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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

冷暖自知

2015-03-07 12:11:23 | 哲学

デカルトが「省察」という著書の中で、「熱さは冷たさの欠如か、それとも冷たさが熱さの欠如であろうか。」と述べていたように記憶している。熱さと冷たさが同一尺度の中ではかられるものだということは、経験的に熱さと冷たさを同時に感じることはできないことから、誰にも理解できるだろう。しかし、一方がもう一方の欠如ではないかという発想は、自分ではなかなか思いつかない。甘さの欠如は単に「甘くない」と言うだけのことだし、辛さの欠如は辛くないというだけのことである。通常の感覚の欠如は別の感覚にはならないのである。やはり、デカルトは科学者として傑出した資質の持ち主ではなかったかと思う。

現代の科学知識では、温度は分子のブラウン運動であるとされている。「冷たさが熱さの欠如である」と決着がついているのである。このような知識を積み重ねていくことが、科学的真理の追究ということである。

本日のタイトルの「冷暖自知」とは、水が冷たいか暖かいかは、自分の手で直接触れればわかる、という意味である。そんな当たり前のことをなぜあらためて言うのだろう。それは、科学的真理の追究とは別の素朴な「世界把握」の仕方を忘れてはならないという戒めでもある。

素朴な「世界把握」の仕方とは、仏教におけるいわゆる「あるがまま」ということである。夏の暑い日に冷たい水を飲んで、「ああ、冷たくておいしい。」と感じた。その時、私は飲んだ水の温度についての十全な知識をすでに得ているのである。ブラウン運動云々の知識はしょせん言葉に過ぎない。いくら言葉を積み重ねても、この水の冷たさは変わらない。決して科学を尊敬しないというわけではないが、仏教的世界観は科学的知識によって揺らぐということはないのである。

駅前のドトールで、「うまい水」というボサノバを聴いていると、いい気持になって取り留めもなくこんなことを考えていた。

 話は変わるが、あるところで「温度が分子によるブラウン運動によるものならば、真空は絶対零度なのだろうか?」と問われた。温度とは物質の状態について言う言葉なので、真空についてそれを言うのはナンセンスである。あえて真空中に温度計が浮かんでいたと仮定してみよう。

それが真空中にあるということは、熱伝導の媒体がないということである。したがって熱伝導による温度の変化はない。熱の移動は放射のみである。真空といってもそれを形成する外壁があるはずだから、その外壁と温度計の間で放射による熱交換がある。一定の時間が経過すれば外壁と温度計の温度は同じになって平衡状態となるはずである。 あえて真空の温度を言うならば、その真空容器の温度と言うことになろうかと思う。

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