前回記事では、唯一の実在である意識現象が純粋経験であると述べた。しかし、あらためて第一編「純粋経験」を読みだすと多少の戸惑いをおぼえることになる。西田はP.20(※ページ数は岩波文庫版のもの)で次のように述べている。
≪元来経験に内外のべつあるのではない。表象であっても感覚と厳密に結合している時には直に一つの経験である。ただ、これが現在の統一を離れて他の意識と関係する時、もはや現在の経験ではなくして意味となるのである。≫
文中の「統一」を精神統一というふうなニュアンスに受け止める人もいるかもしれない。そうすると純粋経験というのは、いわゆるマインドフルネスの状態における意識状態であるというような解釈に行きつく。おそらく禅を通じて西田哲学に興味を持った人の中にはそういう受け止め方をする人が多いのではないかと思う。しかしここで述べられているのはそういうことではない。もう少しわかりやすく解説してみよう。
私はうどんが大好きで特に大阪屋という店のうどんが気に入っている。店に入るといつもきつねうどんの大盛りを注文する。うどんが出てくると私は一心不乱に食べ始める。だしのよくきいたおつゆ、その熱さ、うま味、香り、こしのある麵の歯ごたえ、のど越し、これらはみな純粋経験である。食べ終わって私は思わずフーッと息を噴き出し大きな充足感に包まれる。その充足感もまた純粋経験である。そこで一息ついた私は「やっぱり大阪屋のうどんは日本一うまい」と心の中でつぶやくのである。西田はこの「大阪屋のうどんは日本一うまい」が意味であるというのである。
ここで西田は一つ勘違いをしているように私には思える。「大阪屋のうどんは日本一うまい」は一つの命題であり既に私の意識とは別の独立したものである。だから「意味(命題)」が純粋経験でないというのはその通りとしても、「大阪屋のうどんは日本一うまい」と考えるあるいは思い浮かべることは私の意識現象であり経験でなくてはならない。P.16に「ヴントの如きは経験に基づいて推理させられたる知識をも間接経験と名づけ、物理学、化学などを間接経験の学と称している。」という表現があるが、意識現象を純粋経験としている立場からすればここで言う間接経験は初めから問題にならない。知識はそもそも命題群であり経験そのものではない、それを間接経験というのは日常語としての「経験」の意味に引きずられているような気がする。知識を生み出す思考は経験であっても、知識そのものは意識からすでに独立したものであり経験ではないということをはっきりさせておきたい。その上で第二編第二章「意識現象が唯一の実在である」の次の一文(p.74)を検討してみよう。
≪しかし意識は必ず誰かの意識でなければならぬというのは、単に意識には必ず統一がなければならぬというの意に過ぎない。もしこれ以上に所有者がなければならなぬとの考ならば、そは明らかに独断である。しかるにこの統一作用即ち統覚というのは、類似せる観念感情が中枢となって意識を統一するというまでであって、この意識統一の範囲なる者が、純粋経験の立場より見て、彼我の間に絶対的分別をなすことはできぬ。もし個人的意識において、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、その同一系統に属するの故をもって一つの意識と考えることができるならば、自他の意識の間にも同一の関係を見出すことができるであろう。≫
「純粋経験には所有者がない」とするのはかまわない。実存的視点においては自他というものは存在しないからである。しかし、なんらかの意識現象(純粋経験)について西田の口から語られれたならば、私はそれを西田個人の意識現象(純粋経験)として受け止める。また、昨日の意識と今日の意識とが独立の意識でありながら、それがともに私の意識であると言えるのは「同一系統に属する」からというような曖昧な理由からではない。ちなみに、カントは次のように述べている。
≪『私は考える』ということは、私が心の中で思い描くすべての像に伴うことができるのでなくてはならない。(中山元訳「純粋理性批判」B132 )≫
「像」というのはかつては「表象」と訳されていたものである。要するに、自分の意識でとらえたものすべてについて、「私は考える」ということが伴い得るというのである。「伴い得る」というのは、いつもいつも私が前面に出ているわけではないからである。われわれを忘れて友人と殴りあいの喧嘩をしていたということがあるかもしれない。しかし、喧嘩をしていたのは自分であるということは分かっていて、それを反省することができる。それが「『私は考える』ということが伴い得る」という意味である。なにが重要かと言うと、「私は考える」ということを軸に人格の同一性ということが保たれると言っているのである。「同一系統に属する」という理由で、自他の意識の間に同一の関係を見出すことは少々乱暴に過ぎると思うのである。 あくまで純粋経験を云々出来るのは実存的視点においてのみであって、純粋経験について他者と客観的に語り合うことは出来ないのである。他人が「痛いっ!」と叫んだとしても、私にはその痛みそのものを純粋経験として受け止めることはできない。その時の私には、他人の痛みを想像する痛みとその人に共感する思いが純粋経験として有るのみである。
禅では自他不二ということがよく言われる。これは禅的視点が実存的視点であるからである。実存的視点というのは平たく言えば自分の肉眼からの視点である。見えるものだけを見、感じるものだけを感じる、それ以外のものを見たり感じたりしない。つまり推論や解釈を除外した直接経験だけの視点が実存視点である。自分の眼には自分は写らない。鏡のない世界でそして何も教わらないで育ったなら、自意識というものも産まれないだろう。他者と同じような存在である自分という概念は、他者との言語による交流からの推論の上に初めて立ち上がるものである。だから思考による推論や解釈の結果である「意味」というものがない純粋経験の世界には自他は存在しないのである。ところが、なぜか西田は推論や解釈の結果である思想のようなものを純粋経験に含めたがっているように思えるのである。P.101では下記のように述べられている。
≪個人の意識が右にいったように昨日の意識と今日の意識と直に統一せられて一実在をなす如く、我々の一生の意識も同様に一と見做すことができる。この考を推し進めて行く時は、ただに一個人の範囲内ばかりではなく、他人との意識もまた同一の理由によって連結して一と看做すことができる。≫
西田は純粋経験を各人の枠を超越して一つのものとして発展していくものと考えたいようである。まるで手塚治虫の「火の鳥」におけるコスモゾーンを連想させるのであるが、そのような考えが宗教的ロマンチシズムをそそる以上の意義があるのかどうか?
何度も言うが、思想は推論と解釈による成果物であり西田のいうところの「意味」である。決して純粋経験ではありえない。西田の思想の根底を支える禅仏教から見れば、いかなる思想も空でしかない、決して真理にはなり得ないのである。「意味」である思想を純粋経験の発展形であるととらえた時点で西田現象学は哲学的に破たんしているように私には思える。
西田哲学についてはいつかまた取り上げたいと思いますが、ここで一旦「禅的現象学」は終了致します。
ただ、もしあるとすればそれらの前提をもはや必要としない、前提としての意味がない状態に直面した時ではないでしょうか。
>省察してみれば多種多様な意味や知識によって構成された文脈を前提にしているわけですから、純粋経験とは言い難いでしょう。
第一編第二章「思惟」では思惟も純粋経験の一種であると西田は述べています。「多種多様な意味や知識によって構成された文脈を前提」としない思惟などあり得るはずもないと思います。
要は只今即今ということだと思います。現前している意識現象だけを純粋経験とすべきと考えます。
逆に、現前しているものを「~を前提としている」という理由で純粋経験から除外するなら実在世界に空白が生じ、≪純粋経験を唯一の実在とし全てを説明したい≫と言う目論見は不可能になるでしょう。