禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

空即是色とはなにか?

2014-11-15 16:05:35 | 哲学

色即是空の「色」というのは我々が認識できるものすべてのことを意味する。目の前にある石ころも、街の騒音も、蕎麦屋の出汁のにおいも、恋人とのデートに出かけるときのはやる気持ちもこれらは皆「色」である。

 「空」については前々回の記事「空(くう)について」において既に述べたが、今回はもう少し存在論的な観点から見てみよう。

目の前にある石ころを見て、私たちはそれが確かにそこに「ある」と確信する。その事実は誰が見ても動かしがたい絶対性に支えられていると感じるのである。

しかし現代科学の知識によれば、決して我々はその石ころそのものを見ているのではないということになる。石の表面で光が反射して、その光が私たちの瞳の中の網膜にあたり、その結果視神経を刺激して脳の中でイメージが構成されている、ということになる。

つまり我々が見たり聞いたりしているのは、そのものではなく意識に生じた像であるということだ。だとすると「すべては意識現象である。」ということになる。「色即是空」というのはこのことを感覚的に表現したものだと私は考えている。

では、「すべては意識現象である。」と言ったところでどのような意義があるのであろうか、それは如何なるものの絶対性を認めないというところにある。ものごとに執着しない。固定的なものの見方をしないでダイナミックな視点を持て、というようなことであろう。

それでは、「空即是色」というのはどういうことであろうか。「色即是空というのは分かるが空即是色というのはよくわからない。」という人は多い。いろんな解説を読んでも、「色即是空」と同じような意味の対句としてしかとらえていないのではないかと思うようなものもある。ここはひとつ踏み込んだ解釈をすべきだと私は思うのである。

ただ「すべては意識現象である。」と言い放っただけでは、我々の見ているものはみんなまぼろしだ、と言ったようなニュアンスになってしまう。意識現象という言葉自体が、それを触発する実体が別のところにあることを前提とする言葉である。仏教でいう「空」はそういうものではない。空とは言っても、それはありありとした「色」としてあらわれているのである。

西田幾多郎の「善の研究」の中に「意識現象が唯一の実在である。」という章がある。これが「空即是色」に相当する言葉である。目の前の石ころは確かに意識現象である。意識現象ではあってもありありとした現実なのである。西田のいう「意識現象」はその背後にある実体などを前提としない、唯一の実在である。我々は決して光を媒介として石ころを見ているのではない。それはそのままの「真理」としてそこにある。「柳は緑花は紅」というが、それは当たり前の光景の中に真理があると言っているのである。色即是空というのは一種の否定に違いないのであるが、その否定を通した後、当たり前を当たり前として肯定する。そこに「妙」というものが生まれるのである。

色即是空と空即是色は車の両輪であってどちらが欠けてもならない。それらが同時に並立していてこそ、仏教的中庸の視点というものが生まれるのである。

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