でした。生き残るために必要なのは正義か悪かではなく味方か敵かということだったでしょう。リーダーに従って敵は完膚なきまでに叩きのめす。そうやって現在生き残っているのが私たちです。 そのように考えると、人間の平等を目指してプロレタリアート革命を成し遂げたはずの中国、北緒戦、ロシアなどが一向に民主化できないことにも説明がつきます。理性によるイデオロギーはきっかけに過ぎません。「民衆のために」と頑張ってきたはずが、ちょっとした路線対立がもとで血で血を洗うような闘争に発展します。そうした中では生存競争の原理のもとに強力なリーダーのもとに従って敵をぶっ潰すことが至上命題になるのです。対立する勢力を根絶やしにしても,リーダーの権威は残ります。今度はその権威を維持するために、粛清が続きます。結局、社会主義国の統治は権威主義を脱却できないのです。

 問題は社会主義国だけに限りません。森友学園事件に関する財務省文書改ざん問題、兵庫県知事パワハラに関する公益通報問題、いずれも自殺者まで出しています。このような理不尽な事件がなかなかなくならないというより、世間には似たような状況が日常化しているのではないかと考えられます。それは私たちの本性が権威主義に非常になじみやすい、というところからきているのではないかと私は考えています。

 たわいもないはずの水戸黄門からえらいところまで話は飛んできましたが、私たちの本性の中には理不尽なものが潜んでいる、ということは覚えておかなくてはいけないような気がするのです。
 
信州 小布施の喫茶店で(記事とは関係ありません)
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「大谷翔平と力道山」考

2024-10-20 19:08:43 | 政治・社会
 最近のテレビのニュースもバラエティも大谷だらけである。NHKのBSではドジャーズのシーズン中の試合はほぼ全試合放映したし、ポストシーズンの試合は地上波で放送している。おそらくドジャーズの試合の視聴者はアメリカにおいてより日本の方が多いのではないかという気がする。 実を言うと私自身も人後に落ちない大谷ファンであるが、このところの報道ぶりを見ていると些か行き過ぎではないかとも思う。



 なぜ人々はこれほど大谷選手の活躍に熱狂するのだろうか? どうもそれには日本人の田舎者意識が大きく寄与しているのではないかと私は思っている。日本は極東と言われる辺境の島国である。歴史的に見ても、中華や欧米の文明にあこがれ続けてきた経緯がある。そういうコンプレックスがあるために、外国からどう見られているかということがすごく気になるのだろう。だからスポーツ選手の評価にしても、外国においてどのように評価されているかということがとても重要なのである。


 そういう意味で私の知っている日本の最初のスポーツヒーローは力道山である。昭和三十年代の日本は敗戦のどん底からやっと立ち上がって復興の兆しが見え始めた頃であった。極悪な外人レスラーの反則技に苦しめられながら最後は伝家の宝刀空手チョップで叩きのめす、今から思えば実に安直な筋書きだが私たちはそれに熱狂した。戦争に負けてボロボロになった自負心がそれによって癒されたのである。力道山はNWA世界チャンピオンのルー・テーズなどとも互角以上の戦いをして、その実力が世界のトップレベルであることを示した。と多くの日本人は信じていた。当時の人々はプロレスが真剣勝負のスポーツでありショーだとは思っていなかったのである。だから、ほとんどの日本人は、力道山は格闘家として世界のトップクラスの強さを誇っていると本当に信じていた。当時の私たちはそれをとても誇りに思いプロレス中継に熱狂したのである。その熱狂ぶりは現在の大谷選手に対するものよりも大きかったと記憶している。 ただ残念なのは、力道山の存在は日本以外ではそれほど知られていなかったということが事実だということだ。それに彼の出自は現在の北朝鮮であり、その事実が当時知られていればあれほどの熱狂があったかどうかは疑わしい。当時の日本では韓国・朝鮮への蔑視が厳然として有ったからである。力道山人気はあくまで私たちのナショナリズムと強く結びついていたからである。

 日本人は外国人にどのように評価されているかを非常に気にする。そういう意味で大谷選手は掛け値なしのメガ・スターと言ってもよい。今やほとんどの野球好きのアメリカ人が大谷選手のことを超一流選手だと見做しているのは間違いない。インターネットでYahoo USAのホームページを検索すれば、ニュースのヘッドラインにShohei Otani の名が頻繁に出てくる。今までこれほどアメリカ人の注目を浴びた日本人はおそらくいない。大谷こそ日本人が待ち焦がれた本物のヒーローである。MLBの発表によればドジャース対パドレスのナ・リーグ地区シリーズ第5戦の日本における視聴者数は約1300万人だったらしい。その日はダルビッシュと山本の投げ合いということもあって特別日本での視聴率が高かったという事情はあるが、日本においてMLBの試合にこれほどの関心が高いのは大谷あってのことだろう。アメリカの人口は日本の約3倍あるが、おそらくその視聴者数は日本より少なかっただろう。おそらく日本では野球にそれほど関心のない人もトジャースの試合を見ているのである。そこにはやはり、ある程度日本人のナショナリズムがMLBの試合に関心を向かわせているのだろう。

 私はナショナリズムを頭から否定するつもりは毛頭ない。自分の属するコミュニティへの忠誠心はある程度あって当然だと思うし、私自身がそれほど野球に関心があるわけでもないのに、大谷のホームランを期待しながらドジャースの試合を人一倍熱心に見ているのである。しかし忘れてはならないのは、スポーツマンの栄誉はあくまでその人個人に帰するべきものであるということである。大谷がいくらホームランを打とうと、別に日本そのものや私が偉い訳でも何でもない、偉いのは大谷個人である。私はついでに喜ばせてもらっているに過ぎないことを肝に銘じておくべきだと思う。

 最近の大谷選手に対する報道のされ方にもちょっと気になる。大谷の実力は既にゆるぎないものとみんなが認めるところであるからには、もう少し冷静な態度が望ましいと思う。とにかくいろんなデータを引っ張り出してきては、いろんな角度からこれでもかというようなしつこくデータを引っ張り出してきて「これは新記録である」というような報道の仕方は如何なものかと思う。特に「50-50」の記録についてもそれは確かに偉業には違いないが、昨年度から投手に対する厳しいルール改正があったという条件付きで見れば、盗塁数について過去のデータと同じ土俵で比較するのは著しく公平性に欠けることを銘記しておくべきだと思う。あまりに行き過ぎた応援は、力道山の空手チョップに「ヤッタレーッ!」と絶叫したかつての私達のコンプレックスに満ちた顔が重なって見えてくるからである。スポーツに贔屓の引き倒しがあってはその価値が損なわれてしまうだろう。

 もう少し言わせてもらえれば、私はMLBのビジネスライクな考え方が大いに気にくわない。ドジャースのワールドシリーズのチケット料金は一番安い席で15万円、最上の席は300万円以上もすると言われている。はっきり言って馬鹿げている。すでに野球観戦は一般人が家族でこぞって楽しもうというようなものではなくなっている。子ども達を連れてボールパークに遊びに行くという牧歌的な様相はそこにない。これではアメリカの野球そのものの凋落は見えている。MLBは現在はビジネス的に成功しているように見えても、10年先はどうなっているかは分からないだろう。
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