「恁麼」とは日常ではまず使われることがない言葉だが、禅関係の書物を読んだ方ならだれでも知っているはずである。禅においてはそれほど重要な言葉である。禅的世界観はこの一語に尽きると言っても過言ではないだろう。
恁麼は「このよう」というような意味である。例えば、「世界とはどのようなものであるか?」と問われた時、禅僧が「恁麼」と答えたとする。その意味は、「世界とはこのようなものだ。」ということである。
別に人をはぐらかそうとしているわけではない。ものごとを突き詰めてみれば、結局は「このよう」としか言い得ないような地点に戻ってくるのである。どのような問いにも「恁麼」と答えておけば、まず間違いがないと言える。
このことの意義を理解するために西洋哲学との比較をしてみよう。例えば「欲望」というものについて考えてみることとする。従来の西洋哲学では、欠如したものを獲得しようとするのが欲望の本質である、というようなことが言われていた。それに対して、ドゥルーズやガタリは、欲望とはあくまで実在的な生産過程である、というようなことを言う。どちらが正しいのかということはここではさほど重要ではない。西洋的な発想というのは、欲望を分析してその構造がどうなっているかを比喩的な言葉で表現しようとしているということを言いたいのである。
欲望を比喩的な言葉でとらえようとするのは、心理学としての学問には有益なことかもしれない。そのことはさておいて、究極的には「欲望」をどのような言葉に置き換えたとしてもそれは「欲望」そのものではないと考えるのである。
あなたがある女性を好きになったとする。あなたは「私の欠如しているものを彼女の中に見出してそれを求めている」と表現するかもしれないし、それとも「彼女に対して私のなにもかも捧げつくしたい」と表現するかもしれない。どちらでもよい。しかし、どちらも究極的な表現ではない。あなたが彼女に対して感じている衝動は、その衝動そのもの以外ではありえないからである。その欲望についてはあなたはすべて知悉しているはずなのである。すべてはつまびらかであるにもかかわらず、人はときに「愛ってなんだろう?」というようなことを口にする。そういう問いには、「恁麼」と答えるしかない。
雲門禅師というえらい坊さんはその若いころ、茶店で団子を食べようとしていたら、店の婆さんに「貴方は団子を、過去の心現在の心未来の心のうちのどの心で味わうのですか?」と訊ねられて返答できなかった。今味わっている瞬間というのは数学的には過去と未来に挟まれた幅のない点でしかない。訊ねられて、団子を味わっている間がないことに気がついたので答えられなかったのだ。
しかし、団子は食べればうまいのである。雲門は団子をほおばって、ただ「恁麼」と答えればよかったのだ。問われて答えに窮するのは、西洋的な分析癖に毒されているからである。
真実は物事を分析して構造を解き明かしたのちに現れると考えられがちだが、禅的には真実は分析の前にあるのである。