前回記事において、私は次のように述べた。
「あるがまま」とは一切の概念のフィルターを通さないでものを見るということである。
人はものを見ると解釈しようとする。そしてこの世界に経験により得た概念の網の目をかぶせようとする。それが客観的な世界把握である。この場合の客観的というのは科学といってもよいだろう。たいていの人はそれが真実に至る道筋であると考えている。
しかし、禅者の視点はそうではない。禅者にとっての世界とは客観的なものではなくとことん実存的なものである。「柳は緑花は紅」という言葉は、現前に繰り広げられるありありとした光景を意味する。「柳は緑」、それは当たり前のことである。実に当たり前のことを言っているのだが、その当たり前の中に、解釈を拒絶する、究極にして始原の世界を見ているということなのだ。
「あたりまえ」のことならなにも難しい話ではない、誰もがこの世界を当たり前に見ているはずである。難しいというのはあまりにも当たり前だからだろう。実際に人は世界をあるがまま見ているのである、ただそれを自分の世界観として把握するのが難しいのだ。それを論理的に説明することは難しい、当たり前のことだから論理などないのである。一気に了解しなければならない。絶対矛盾的自己同一というのはそういう趣旨の言葉であると私は認識している。
私たちは何にでも理由を求めたがる。それが科学を推進する原動力となる。科学は進歩して、この世界がビッグバンから生まれたことを教えてくれた。
しかし、そのような説明で自分の存在について納得できるだろうか?
ビッグバン説は、世界が「このよう」であるからかつては「こう」だった、と言っているにすぎない。「このよう」なものがかつて「こう」であったと推論しているだけの話である。科学による説明は次のように循環している。
「このよう」なもの --> かつて「こう」であった
かつて「こう」であった --> 「このよう」になる
科学はすべて、現実からの帰納に端を発している。それは未来や過去を推論するための方便であって、世界が「このよう」であることの哲学的説明をするものではないのである。
万有引力があるからリンゴが落ちるのではなく、リンゴが落ちるから「万有引力がある」と仮定しているのである。いくら科学が進歩しても、「なぜ引力があるのか?」に答えることはできない。リンゴが落ちたということは究極の事実であって、そのことに対する根源的な理由は存在しない。(参照=>「空はなぜ青いのか? 」)
西洋的な思考法に慣れた人には、「根源的な理由は存在しない」というような考え方は受け入れにくいものであろう。その存在論的な不安をテーマとして描かれたのが、サルトルの「嘔吐」という小説である。主人公のロカンタンはその不安を「偶然性」という言葉で表現する。この世界が「このよう」である必然性がない、「無根拠」であるという意味である。無根拠であるから、「自分は不必要な人間だ」と言ったり、存在自体がグロテスクであると感じるようになり、やがてはマロニエの根っこを見て激しい吐き気を催すようにまでなってしまった。
「存在の根源的理由の有りや無しや」という問いかけは、臨済禅における法身の公案に似ている。例えば初関として与えられることの多い「隻手音声」という公案は、ふつう柏手は両手でポンと打つところを片手で打つ、そしてその音を聴けというのである。不可能というかそもそも問題として成立していないような無茶ぶりになにがなんでも答えよ、というのが公案なのである。
このような公案に苦しめられた禅者にとっては、「存在の根源的理由」などという設問はたわごと以上のものではあり得ない。禅者にとって「このよう」な世界は唯一究極の世界であるから、それをしっかとうけとめて生きていくしかないからである。
(つづく)