坐禅をすると自分の内と外との境界がなくなっていくと言われる。これは決して神秘的なことについて述べているのではない。そもそも自分の内と外に境界があるのは人間だけであろう。人間以外の動物はおそらく状況の中で自身もまた状況となって生きていると考えられる。
では、なぜ人間には内と外があるのか?
おそらくそれは他者を意識するからに違いない。人間だけが公共の言葉をもち、それによって他者とコミュニケイトする。そのコミュニケーションはお互いに共通の世界にいるという前提で初めて成り立つ。言語によるやり取りはあくまで共通了解を目標としているのであって、そこで語られることはお互いが持つ共通の世界のことなのである。その時点で初めて自分の内と外を意識することになる。
自分と他者が共通に持つ視界を「外」、自分には見えるが他者には見えない視界を自分の「内」、他者には見えるが自分には見えない視界を他者の「内」とするのである。
自分の内と外、他者の内と外、それらの境界はコミュニケーションの中で自然と生じてくる。なぜなら公共の言語は本来、共通の視界のものについてしか語りえないからである。であるから、本来は語りえない「自分の内」を語るには、他者と自分の「内」に同型が存在するという前提で、他者と自分の「共通の『内』」として語るのである。それは「『他者としての自分』を語る」と言い換えてもいいだろう。
「客観」とは万人共通の視点から見たものと言う意味だろうが、実はそんなものはあり得ない。はるかかなたの虚空から、自分も他者をもすべて見下ろす神の視点を想定して、それを「客観」と呼んでいるのである。
その客観視線で自分や他人を見つめれば、その中に「同型」が見える、というのはあくまで想定に過ぎないが、そう想定することによってはじめて「心理学」が成り立つのである。心理学だけではない、この客観的視点による世界のとらえ直しがなければ科学は成り立たない。このことについては考えがまとまったらいつか詳述したいと思う。
およそ「学」というものは言葉により他者に伝えるためのものである。とりわけ自己の深層に分け入る哲学もまた言葉による公共の「学」なのである。本来の自己と言うものはどうしても「語りえないもの」だがあえてその「語りえなさ」について語りまくる。しかし、語った瞬間にそれは「他者としての自己」を語っているということにならざるを得ないのである。どうしてもそこには「英国にいて英国の完全な地図を描く」という問題が生じてくるのである。
禅もまた究極の自己を求めるものである。だとすればそれは「語りえぬもの」であり、不立文字には理由があるのだと理解できる。
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