禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅とプラグマティズム

2014-08-28 10:19:50 | 哲学

はるか大昔、高校の倫理社会の授業で「プラクマティズムとは結果重視の実用主義である」というふうに習ったような気がする。それで、アメリカに効率重視の資本主義が発達したのかと納得したものだ。それでなんとなく、プラグマティズムには底の浅い実践主義のようなイメージを持っていた。おそらくそれは私だけのことではなく、世間一般にも「白い猫だろうが黒い猫だろうが問題ではない、ネズミを捕る猫がいい猫だ」というようなのがプラグマティズムだと、広く信じられているのではなかろうか。

ところが、ウィリアム・ジェイムズはプラグマティックな方法について、次のように表現している。 

≪ 最初のもの、原理、「範疇」、仮想的必然性から顔をそむけて、最後のもの、結実、帰結、事実に向かおうとする態度なのである。 ≫ (「プラグマティズム」ウィリアム・ジェイムズ著 桝田啓三郎訳)

 これは現象学や禅に通じる真理観でもある。決して浅薄な実用主義というようなものではない。我々はとかく必然性というものにとらわれすぎる。

ニュートン以来、人は万有引力があるからリンゴが落ちると信じている。それが、最初のものとしての万有引力から原理的にこの世界を解釈しようとする態度である。しかし、プラグマティストは最後のものである「リンゴが落ちる」という事実に着目する。
「万有引力があるからリンゴが落ちる」のではなく、「リンゴが落ちるということから、万有引力があると推定している」のである。そこにあるのは「リンゴが落ちる」という事実だけなのだ。

万有引力の法則というのは、あくまで「リンゴが落ちる」という事実が続いている限りにおいてのみ有効である近似的真理に過ぎない。仮想的必然性というのはそういう意味である。我々は仮想的必然性を信じる。それは致し方ないことではある。無限に相次いで生じる特殊な現象をいちいち調べるわけにはいかないからだ。

万有引力の法則のようにシンプルで美しく、そして現在まで我々を裏切らない法則は、無意識のうちに「真理」として受け入れてしまいそうになるが、プラグマティズムはそれを(真理としては)拒否する。哲学的にはあくまでそれは仮説という名の仮想的必然性に過ぎないと主張するのである。

ケーススタディとして、「頭がいい」という言葉の意味を考えてみることにしよう。ある人は次のように言うかもしれない。

「意味不明な言葉について漠然とした論議をするのはバカバカしい。ここはプラグマティックにIQののような測定可能な尺度を導入しよう。」

確かにそれも一つのプラグマティックな態度といえるかもしれないが、これは誤って敷衍されたプラグマティズムである。プラグマティズムの真意はそういうところにはない。

「頭がいい」という意味をプラグマティックに考えるということは、「頭がいい」という言葉が結果的にどのように働いているかを見るということに他ならない。プラグマティズムはあくまで結果に着目するのである。つまり、「頭がいい」という言葉がどのような局面で使用されているかを検討することになる。そのように考えれば、「頭がいい」という言葉は多義的な言葉であることがはっきりする。プラグマティズムは多義的な言葉に対して一義的な定義づけすることはしない。あえて「頭がいい」の意味をいうなら、特殊な使用例の一々を包括したものがその意味である。

プラグマティズムは決して浅薄な実用主義なんかではない。透徹した真理観であるということがご理解いただけただろうか。

禅はプラグマティックな宗教であるとよく言われる。禅もまた結果重視の真理観を持つからである。「あるがまま」というのは、現前している結果をそのまま受け入れるということに他ならない。

以前取り上げたことのある公案、無門関の第29則「非風非幡 」をふりかえってみよう。

 風にはためいている幡(はた)を見て、二人の僧が言い争っていた。

   僧A 「あれは幡が動いているのだ。」

  僧B 「違う風が動いているのだ。」

 そこにちょうど、六祖慧能が通りかかり、次のように述べた。

    「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない。

    お前たちの心が動いているのだ。」

 さらに「無門関」の編者である無門慧開が次のような解説を加えている。

    「風が動いているのではない、幡がうごいているのでもない、

    心が動いているのでもない。六祖の真意は何処か?」

僧A,Bの云っていることはあまりに稚拙なので少し話が分かりにくいが、一応彼らは科学的分析を試みているのである。つまり、「仮想的必然性」で今見ている光景を説明しようとしている。

それをたしなめる六祖慧能の言葉には二つの意味が込められている。まず一つは、己事究明に専心すべき禅僧がくだらないことで言い争っている、それを心が動いている(ふらついている)と形容した。

もう一つは、二人の僧が同じ光景を見ながら、つまり同じ事実認識を持ちながら言い争っているそのことが、禅のプラグマティックな真理観に背いているからである。「風にはためいている幡」を見れば、それをそのまま事実として受け入れる以外の態度は禅僧にはあり得ない。たとえ議論の結果、「風が動いている」または「幡が動いている」という結論がもたらされたとしても、禅的には余計な言葉が増えただけの話で、なんら「知識が充実された」ということにはならない。

最後の無門慧開の反語的コメントは、現前する不動の真理を読み取れという意味に他ならない。


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